★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

さらば夏の日 9

2009年08月03日 15時07分11秒 | 小説「さらば夏の日」
「ところで、おまえ、ウッドストックって知っとるや?」
 二本目のチェリオを飲み干した下川が僕に聞いた。
「去年アメリカでやっとった、ロックコンサートやろ」
「そうたい、アメリカの一流のロックミュージシャンが総出演した、ヒッピーの大イベントで、アメリカの社会体制に意識変革ば求めた若者の文化的、歴史的、大フェスティバルたい」
 下川は彼のバイブル、『平凡パンチ』の記事の受け売りをした。
 僕も一応、ウッドストックのフェスティバルについては、音楽雑誌などで読んだことがあったし、スリーホンキーズの高木の持っていたアルバムを聴いたりもしていた。
 すでに東京では、アメリカのヒッピーに触発された、和製ヒッピーやフーテン族が社会現象となり、同時に台頭してきたニューロックのコンサートが各地で催されていた。カウンター・カルチャーとかドラッグ、ドロップアウト、ラブ&ピースといった言葉がマスコミで話題に上っていた。

「どうね、おまえも実際にウッドストックのフェスティバルのような、若者の文化ばプロデュースしてみんか」
「東京へ行ってか?」
「いや、この町で、この夏にたい」
「……?」
「実はな、8月の半ばに、兄貴が大学でやっとるロック同好会とアングラ劇団がこの町で合宿ばすると。そいで合宿の打ち上げの日には、大ロックコンサートとアングラ劇ばやるらしか」
「何や、大学のクラブの合宿か」
「まあ聞け、まだ先があると。そのコンサートの特別ゲストが凄かとぞ。誰やと思う?」
「ジミ・ヘンドリクスか?」
「バカ、でも当たらずとも遠からずぞ。ジミヘンとは言わんまでも、日本のロック界じゃあ知る人ぞ知るアーティストたい」
「誰や、もったいつけんと早よ言え」
「その人の名は伊吹マモル、別名マジックハンド・マモル!」
「え~っ、あのマジカル・トラベリング・バンドの伊吹マモルか? 冗談やろ」
「冗談じゃなか、その伊吹マモルたい」
 伊吹マモルは、当時のニューロック・シーンで独自の世界を構築し、和製ヒッピーの熱狂的な支持を得ていた。その過激で華麗なギターテクニックは、全国のギター少年の憧れの的で、エリック・クラプトンのスローハンドをもじってマジックハンドの異名をとっていた。
「でも、何で伊吹マモルが大学のクラブの合宿なんかに来ると?」
「いろんな幸運がピタリと一致したからたい」
 
下川の言う幸運とは、伊吹マモルがその当時、ニューロックを広めようと、全国的規模で百円コンサートという、ほとんど経費持ち出しのコンサートツアーの真最中で、クラブの合宿の打ち上げの日が九州ツアーの移動日だったこと。伊吹マモルの従弟がN大生で、偶然にもロック同好会の会長だったこと。そして伊吹マモルが陶芸に興味を持っていたことであった。
 そこで下川の兄はロック同好会の会長をたきつけて、伊吹マモルに渡りをつけ、百円コンサートの日本のロックシーンにおける功績を讃え、かつ、九州の辺境の田舎町の若者文化の窮乏を綿々と訴え、また知りあいの窯元を案内することを約束したらしい。
 そのかいあってかどうか、伊吹マモルは一曲だけを条件に、合宿の打ち上げコンサートへの出演を了解したそうだ。
「ところで、今晩うちにメシ食いに来いよ。兄貴がおまえに何か話があるらしか」
「何の話や?」
「まあ、来ればわかる。さあて、そろそろ練習に復帰するとするか。由紀ちゃん、邪魔したな、お代はここに置いとくぜ。釣りはいらねえぜ」
 下川は僕を促すと、肥満体を揺すりながら立ち上がった。

