還暦を過ぎ、はや2年が経つ。
亡くなった両親の寿命から換算すると、あと10年程の命と思われる。
たったの10年だ。
そうなると、自分の死というものを、現実として考えざるを得なくなる。
死というものは不可避であるから、ジタバタしても仕方がない。
子供の頃、死は恐怖以外の何ものでもなかった。
成長するに従って、死は遠い将来の事で、何の現実味もなくなり、それについて考える事もなかった。
それが、還暦を過ぎると、しばしば脳裏に浮かんでくるようになった。
人間は五感で感じるものを脳内スクリーンに反映し、意識や感情で意味づけをして、生活、延いては人生として記憶する。
五感で感じるということが、すなわち、人生と極論することも可能だろう。
死というのは五感、および意識の永遠の消滅といっていいだろう。
五感の一時的な消滅という点では、死と夢は似ているが、夢には意識は存在している。
死んで意識が消滅するとは、どんな状態なのだろう。
それは「無」だとは、よく言われるが、それがどんなものなのかは実感できない。
実感はできないが体験はできる。
それは全身麻酔の時だ。
以前、股関節の置換手術の時に全身麻酔を打たれたが、意識がなくなり、それが戻るまでの体感時間は瞬間だった。
夢も見なかったように思う。
その間、1時間20分。
それが永遠に続くということか。やっぱりイメージできない。
今まで生きてきて、乳児の時の記憶はないが、幼時のおぼろげな記憶から現在までの記憶は、脳内の海馬に刻まれている。
世の中や時代というものは、意識の堆積の記憶という形で、自分の中に存在している。
自分(意識)が消滅するということは、逆に言えば世界が消滅するということにならないか。
もっと言えば、自分が生まれる前に世界は存在していたのだろうか。
自分が死んだ後も世界は存在するのだろうか。
亡くなった両親の寿命から換算すると、あと10年程の命と思われる。
たったの10年だ。
そうなると、自分の死というものを、現実として考えざるを得なくなる。
死というものは不可避であるから、ジタバタしても仕方がない。
子供の頃、死は恐怖以外の何ものでもなかった。
成長するに従って、死は遠い将来の事で、何の現実味もなくなり、それについて考える事もなかった。
それが、還暦を過ぎると、しばしば脳裏に浮かんでくるようになった。
人間は五感で感じるものを脳内スクリーンに反映し、意識や感情で意味づけをして、生活、延いては人生として記憶する。
五感で感じるということが、すなわち、人生と極論することも可能だろう。
死というのは五感、および意識の永遠の消滅といっていいだろう。
五感の一時的な消滅という点では、死と夢は似ているが、夢には意識は存在している。
死んで意識が消滅するとは、どんな状態なのだろう。
それは「無」だとは、よく言われるが、それがどんなものなのかは実感できない。
実感はできないが体験はできる。
それは全身麻酔の時だ。
以前、股関節の置換手術の時に全身麻酔を打たれたが、意識がなくなり、それが戻るまでの体感時間は瞬間だった。
夢も見なかったように思う。
その間、1時間20分。
それが永遠に続くということか。やっぱりイメージできない。
今まで生きてきて、乳児の時の記憶はないが、幼時のおぼろげな記憶から現在までの記憶は、脳内の海馬に刻まれている。
世の中や時代というものは、意識の堆積の記憶という形で、自分の中に存在している。
自分(意識)が消滅するということは、逆に言えば世界が消滅するということにならないか。
もっと言えば、自分が生まれる前に世界は存在していたのだろうか。
自分が死んだ後も世界は存在するのだろうか。