「朝刊見たか」
大原からの電話だ。
「なんだ朝っぱらから…」
真田は壁の時計が6時半を指しているのを見ながら言った。
「いいから早く見ろ」
電話の向こうで大原が怒鳴った。
真田はよぎる不安に急かされるように玄関へ走り、新聞受けから朝刊を取り出した。
「経済面だ」
受話器から聞こえる大原の声は、心なしか震えていた。
三信興産 通販事業から撤収
《三信興産は4日、通販事業からの
撤収を表明。同社の通販部門であ
る子会社の株式会社シーシェルを
今年12月までに整理することを明
らかにした。同社は三年前に買収
したシーシェルの業績内容が悪化
し、累積赤字が90億を超え…… 》
その日、定時に仕事を切り上げて、五人は『なか』に集まった。
一週間前から雲隠れして連絡が取れなかった柳瀬から、昼休みに電話があったことを真田は四人に告げた。通販部門の責任者である柳瀬は、撤収の責任を取らされる形で、北海道にある三信興産の関連会社に出向を命じられていた。早い話が、派閥抗争に敗れた末の都落ちである。
シーシェルの業績内容の悪化を隠していたことを責める真田に、ただただ詫びるのみの柳瀬の声には、最初に出会ったときの精彩は微塵も感じられなかった。
あっけない計画の頓挫に、五人はただただ痛飲した。
「これじゃあ、まるで甲子園出場が決まっていたのに、監督の不祥事で出場辞退を余儀なくされた野球部じゃないか」
梶尾が言った。
「野球部なら来年があるからいいさ」
「俺たちにはもう当分チャンスはないな」
「俺、内緒にしてたけど、家買ったんだ」
上島がポツリと言った。
「本当か…いつ?」
「二週間前に引渡しが終わって、今月の末に引っ越す予定だ」
「なんで黙ってたんだよ」
「シーシェルに入社したら、豪勢にお披露目パーティやろうと思ってたんだ」
柳瀬から保証されていた年収倍増を当て込んで、上島は借家住まいにケリをつけ、なけなしの貯金を頭金に、新築の一戸建を買ったという。
毎月20万円、ボーナス月100万円のローン地獄が今後二十年間続くという上島は、とうてい今の会社のサラリーではやっていけないと嘆いた。
上島だけではない。
真田は別れた妻への慰謝料、大原はギャンブルによる多額の借金、カーマニアの梶尾はアルファ・ロメオのローン、三人の年子の父親の川本は将来のこどもの教育費…それぞれに年収倍増には、並々ならぬ期待を寄せていた。
一軒目でつぶれた上島を川本がタクシーで送っていった後、真田は、大原と梶尾を古いショットバーに誘った。
店内には、低音が極端にカットされたスタンダード・ジャズのBGMが流れていた。どこか遠いところから聞こえてくる、懐かしいトランジスタ・ラジオの音のようだった。
カウンターの向こう側の暗い鏡が、今日の疲れを色濃く漂わせた三人を映していた。
「上島みたいに酔えたらいいよな」
大原がピスタチオを玩びながら言った。
「相当ショックだったんだ」
梶尾が鏡に向かって言った。
「ショックは俺たちも同じさ」
大原は言った。
「俺が声さえかけなかったら…」
「おまえのせいじゃないさ」
真田の言葉をさえぎって、大原が言った。
「俺たちは自分自身で納得してこの計画に乗ったんだ。いつの間にか夢を見なくなっていた俺たちに、天が与えてくれた夢だったんだよ。でも夢はいつかは覚めるもんさ」
「浅き夢見し酔いもせずか…」
真田はこれから何年も続く、社史編纂室での自分のサラリーマン生活の秋を想像して暗澹たる気分になった。
大原からの電話だ。
「なんだ朝っぱらから…」
真田は壁の時計が6時半を指しているのを見ながら言った。
「いいから早く見ろ」
電話の向こうで大原が怒鳴った。
真田はよぎる不安に急かされるように玄関へ走り、新聞受けから朝刊を取り出した。
「経済面だ」
受話器から聞こえる大原の声は、心なしか震えていた。
三信興産 通販事業から撤収
《三信興産は4日、通販事業からの
撤収を表明。同社の通販部門であ
る子会社の株式会社シーシェルを
今年12月までに整理することを明
らかにした。同社は三年前に買収
したシーシェルの業績内容が悪化
し、累積赤字が90億を超え…… 》
その日、定時に仕事を切り上げて、五人は『なか』に集まった。
一週間前から雲隠れして連絡が取れなかった柳瀬から、昼休みに電話があったことを真田は四人に告げた。通販部門の責任者である柳瀬は、撤収の責任を取らされる形で、北海道にある三信興産の関連会社に出向を命じられていた。早い話が、派閥抗争に敗れた末の都落ちである。
シーシェルの業績内容の悪化を隠していたことを責める真田に、ただただ詫びるのみの柳瀬の声には、最初に出会ったときの精彩は微塵も感じられなかった。
あっけない計画の頓挫に、五人はただただ痛飲した。
「これじゃあ、まるで甲子園出場が決まっていたのに、監督の不祥事で出場辞退を余儀なくされた野球部じゃないか」
梶尾が言った。
「野球部なら来年があるからいいさ」
「俺たちにはもう当分チャンスはないな」
「俺、内緒にしてたけど、家買ったんだ」
上島がポツリと言った。
「本当か…いつ?」
「二週間前に引渡しが終わって、今月の末に引っ越す予定だ」
「なんで黙ってたんだよ」
「シーシェルに入社したら、豪勢にお披露目パーティやろうと思ってたんだ」
柳瀬から保証されていた年収倍増を当て込んで、上島は借家住まいにケリをつけ、なけなしの貯金を頭金に、新築の一戸建を買ったという。
毎月20万円、ボーナス月100万円のローン地獄が今後二十年間続くという上島は、とうてい今の会社のサラリーではやっていけないと嘆いた。
上島だけではない。
真田は別れた妻への慰謝料、大原はギャンブルによる多額の借金、カーマニアの梶尾はアルファ・ロメオのローン、三人の年子の父親の川本は将来のこどもの教育費…それぞれに年収倍増には、並々ならぬ期待を寄せていた。
一軒目でつぶれた上島を川本がタクシーで送っていった後、真田は、大原と梶尾を古いショットバーに誘った。
店内には、低音が極端にカットされたスタンダード・ジャズのBGMが流れていた。どこか遠いところから聞こえてくる、懐かしいトランジスタ・ラジオの音のようだった。
カウンターの向こう側の暗い鏡が、今日の疲れを色濃く漂わせた三人を映していた。
「上島みたいに酔えたらいいよな」
大原がピスタチオを玩びながら言った。
「相当ショックだったんだ」
梶尾が鏡に向かって言った。
「ショックは俺たちも同じさ」
大原は言った。
「俺が声さえかけなかったら…」
「おまえのせいじゃないさ」
真田の言葉をさえぎって、大原が言った。
「俺たちは自分自身で納得してこの計画に乗ったんだ。いつの間にか夢を見なくなっていた俺たちに、天が与えてくれた夢だったんだよ。でも夢はいつかは覚めるもんさ」
「浅き夢見し酔いもせずか…」
真田はこれから何年も続く、社史編纂室での自分のサラリーマン生活の秋を想像して暗澹たる気分になった。