
早いもので 今年もあと10日。なんという時間の経過の猛スピード感。
我が家にとっては そのスタートが1月2日・・・いや容体悪化が始まった大晦日あたりからだったので
なにがなんやら けれど 看取り看護でおじいちゃんの部屋で付き添ったときの警告のモニター音と
数分間隔でモニターから吐き出されてくる計測の紙の音が あれがおじいちゃんの息遣いだったような気が
する。酸素マスクを装着していたわけではないけど、「あぁ間違いなく息をしている」という実際は
かすかで、顔を近づけないと呼吸をしているかわからない息遣い。時々 「これでいいのかなぁ」と
思ったりした。深く息を吸い込んでなかなか吐き出してこないから「いよいよ?」と顔を覗き込むと
「ふぅ~」と吐き出す、そういうことを繰り返しているあいだ当の本人はどんな状況なんだろうと思ったり
した。それから亡くなってからの通夜葬儀、四十九日に百か日 初盆。その間に義父も亡くなり
こげの手術やら 私の記憶もあちらこちらに飛び散っている。ただ 多忙に負けずに体調を崩すこともなく
乗り切れたのは 何かの加護かご褒美なのかもしれません。それくらいしか 私の手には与えられないのか?
もっと自由をとか、何ともならない子供たちの性根を変えてくれとか 相変わらず「なんで私だけ」と
その悲観的思考は・・・だったら一生背負って 抱きかかえて生きていこうかと思う。
時間の経過が 薬になる・・・ようなことを聞いたことがある。辛いことは それでも一日一日を消化して
いくあいだに立ち直れる、気持ちの整理をつけることができると。そういうことでもないと人間、やっていけないよ
なぁ~
毎日の仏壇にむかうときに あれこれ思う。昔テレビで「仏壇にはお願い事をしてはいけない。ご先祖さんの
供養する場所であるから頼み事はいけません」と言っているのを聞いて以来、そうなんや・・と思いながらも
ついついなにかしら願い事をつぶやいているときがある。
話は違うけど 初盆のころのこと。おじいちゃんを古くからしるおばあさんがやってきてくれた。
そのおばあさんは 仏壇のそばに置いていた先代のおじいちゃんの遺影を見て「あぁ先代さん、こんな
顔やったね」と言い「で、○○さんの写真は?」というのでおばあちゃんが「頭上に掛けてあるのがそう」と
おじいちゃんの遺影を指さすと、そのおばあさんはそれをまじまじと見ながら「これは誰?私はこんな
おじいさん知らんわ」と私たちは「これが○○やけど」。おばあちゃんが仏壇に飾られた遺影より二十年も
前の写真を指差し「こっちの写真だとわかるかな」と言ったら「そうそう、これが○○さんや」
どうやらこのおばあさんは 60代のころのおじいちゃんと懇意にしていてそれ以来は会うことがなかった
らしく、記憶の中では少し若いころのおじいちゃんしか残っていないということだったのだけど、
いやぁ遺影を見て否定されるとは。爆笑でした・・・
また、私たちが子供のころ家にお手伝いのおねーさんがいて、私なんかはそのおねーさんに面倒をみてもらって
育ったようなものなんだけど、そのおねーさんも初盆にお参りに来てくれてひとしきり思い出話に花が咲き
とどめに「ほいでも おとうちゃん(おじいちゃん)は○○ちゃん(亡くなった次姉)が一番好きやってんで」と
言い放ったので「え~そうなん?知らんかったわショックや。」と私。「○○ちゃんは色も白くて違っていたからね」
そうなのだ。長女と三女は当時の白黒写真でもはっきりわかるくらい色黒で黒光りしていたけど、次姉は
病弱なほど(確かに幼少期は病弱であった)色白だった。なぜか幼い次姉をモデルに写真を写して引き伸ばしたものが
いまも飾られている。子供に優劣をつけたわけではないのだろうけど 三番目ともなると写真の数は極端に減るのは
親のテンションが下がってきたんでしょうね、おまけに女ばかりだし。長女の七五三のときは 写真屋さんを
呼んで写真を写したらしい・・・私は根に持つほうだから あの世に行ったらまずそれを抗議したいわ。
そうなると 私もいずれはあの息子たちに抗議されるのだろうな あの世で・・・ならば少しでもいい印象を
持ってもらうように来年は努力しなくては・・・