 *ここまで読んでご興味を持っていただいた方は、ぜびAmazon Kindleストアの拙著「さらば夏の日1970」をお買い求めの上、続きをご購読いただきますようお願いいたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さらば夏の日 8

2009年08月02日 17時59分03秒 | 小説「さらば夏の日」
 「由紀ちゃん、チェリオ、もう二本ね」
 下川は僕の姿を認めると、カウンターの中のウエイトレスの由紀ちゃんに声をかけた。由紀ちゃんは母一人、娘一人でやっている『キッチン浜』の看板娘で、僕たちの高校のクラスメイトだった。ショートカットで眉毛が濃い、小柄な色黒の九州美人だった。
 由紀ちゃんは、チェリオの瓶を二本と氷の入ったグラスをトレーに載せて運んできた。
「二人ともこんなところでサボっとったら、また島さんに怒られるとよ」
「怒られてもよか。『キッチン浜』の売上げに協力でけたら」
「それはそれは、どうもありがとうございます」
「ところで、売上げにも協力したけん、今度の盆踊り大会、俺と一緒に行かんね」
 下川は由紀ちゃんに気があって、いつも冗談めかしてデートの申し込みをしていた。
「いやよ。あんたと一緒に行ったら、また何か変なことばするとやろう」
「俺がいつ変なことばした」
「この前二人で映画に行った時たい」
「ああ、あの映画ちょっといやらしかったもんな。由紀ちゃんには刺激が強すぎたかもわからんな」
「そがんことじゃなか。映画のあとよ」
「映画のあと? 映画館出てから、ちゃあんとここまで送ってやったじゃなかか」
「あんた、帰る前に何言うた」
「何か言うたっけ?」
「お別れのキスばしようて言うたじゃないね」
「ああ、あれは夕日がきれいかったけん、ちょっとロマンチックになっただけたい」
「口ばとがらして迫って来たじゃないね」
「イッツ・オンリー・ジョークたい。もういやらしかことせんから、盆踊り大会、一緒に行こう」
「残念でした、もう先約が入っとるとよ」
「まさか、修二じゃなかろうね」
 下川は僕のほうを見ながら言った。
「俺じゃなか、俺は盆踊り大会なんか全然興味なかけんね」 
「盆踊りには興味なかばってん、由紀ちゃんには興味があるとやろ」
「バカ、そしたら三角関係になるやろが」
「何ば言うとると。何でわたしがあんたたちと三角関係にならんといかんとね」
 由紀ちゃんは口をとがらせた。
「そいじゃ誰や? 言うてみろ」
 下川は由紀ちゃんを追求した。
「あんたたちの先輩よ」
「え~っ、もしかして投げ遣りの山口?」
「そう、山口さんと純子と由美ちゃんと四人で行く約束ばしとるとよ」
 由紀ちゃんと、クラスメイトの純子と由美の三人は、校内で秘かに山口ファンクラブを作っていた。僕たちから見ると、山口は軟弱でニヤけた、投げ遣りの山口だが、由紀ちゃんたちに言わせると「甘~か声で、背がスラ~と高くて、ものすご~ハンサムでシビれる」そうである。
 同じ人間を見たときに、男と女で評価が正反対に分かれることはよくあることだ。多分どっちも正しいのだろう。
「由紀ちゃんなあ、投げ遣りの山口なんかについて行っとったら、うまかことだまされた挙句、純潔ば奪われて、捨てられて、そいで泣きばみるとぞ」 
 下川は未練たらしく捨てゼリフを吐いた。
「あんた嫉いとるとね」
 由紀ちゃんは勝ち誇ったように笑った。
「バカ、だれが嫉くか」
 明らかに下川の形勢が悪かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さらば夏の日 7

2009年07月31日 10時07分50秒 | 小説「さらば夏の日」
 定刻の午後1時にメンバーが全員揃い準備体操が始まる。念入りにやっているのはキャプテンと小森の二人だけで、あとのメンバーは夏バテ気味にただ手足を動かしているだけの準備体操だった。
 
