歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

沢口靖子の“小津の秋”で想いをめぐらす -その5-

2010年01月12日 | 映画の話し
昨日の続きです。

まだ、しつこく“小津の秋”で想いをめぐらしています。でも、たぶん、今日が最終回になる筈です。

それで、今回は監督へ“疑問”を、いくつか投げかけたいと思います。

先ずです。冒頭の茅野駅のホームに列車が到着して、乗客が降りてきますが、そこに、あの“永六輔”が映し出されるのです。

偶々乗り合わせ、観客へのサービスカットのつもりで使ったのでしょう。本編にまったく関係なく、映画全体の格調を低下させる邪魔なカットです。

次ぎに、幼い茂と園子がグラマン戦闘機に機銃掃射されるシーンです。
グラマンに気付いた時、茂は川の中にいて、園子は川に降りようとしていたところでした。

訓練されていなくても、ふつう人間の心理として、上から攻撃に対しては、姿勢を低くするとか、低い場所に逃げ込むとか、物陰に隠れようとします。

茂は一段低い川の中、園子はそこに降りようとしていたのです、それに、側に石積みの橋があるのです。咄嗟の判断として橋の下に潜るのが自然です。

それが、ところが、平らで見通しがよく、身を隠す場所もなく、上空からの攻撃には理想的な、刈り入れの終わった田圃を走り、銃撃され傷つくのです。これは、とても、不自然です。

橋の下に隠れて、それでも、茂は機銃掃射で脚を失ったとした方が自然な演出でした。


次ぎに、“不自然その2”として、園子をピクニック誘い断られるシーンで、明子と園子がぶつかり弁当を落とすシーンです。

このカットは、何度も繰り返しても、不可抗力で偶々弁当が落下したように見える、“ぶつかり方”の動作が見つからず、妥協したものと思います。

これは、演出意図として、落下して地面に散らばった弁当を、茂が黙々と拾う事で、明子と茂の関係を表現したかったので、どうしても、何が何でも、弁当を落下させ、地面に散乱させたかった、と、思うのです。


ぶつかり方と云い、重箱に入り、風呂敷にしっかり包まれた弁当が、あのように散乱するのは、とても不自然です。演出意図先行の不自然なシーンでした。

最後に、疑問と云うか、質問と云うか、わたしが映画に詳しくないので分からないのですが、あの“詐欺師”がトランペットで吹いた曲は、何と云う映画の、何という曲なのでしょうか?

あの詐欺師は、何の役割があって登場したのか、まったく判らないのです。あの曲名が判ると、役割が判る演出をしていた、筈なので、とても残念なのです。

このシーンで明子に、

「佐々木さ~ん、あなたにピッタリな曲があります」
「どんな曲ですか?」
「古い映画の主題歌なんですがねェ、オヤジがよく吹いてました」
これで、会話は終わってしまうのです。男に曲名を云わせてほしかった。

そして、このシーン。

【どう見ても、どう転んでも、あの動きは、とても吹いているように見えませんでした】

窓のカーテンが風にゆれ、トランペットの音が部屋に流れ、微睡む明子が父の幻を見る。この映画の主題曲を流す為に、詐欺師を登場させた、筈です。


この曲は、明子の父への想い、父の明子への想い、そのような事を表現する手段として使った、筈です。ですから、この主題曲名は大事なです、判らないと観客は“置いてけ堀”にされ、チンプンカンプンのまま終わってしまいます。

でも、しかし、この曲は云わなくとも、誰もが知っている、超が付くほど有名な映画の、超有名な主題曲なのでしょうか? 知らないのはわたしだけ?

つまらん永六輔のサービスカットを入れたのに、どうして、曲名を云わせるサービスをしなかったのですか、野村惠一さん?

エッ! もしかして? 曲名が判っても、それほど意味がなかったりして? いや、それは絶対に無い筈です。

これを読んだ方で、判る方がいたら教えて下さい! どうも、喉に小骨が刺さっているようで、とても、とても気持ち悪いのです。

今日は、最終回のつもりでしたが、まだ、少し、云い足りない、書き足りない、ので、明日も、想いをめぐらします。


それでは、また明日。


コメント
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