★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

【競馬予想】第75回オークス

2014年05月25日 10時34分07秒 | 競馬
 前売りで単勝1.3倍と断然人気のハープスター。
 敢えて不安要素をアラ探しすると、桜花賞より800mの距離延長と追い込み一辺倒のその脚質。能力の違いであっさりクリアするとは思われるが、天皇賞敗退のキズナと同様のケースも無きにしもあらず。秋の凱旋門賞を目指してのステップレースというのも、因縁めいたものを感じさせる。
 
 しかし、他馬との絶対値の差は明確で、ここは雑念を振り切り三連単の1着固定に。
 2着候補に桜花賞でハープに0.1秒差で3着のヌーボレコルト、トライアルのフローラステークス2着のブランネージュ、堅実駆けが続くウィリアムズ騎乗のパシフィックギャル、フローラステークス1番人気も、直前の乗り替わりで不完全燃焼のマジックタイムの4頭を指名。
 上位人気のブエナビスタの妹サングレアルはハープと同厩舎で、親子丼はなし、バウンスシャッセは全6戦のうち二桁着順が3回と信頼性に欠けるという観点から外し。
 3着は取りこぼしをなくすためハープ以外の全頭を網羅。
 計64点で馬券ゲットを狙う。
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謎の喫茶店

2014年05月24日 15時51分42秒 | 徒然(つれづれ)
 日本一長い天神橋筋商店街の四丁目に、その喫茶店はある。
 大阪の商店街にありがちな、飲み物から食べ物、定食から丼物までバラエティに富んだ品揃えの喫茶店だ。
 まず自分的には入ることはおろか、一瞥のもとに記憶にも留めることのない類いの店だ。

 しかし、その店の前を通るたびに、脱力系の笑いがこみ上げてくる。
 というのも、店の前に当店お勧めなのか、カツ丼\700の文字とカツ丼の写真が提示され、その横にジャンク物のギブソンのレスポールモデルのエレキギターが立てかけてあるからだ。
 そのミスマッチ加減も、それはそれで面白いが、私の笑いのツボにはまったのが、黒いギターのボディに「ジョンレノン」とヘタクソな白いカタカナ文字で書いてあったからだ。
 なんでもありの喫茶店、カツ丼の写真、ジャンク物のエレキギター、ジョンレノンの白い文字・・・このビジュアルのトンデモ感はわかる人にはわかると思う。

 ぜひその喫茶店のマスター(orママ)に、その理由を聞いてみたいが、聞かぬが花よ人生は、ということもありそうなので、未だにその店には行っていない。
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You Tubeでロックを聴きながら

2014年05月17日 20時01分29秒 | 音楽
 音楽、とりわけロックやブルーズを聴くのが好きだ。
 最近はもっぱらYou Tubeで懐かしのロックを楽しんでいる。音質にはこだわらないので、別にオーディオセットがなくても充分だ。

 昔はレコードやラジオでしか聴けなかったバンドが、動画で観られるというのは画期的だ。若き日のビートルズやストーンズ、クリームやツェッペリンのレトロ感あふれる演奏は、結構シビれるのである。

 ロックを聴き出したのは、1969年のウッドストックの前あたりからで、ロックがニューロックとかサイケデリックロック、フォークロックなどと呼ばれていた時代だ。
 ビートルズは別格だったが、ウッドストックを機に、ロックミュージックシーンが混沌からある意味での方向性を持ち、ハードロックを中心としたロックというジャンルに定着したように思う。

 70年代はロックが円熟、完成の域に達した時期だ。
 それ以降(80年代から現在)は、良い意味では現状維持、悪い意味では刺激や面白味がなくなってきた。私の日常が仕事や家庭に関わる時間に占められて、じっくり音楽を聴く暇がなくなってきたのも一因かも知れない。

 戦後のブルーズがロカビリー、ロックンロールと進化し、60年代、70年代のロックへと成長するわけだが、ちょうど狭間の60年代前期のUKロックシーンのマージービート系のバンドが最近のマイフェイバリットだ。
 小さなギターアンプの箱鳴りや、ワウ、ファズもなく、チョーキングもほとんど使わないギターサウンド、コンパクトだがグループ感あふれるバンドのノリが好きだ。

 一昔前の安物のモジュラーステレオで聴いたらきっと最高だろうな。
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【競馬】 吉川英治(青空文庫より転載)

2014年05月10日 13時26分13秒 | 競馬
 競馬場がふえ、競馬ファンもふえてきた。応接間の座談として、競馬が語られる時代がきた。その中で、時々、知人のあいだにも、“楽しみを楽しまざる人”がまま多い。競馬を苦しむ方の人である。

