歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

沢口靖子の“小津の秋”で想いをめぐらす -その2-

2010年01月07日 | 映画の話し
昨日の続きです。

“園子”と“茂”の出会いは昭和19年の“秋の蓼科”でした。


園子を初めて見た時、茂は“恋”をしてしまったのです。田舎者の茂と、


都会から秋の蓼科に現れた少女の園子、茂にとって女神でした。


園子への想いと“赤い靴”


グラマン戦闘機の機銃掃射から、


園子を自分の体を張って守り、


被弾し、傷つき、“血”を流し、片足を失った茂。


蓼科の秋に出会い“真っ赤”な“血と靴”の鮮烈な想い出。助けられた園子と、助けた茂、この過去を二人は、ずっと引きずるのです。

助けた男と、助けられた女、この過去を背負っての愛は結び難いのです。そして、園子には駆け落ちの過去も重なるのです。

時が流れ、ホテルの支配人となり、毎日、コーヒーを持って園子の元へ、杖を突き脚を引きずり通う茂。

茂がホテルマンの修行でイギリスに渡ったのは、園子への想いからでした。都会育ちの園子と、山奥の田舎育ちの茂、その距離を埋めるためです。

イギリスで覚えた“フライフィッシング”も、竹筒でドジョウを捕っていた田舎者から、イギリス紳士に変身し、園子の心を自分に向けさせる手段でした。

しかし、どこか、すれ違うのです。

ヘミングウェーも好きだった高価なコーヒーを園子に進め、“苦い。わたし、ヘミングウェーは嫌いなの”と云われてしまう茂。

園子は、「O・ヘンリー」が好きなのです。その対極にあるような「ヘミングウェー」を口にした茂、どこかで、すれ違っているのです。

明子と一緒にピクニックに誘い、園子に“あなたまで、どうしたの!”と拒絶され、“明子さんが・・・・・”と、口ごもる茂。

明子と園子を会わせる事により、園子が過去を清算し、自分一人に向き合う事を願ったが、それも叶わず。


冷たく拒絶されるのは、いつもの事だったのです。


助けた過去、助けられた過去、互いに過去に縛られ、素直に表現できないもどかしさ、しかし、歳月の流れで、いつしか、その関係を楽しんでいる様にもみえるのです。

男と女の関係、そして、年老いて過去を振り返り、出会った頃の、甘く切ない想いを、楽しむような二人、男と女の関係でもなく、純真無垢の関係。

“わたしたち、変わらないわネェ”と、コーヒーを飲みながら呟く園子。

年老い、すべてを“そぎ落とした”男と女、人生の晩秋、何とも、枯れて味わいのある関係に辿り着いたのです。


小津安二郎の映画は、秋の匂いがします。

“小津の秋”、園子と茂の出会いも、教師時代の園子と明子の父との出会いも、明子が蓼科を訪れたのも秋。

蓼科の秋は美しく、そこには女神が現れ、男を惑わし、物語がうまれる・・・・・・。

それにしても、栗塚旭は良い芝居をしています。声質と云い、台詞の間と云い、表情と云い、立ち振る舞いと云い、園子への一途な想いが伝わってきます。良い歳のとり方をしたようです。

“小津の秋”は明日も続きます。明子と園子のメインストーリーに戻ります。


それでは、また明日。

コメント (3)
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