昨日の続きです。
諏訪神社の前を通る「宝町大通り」を歩き駅前に向かいます。
これが、「宝町大通り」ですから・・・・・・。

「宝」と「大」の字が寂しそうです。

寂しく、そして寒い「大通り」を歩いていると、銀行らしき建物が見えてきました。

何処から見ても「銀行」だった建物です。庇の下に、金属製看板文字の取り付け跡が残り、“東 陽 銀 行”と読みとれます。

傍らに「高札」が立ち、「銀行建築」とあります。

1923年(大正12年)建築と記されていますから、今から84年前の建物です。

大理石造りとありますが、一見「煉瓦造り風」であり、ただ「素焼きの赤煉瓦」とは異なる「色」と「質感」があります。
たぶんこれは、「煉瓦風」の「タイル」を張ったのでしょう。この「煉瓦風タイル張り」何処かで見たような気がするのですが思い出せません。

この「庇」を支える「金具」が赤錆びていて、なかなか「時代」があり「わび・さび」があります。

正面の「太い角柱」が、銀行への揺るぎない「信頼感」を演出します。

ところが、この銀行、大正、昭和、平成と、時代の波をかぶり、かなり「揺らいで」ここに辿り着いたのです。
1923年(大正12年)報徳銀行の水海道支店として設立
1924年 合併で東明銀行
1929年(昭和4年)昭和恐慌で破産。町営へ
1935年 茨城農工銀行に吸収
19??年 日本勧業銀行に吸収
1951年 下妻無尽
1952年 下妻無尽が東陽相互銀行へ
1988年(平成元年)つくば銀行に吸収
2003年 合併で関東つくば銀行
2004年 移転
昭和恐慌、第二次大戦、敗戦、高度成長、バブル崩壊、平成の金融危機、80有余年、いろいろと揺らいできました。看板を「8回」も塗り替えてきたのです。
やっとここにきて落ち着いたのです。空き家になって4年の月日が流れています。このまま、佇んでいるだけではもったいない気がします。
町の中心部に位置しているので、内部を開放して「街角歴史資料館」にでもと、思うのですが、いろいろと問題が“有りそう”なのです。
先ほどの「銀行建築」と書かれた「高札」の上に“水海道商人博物館”とあります。

それで、この何やら企ての匂いのする「商人博物館」をネットで検索すると、「常陽新聞」に計画段階を報じた記事を発見しました。
『2003年6月14日
現在、市内に残る蔵や屋敷跡を使用し、同市の商業の歴史を紹介する「商人博物館」運営事業、チャレンジショップ推進事業など二十六案が計画されている』
現在の活動状況を伝える記事、運営事業のサイトも有りません。2003年に計画され、その後、何年かは実行に移され、そして5年後の現在“水海道商人博物館”の運営事業は消えてしまったように思われます。
その他にも、「千姫の町」として売り出す計画も、それなりに実行されたのですが、それも「この3月」で消えようとしていたのです。
消えて行く話はこれから触れて行く予定ですが、当日、歩いた順路に従い書いていこうと思います。
“日本初の絵画の道”とか、“21世紀の夢見台”とか、“千姫なごみ館”とか、その他に、神社仏閣の話も取り揃えました。
これから、まだまだ水海道は面白いのです。
それでは、また明日。
諏訪神社の前を通る「宝町大通り」を歩き駅前に向かいます。
これが、「宝町大通り」ですから・・・・・・。

「宝」と「大」の字が寂しそうです。

寂しく、そして寒い「大通り」を歩いていると、銀行らしき建物が見えてきました。

何処から見ても「銀行」だった建物です。庇の下に、金属製看板文字の取り付け跡が残り、“東 陽 銀 行”と読みとれます。

傍らに「高札」が立ち、「銀行建築」とあります。

1923年(大正12年)建築と記されていますから、今から84年前の建物です。

大理石造りとありますが、一見「煉瓦造り風」であり、ただ「素焼きの赤煉瓦」とは異なる「色」と「質感」があります。
たぶんこれは、「煉瓦風」の「タイル」を張ったのでしょう。この「煉瓦風タイル張り」何処かで見たような気がするのですが思い出せません。

この「庇」を支える「金具」が赤錆びていて、なかなか「時代」があり「わび・さび」があります。

正面の「太い角柱」が、銀行への揺るぎない「信頼感」を演出します。

ところが、この銀行、大正、昭和、平成と、時代の波をかぶり、かなり「揺らいで」ここに辿り着いたのです。
1923年(大正12年)報徳銀行の水海道支店として設立
1924年 合併で東明銀行
1929年(昭和4年)昭和恐慌で破産。町営へ
1935年 茨城農工銀行に吸収
19??年 日本勧業銀行に吸収
1951年 下妻無尽
1952年 下妻無尽が東陽相互銀行へ
1988年(平成元年)つくば銀行に吸収
2003年 合併で関東つくば銀行
2004年 移転
昭和恐慌、第二次大戦、敗戦、高度成長、バブル崩壊、平成の金融危機、80有余年、いろいろと揺らいできました。看板を「8回」も塗り替えてきたのです。
やっとここにきて落ち着いたのです。空き家になって4年の月日が流れています。このまま、佇んでいるだけではもったいない気がします。
町の中心部に位置しているので、内部を開放して「街角歴史資料館」にでもと、思うのですが、いろいろと問題が“有りそう”なのです。
先ほどの「銀行建築」と書かれた「高札」の上に“水海道商人博物館”とあります。

それで、この何やら企ての匂いのする「商人博物館」をネットで検索すると、「常陽新聞」に計画段階を報じた記事を発見しました。
『2003年6月14日
現在、市内に残る蔵や屋敷跡を使用し、同市の商業の歴史を紹介する「商人博物館」運営事業、チャレンジショップ推進事業など二十六案が計画されている』
現在の活動状況を伝える記事、運営事業のサイトも有りません。2003年に計画され、その後、何年かは実行に移され、そして5年後の現在“水海道商人博物館”の運営事業は消えてしまったように思われます。
その他にも、「千姫の町」として売り出す計画も、それなりに実行されたのですが、それも「この3月」で消えようとしていたのです。
消えて行く話はこれから触れて行く予定ですが、当日、歩いた順路に従い書いていこうと思います。
“日本初の絵画の道”とか、“21世紀の夢見台”とか、“千姫なごみ館”とか、その他に、神社仏閣の話も取り揃えました。
これから、まだまだ水海道は面白いのです。
それでは、また明日。