 このあいだも、某社の、記者としても人間としても、有能な若い人だが、競馬に熱中して、社にも負債を生じ、家庭にも困らせている人があるという話が出て、僕はその若い有能な雑誌記者を惜しむのあまり、その人は知らないが、忠告のてがみを送ろうとおもって、客に、姓名まで書いておいてもらったが、やはり未知の者へ、いきなりそんな手紙をやるのもためらわれ、必ず他にも近頃は同病の士も多かろうとおもって、ここに書くことにした。

 といっても、僕自身、競馬は好きなのであるから、単に、競馬の弊へいを説くのではない。
 しかし、楽しみを楽しむには、害をも、理性にとめていなければなるまい。
 害を、強調する者は、よく、そのために産を破り、不義理をし、家庭をそこね、夜逃げまでするような例をあげて、だから有為な者が、近よるべきでないと云ったりする。国営になっても、その社会害は、かわらないという。

 その通りである。
 
 だが、私はそれだけを思わない。
 あの競馬場の熱鬧は、そのままが、人生の一縮図だと、観るのである。あの渦の中で、自己の理性を失う者は、実際の社会面でも、いつか、その弱点を、出す者にちがいない。
 あの馬券売場の前で、家庭を賭けたり、自分の信用や前途までを、アナ場へ、突ッこんでしまうものは、世間においても、いつか同じ心理のことをやってしまう危険性のある者にちがいない。
 なぜならば、その人間に、あきらかに、そうした素質があることを、あのるつぼの試練が、実証してみせるからだ。ただ、競馬場は、それを一日の短時間に示し、世間における処世では、それが長い間になされるという時間のちがいだけしかない。
 
 競馬場のるつぼほど、自分の脆弱な意志の面と、いろいろな自己の短所がはっきり、心の表に、あらわれてくるものはない。自分ですら気づかなかった根性が、ありありと露呈してくるものである。
 それを意識にとらえて、理性と闘わせてみることは、大きな自己反省のくりかえしになる。そして、長い人生のあいだに、いつか禍根となるべき自分の短所を、未然に、矯正することができるとおもう。
 理性をもって、自由な遊戯心を、撓め正すなんてことは、それ自体、遊びではなくなるという人もあろうが、人生の苦しみをも、楽々遊びうる人ならいいが、そうでない限り、苦しみは遊びではなくなるという結論はどうしようもない。

 ほんの小費いとして持って行ったものを、負けて帰るさえ、帰り途は、朝のように愉快ではない。だから私は、以前の一レース二十円限度時代に、朝、右のズボンのかくしに、十レース分、二百円を入れてゆき、そのうち、一回でも、取った配当は、左のかくしに入れて帰った。

 その気もちは、どんな遊戯にも、遊興代はかかるものであるから、あらかじめ、遊興費の前払いとおもう額を、右のポケットに入れて出かけるのである。
 左のポケットに残って帰る分は、たとえいくらでも、儲かったと思って帰ることなのである。

 だから私は、どうです馬券は、と人にきかれると、負けたことはありません、と常に答えた。

 帰り途も、いつでも、朝の出がけの気もちのまま、愉快に帰るために考えついた一方法である。

**けだし名言である。
 明日はGⅠNHKマイルカップである。5年前に238万馬券をゲットした思い出のレースである。左のポケットの遊興費を1万円と決めて、無我の境地で挑んでみよう。
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「ライ麦畑でつかまえて」再読

2014年05月06日 13時30分11秒 | 徒然(つれづれ)
 40年ぶりにライ麦を再読。言わずと知れたアメリカ文学最高峰の1冊。

 当時はカウンターカルチャーやヒッピーのバイブルと謳われ、大学生の私は野次馬根性と見栄だけで買った。他の文学作品と趣きを異にする、ストーリー性のない、少年目線の独白調のボヤキは、当時の私にとって、大人の世界に対する揶揄や反抗が小気味よかった。
 その一方で、独善性やしたり顔風の語りが鼻につき、当時の私の若い世界観とシンクロするまでには至らなかった。

 還暦が数ヵ月後に迫った今、再読して感じたのは、生き急ぐ子供のやるせない妄想で、そこに社会嫌悪の感情は読み取れても、体制批判の意味合いは見出せなかった。
 最終的にこの語りが、精神病院の病室で語られているというオチは、かのジョンレノン射殺犯のマーク・チャップマンやレーガン狙撃犯のジョン・ヒンクリーが愛読書にしていたということにシンクロしてくる。

 独り語りといえば、真っ先に思い出すのが、夏目漱石の「吾輩は猫である」だが、それと比べ「ライ麦」は文学的には足元にも及ばないと思う。

 ビートルズやローリングストーンズをホールデンが知っていたら、きっとロックスターになって、その鬱憤を音楽で晴らしていたかも知れない。
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