平成最後の日だ。
平成の初日の事は昨日のように覚えている。
昭和天皇の崩御で自粛ムードの中、会社も休みで家で1日中テレビを見ていた。
その時は時代が変わるという感慨もあったが、今回の改元においては何の感慨もない。
歳を取って感受性も衰えたのだろうか。
平成という時代は、大地震が2度もあったにもかかわらず、近代日本が形作られた激動の昭和に比べると、インパクトに欠ける、時代のエアポケットのようだった。
裏を返せば平和な時代だったということだろう。
私のサラリーマン生活もそのほとんどは平成だったが、頭の中では絶えず昭和を引きずっていた。
今後令和の世になっても、それは変わることはないだろう。
我々昭和の人間においては、生まれて、人格形成を経て、就職し、家庭を持ち、子供が生まれた昭和が我々の時代で、平成も令和も付け足しのような時代に過ぎない。
いつだって思いは懐かしい昭和に遡っていく。
要は時代おくれの人間になってしまったのだ。
もう元号には何の意味もなく、今や古い慣習のようなもので、若い世代には西暦のほうがしっくり来るはずだ。
令和という時代も、それに輪をかけて印象の薄い時代になると思われる。
平成の初日の事は昨日のように覚えている。
昭和天皇の崩御で自粛ムードの中、会社も休みで家で1日中テレビを見ていた。
その時は時代が変わるという感慨もあったが、今回の改元においては何の感慨もない。
歳を取って感受性も衰えたのだろうか。
平成という時代は、大地震が2度もあったにもかかわらず、近代日本が形作られた激動の昭和に比べると、インパクトに欠ける、時代のエアポケットのようだった。
裏を返せば平和な時代だったということだろう。
私のサラリーマン生活もそのほとんどは平成だったが、頭の中では絶えず昭和を引きずっていた。
今後令和の世になっても、それは変わることはないだろう。
我々昭和の人間においては、生まれて、人格形成を経て、就職し、家庭を持ち、子供が生まれた昭和が我々の時代で、平成も令和も付け足しのような時代に過ぎない。
いつだって思いは懐かしい昭和に遡っていく。
要は時代おくれの人間になってしまったのだ。
もう元号には何の意味もなく、今や古い慣習のようなもので、若い世代には西暦のほうがしっくり来るはずだ。
令和という時代も、それに輪をかけて印象の薄い時代になると思われる。