 三年の島キャプテンは、がっしりと引き締まった身体で、ブロンズ色のヘラクレスを彷彿とさせた。砲丸投げでは県内でベストスリーに入る強者で、どちらかというと無口で黙々と砲丸を投げているタイプ。
 もう一人の三年生、山口は185センチ、60キロの長身痩躯で、ヤリ投げが専門だったが、いつも身体のどこそこが痛いとか、疲れたとか言って、練習はいい加減だった。僕たちは秘かに、ヤリ投げではなく投げ遣りの山口と呼んでいた。
 二年の三人は高木、村本、安田といい、陸上部にはただ籍を置いている程度で、掛け持ちでやっていたギター同好会のほうに力を入れていた。三人はスリーホンキーズというフォークバンドを作り、ピーター・ポール&マリーやクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの曲をレコードコピーしていた。
 
 準備体操が終わると、各自がその日の練習メニューを発表し、それぞれの練習に入る。僕と下川はクロスカントリーコースのスタート地点へ向かう。トラックのない第二グラウンドでは長距離の練習はすべくもなく、僕たちは、秋に催される校内クロスカントリーのコースを練習コースに決めていた。
 コースは約10キロの距離で、僕と下川は同時にスタートするわけだが、肥満体の下川には10キロの距離はとうてい走破不可能であり、彼はスタートするとすぐ脇道にそれ、折り返し地点の海岸への近道を目指す。
 正規のコースを走ってきた僕と、近道してきた下川が落ち合うポイントが、海岸の防波堤の近くにある『キッチン浜』という小さな食堂だった。

 その日も、僕が『キッチン浜』に入って行くと、下川はすでにテーブルに座って、その頃田舎で流行の清涼飲料水、チェリオを飲んでいた。
『キッチン浜』には四人掛けのデコラのテーブルが四つと六人掛けのカウンターがあり、奥の壁には和洋折衷のメニューが貼られていた。テーブルの横の壁には、ビール会社のビキニのモデルのポスターと清酒会社のカレンダーが貼ってあった。
 カウンターの上のトランジスタ・ラジオからは、ザ・ゾンビーズの『二人のシーズン』が流れていた。
 窓からは、間近に海が見えた。
 真夏の昼下がりの海には、照りつける太陽がスパンコールの輝きをまき散らし、水平線の上の積乱雲は巨大な綿アメのように白かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さらば夏の日 6

2009年07月30日 10時30分49秒 | 小説「さらば夏の日」
 下川の実家は市内でも有数の窯元で、当時ではまだ珍しかった機械化によるオートメーション窯で大量生産を行なっていた。
「そいで東京の何ちゅう大学や?」
「それはまだ決めとらん。決めとらんけど取りあえず東京の大学たい。兄貴も言うとったけど、東京へ行かんと何も始まらんとぞ」  
 下川の兄は東京のN大学の三年生で、今は夏休みで実家に帰省していた。
「兄貴が言うにはな、こがん田舎でくすぶっとったら、何のために生まれてきたのかわからんて。男に生まれたからには、絶対に若いうちに東京を経験せんばいかん。何ちゅうても花の都、大東京ぞ」
 
 テレビや雑誌から吸収した情報で、僕が頭の中でコラージュした東京は、この田舎町からは、現実と非現実ほどの距離があるように思われた。
 僕たちの高校は男女共学の普通高校だったけれど、卒業生のうち大学へ進学する者は全体の四割ぐらいだった。そしてそのほとんどが九州内の大学や短大で、東京の大学へ進学する者は毎年十人にも満たなかった。
 下川の兄はそのうちの一人だった。ゆくゆくは家業を継ぐことを条件に、下川の兄は東京の大学でのモラトリアム生活を満喫していた。兄が帰省するたびに、下川は東京がいかに刺激的な街か、さんざん聞かされていた。そればかりか高校入学前の春休みには、一週間ほど東京の兄の下宿に滞在して、ジャズ喫茶やアングラ劇やフーテン族や学生運動などを目のあたりにしてきたのだ。
「東京は文化の発信地たい。俺は東京の大学へ行って、音楽や演劇の勉強ばして、文化ばプロデュースすると」
「音楽や演劇の勉強やったら、何も大学なんか行かんでもよかろうが」
 僕は当然の指摘をした。
「ばか、そがんこと親が許すか。親には大学に行く言うて、金ば出してもらわんといかんやろが。どうね、おまえも東京の大学へ行かんか? 俺が面倒みてやるけん」
 何を面倒みてくれるのか、その時は聞き忘れたけれど、東京の大学という言葉は、僕の東京のコラージュにおぼろげな輪郭を与え、田舎町との距離が少し近づいたように思われた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さらば夏の日 5

