昨日の続きです。
市庁舎の前の路地を抜け、駅を目指して歩いたのですが、この日はホントに寒く、人通りの少ない路地の日陰には、砂埃にまみれた雪が残っていました。
狭くて陽の射さない路地は、余計に寒さを感じます。広い通りに出ます、先の方に大木が見えてきました。
大木は交差点の処にある神社の境内に聳えていました。
周囲には何も無く、真っ直ぐに伸びても良さそうな環境ですが、何故か傾いています。小さい時に何かあったのでしょう。
神社の境内に立ち、〆縄が飾られているので御神木のようです。
根元に「案内板」が立てられているので、何か謂われでも書かれているかと思ったのですが、全く「宗教色」抜きで、植物としての説明だけでした。
樹齢は不明のようで触れられていません、幹の太さから見て「数百年」は経っている筈です。
鳥居から本殿に向かう参道の石畳ですが、根元の部分だけ不自然に「欠け」ています。石を敷いた後で幹が生長し、剥がしたように見えます。
この神社は「諏訪神社」、ここの町名は「諏訪町」、横の通りは「諏訪通り」です。
神社の「案内板」を見ると、創建の記録は無く、むかしは神木と小さな社があっただけだったようです。神木の樹齢と創建はたぶん同時期かも知れません。
かなり年代が経っている様に見えます。創建当時からの狛犬なのでしょう。
戦闘態勢に入っています。
ケヤキの大木を背にして立つ“忠魂碑”かなり存在感があります。忠魂碑が主役でケヤキは単なる背景に見えてしまいます。
忠魂碑は明治新政府の誕生以降、日清戦争、日露戦争での戦死者の「供養」のために「自治体が建立」した慰霊碑だそうです。
自治体が費用を負担していたとは知りませんでした。第二次大戦後は、占領軍が軍国主義の象徴として、各地の忠魂碑を撤去したそうです。
この碑は何処かに隠され、講和条約締結後この地に復活したのでしょうか。砲弾を模したデザインに刻まれた「忠魂」、かなり戦闘的です。
「忠義を尽して死んだ人」の「供養」と云うよりも、「顕彰・・・功績などを世間に知らせ、表彰すること」のイメージでデザインされています。
日清か日露かは確認するのを忘れました。この時は10時前で明け方の寒さが残っており、歩いていると手が冷たくなり、寒さに気を取られていたのです。
静かな田舎町の商店街、懐かしい風景が見えてきました。
水海道の町、これからです。
それでは、また明日。
市庁舎の前の路地を抜け、駅を目指して歩いたのですが、この日はホントに寒く、人通りの少ない路地の日陰には、砂埃にまみれた雪が残っていました。
狭くて陽の射さない路地は、余計に寒さを感じます。広い通りに出ます、先の方に大木が見えてきました。
大木は交差点の処にある神社の境内に聳えていました。
周囲には何も無く、真っ直ぐに伸びても良さそうな環境ですが、何故か傾いています。小さい時に何かあったのでしょう。
神社の境内に立ち、〆縄が飾られているので御神木のようです。
根元に「案内板」が立てられているので、何か謂われでも書かれているかと思ったのですが、全く「宗教色」抜きで、植物としての説明だけでした。
樹齢は不明のようで触れられていません、幹の太さから見て「数百年」は経っている筈です。
鳥居から本殿に向かう参道の石畳ですが、根元の部分だけ不自然に「欠け」ています。石を敷いた後で幹が生長し、剥がしたように見えます。
この神社は「諏訪神社」、ここの町名は「諏訪町」、横の通りは「諏訪通り」です。
神社の「案内板」を見ると、創建の記録は無く、むかしは神木と小さな社があっただけだったようです。神木の樹齢と創建はたぶん同時期かも知れません。
かなり年代が経っている様に見えます。創建当時からの狛犬なのでしょう。
戦闘態勢に入っています。
ケヤキの大木を背にして立つ“忠魂碑”かなり存在感があります。忠魂碑が主役でケヤキは単なる背景に見えてしまいます。
忠魂碑は明治新政府の誕生以降、日清戦争、日露戦争での戦死者の「供養」のために「自治体が建立」した慰霊碑だそうです。
自治体が費用を負担していたとは知りませんでした。第二次大戦後は、占領軍が軍国主義の象徴として、各地の忠魂碑を撤去したそうです。
この碑は何処かに隠され、講和条約締結後この地に復活したのでしょうか。砲弾を模したデザインに刻まれた「忠魂」、かなり戦闘的です。
「忠義を尽して死んだ人」の「供養」と云うよりも、「顕彰・・・功績などを世間に知らせ、表彰すること」のイメージでデザインされています。
日清か日露かは確認するのを忘れました。この時は10時前で明け方の寒さが残っており、歩いていると手が冷たくなり、寒さに気を取られていたのです。
静かな田舎町の商店街、懐かしい風景が見えてきました。
水海道の町、これからです。
それでは、また明日。