2009年07月28日 09時58分35秒 | 小説「さらば夏の日」
 「おまえら、大学はどこ受けるか、もう決めたか?」 
 汗を拭きながら、下川が僕たちに聞いた。
「俺たち、まだ高校に入ったばっかりぞ。大学受験なんかまだまだ先たい」
 津山が言った。
「甘かね。将来のビジョンは早う決めるに越したことはなかと」
 下川は言った。
「俺は大学なんか行かん。おやじの後を継いで漁師にならんといかんけんね」
 小森が言った。
「じゃあ、何で高校なんか入ったと? それも普通高校なんか」
「とりあえず高校くらい出とかんと、今日びの漁師には嫁さんの来手もなかけんね。それに商業や工業高校はレベルが低かけんね」
「将来のビジョンにしては何ともささやかばってん、まあ、頑張ってインテリ漁師になって、よか嫁さんもろうてくれ」
 下川は鷹揚に言った。

「そう言うおまえはどうね?」
 僕は下川に聞いた。
「俺はもう決めとるぞ。東京たい」
「東大か?」
「バカこけ。俺の頭で東大は無理ぞ」
「じゃあ、慶応か、早稲田か?」
「どっちも無理、無理」
「そいじゃあ、どこや?」
「東京の大学たい」
 下川はきっぱり言った。 
「そうか、下川は東京へ行くとか。やっぱり窯元の御曹司はちがうとね」
 小森が羨望の眼差しで言った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さらば夏の日 4

2009年07月27日 07時33分46秒 | 小説「さらば夏の日」
 7月の下旬、いつものように僕と下川は補習授業の後、弁当を食べ、着替えをすませてから、照りつける日射しの中を陸上部の練習場所である、校舎の裏山の第二グラウンドへ向かった。校舎に隣接したメイングラウンドは、部員数の多い野球部専用になっていた。
 
 第二グラウンドとは名ばかりの、まわりを畑に囲まれた、だだっ広い空き地の真ん中には砂場があり、隅のほうには小さなプレハブの物置が立っていた。
 僕たちは、先に来ていた一年の二人と一緒に、物置から高跳び用のスタンドとバーを運び出して砂場に設置し、石灰ローラーで砲丸投げ用のサークルと飛距離ラインを引いて、二、三年生が集まるのを待つ。
 一年の二人は小森と津山といい、小森はキャプテンと同じ漁村の出身で、先輩を慕って入部して砲丸投げをやり、津山はマネージャー志望で入部したものの、無理やり走り高跳びをやらされていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さらば夏の日 3

2009年07月26日 17時57分25秒 | 小説「さらば夏の日」
 そんな訳で、僕と下川は入学当初から仲良くなった。
 彼は誰が見ても長距離をやる体型ではなかった。身長は170センチと普通だったが、体重が90キロもある肥満体で、どちらかといえば、長距離より砲丸投げとかハンマー投げ向きの身体つきだった。げんに入部当初はキャプテン自ら、砲丸投げをやるようしつこく勧めたのだが、下川は断固として長距離をやりたいと言い張った。下川が長距離を選んだのは、走ることで少しでもスリムになり、女にモテる体型に変身しようと決めたからだそうである。
 
 理由はどうであれ、若い時には、自分の身体をスポーツによって適度にいじめることが必要なのかも知れない。スポーツで性的フラストレーションは発散しろ、と体育の教師がよく言っていたものだが、当時の僕は忠実にそれを実践していたものだ。
 何も考えずにただ走る。特に目標タイムを設定することもなく、苦しくなるまで徐々にペースを上げ、苦しくなったらペースダウンする。再びペースアップし、またペースダウンする。それの繰り返しである。
 そうやって走っていると、ストイックな長距離も結構身体に馴染んで来るものである。高校に入って約4ヶ月の練習で、僕の身体からは余分な贅肉がかなり落ちたが、下川は相変わらずその肥満体を持て余していた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さらば夏の日 2

2009年07月24日 17時48分34秒 | 小説「さらば夏の日」
 高校に入って初めての夏休み。
 激動の時代といわれた60年代が終わり、マスコミが伝える世の中は、天井知らずの好景気の真っ只中だったが、僕たちの町では依然として、夏の白い日射しの中で、アイスクリームが溶けるみたいに、ゆるやかに時間が流れていた。
 
 僕は午前中は補習授業に出席し、午後は陸上部の夏期練習に明け暮れている、いわゆる普通の高校一年生だった。 
 僕たちの高校では、よほど身体が弱いか、卓越した文化会系的才能がない限り、一年生の男子はすべて体育会系のクラブに入部することが、学校の方針として義務付けられていた。あいにく身体も健康で、これといった文化会系的才能の持ち合わせもなかった僕は、部員の数が一番少なくて、すぐにでも競技会に出られそうな陸上部を選んだ。
 
 陸上部は三年生が二人に二年生が三人の、校内では地味で目立たないクラブだった。三年生のキャプテンは砲丸投げが専門で、もう一人はヤリ投げ、二年生は二人が三段跳び、一人が走り高跳びが専門だった。
 僕と一緒に入部した四人の一年生は、一人が砲丸投げ、もう一人が走り高跳びをやり、僕とあと一人の一年生、下川順次郎の二人が長距離をやることになった。
 要するに、僕と下川が入部するまで、短距離にせよ長距離にせよ、走り専門がいない何とも情けない陸上部だったのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さらば夏の日 1

2009年07月20日 17時35分05秒 | 小説「さらば夏の日」
 ひまわり街道の陽炎の中から現れた観光バスは、まわりを畑や田んぼに囲まれた、田舎のドライブインの駐車場に入って行く。
 3台の観光バスからは、修学旅行の生徒たちがぞろぞろと吐き出されていく。大半が駐車場の隅のトイレに行列を作り、あるいは店先のジュースやコーラの自動販売機へと直行する。店内へ入る生徒はごくわずかである。
 15分もすると集合の合図が掛かり、生徒たちは再びバスへと戻っていく。生徒たちを乗せたバスは、長居は無用とばかりにそそくさと駐車場を出て、本来の目的地へ向かって走り去る。

 九州の西の辺境の町。
 穏やかな海と背の低い山々に挟まれ、変化に乏しい日々が積み重ねられていく、のどかで平和なだけの田舎町。
 その昔には、世界に誇る由緒正しい陶磁器が、この町の港から欧州の列強へと輸出されていたらしい。今でも陶磁器の産地として、社会科の教科書にその名をとどめてはいるが、これといっためぼしい観光名所もレジャー施設もない。
 本州からの修学旅行のバスなどは、東隣りのF県から西隣りのN県へ向かう途中で、トイレタイムのためにだけこの町のドライブインに立ち寄る、といった具合である。
 
 そんな町で僕は生まれ、高校卒業までをそこで過ごした。
 僕の名前は上田修二。
 両親は共に、ごく平凡な小学校教師。マイカーやピアノはないが、ステレオやカラーテレビはある、という田舎の中流家庭で、適度な放任のもと、さしたる不満もなく義務教育を終えて、人類が月にその第一歩を記した翌年、ビートルズが解散したその年に、市内の普通高校に入学した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする