先週の続きです。
先週は「日立製作所武蔵工場(半導体工場)」関連の話しでした。それで、武蔵工場は何処なの?と思った方もいたのではと思います。
映画のなかでは、工場見学のシーンと、帰りにジュンが自転車に乗って、川口の街を走るシーンとがつながって描かれているので、川口市の近所のように思われた方も、もしかして?何人か?居られた?と思うのです。
実は、何を隠そう、この私も、武蔵工場は川口の近所だと思っていました。何たって川口周辺も「武蔵野の国」ですから、そう思っても仕方ありません。
それで、ネットで「日立製作所武蔵工場」を調べていたら場所以外に、いろいろな事が、いろいろと出てきたのでした。
先ずは武蔵工場の所在地ですが、何と、中央線の国分寺駅から徒歩10分ほどの所にあったのです。当時でしたら、川口からは乗り換え時間を入れ、駅まで歩く時間を入れ、2時間は掛かったかと思います。当然、ジュンは会社の寮に入る事になるのでした。
それと、今回は、あまり詳しくは触れませんが、日立武蔵工場の昭和30年代は、労働問題がいろいろあったようです。映画で描かれたほど、明るく楽しい職場ではなかったようです。
寮生活も“女工哀史”とまでは云いませんが、いろいろあったのでした。シスター制度はその役割を存分に果たしていたのでした。
それで、日立武蔵工場ですが、あの白井貴子とか、三屋裕子とか、中田久美とか、大林素子とか、日本を代表する選手を輩出した、バレーボールの名門チームがあった工場なのでした。
武蔵工場関連は、「でした、でした」の過去形なのでした。
実は、平成の世になると、国内の半導体メーカーは後発の韓国に世界市場を奪われ、かなり厳しい状況に追い込まれたようで、各メーカーは企業の垣根を越えて統合化に向かったようです。
そして、武蔵工場は分社化し三菱の半導体部門と統合し「ルネサス テクノロジ」となり、最近は、NECとも統合して「ルネサス エレクトロニクス」となっていたのです。
日立と三菱とNECが一つの会社をつくったのです。昔はそんなこと考えられませんでした。半導体分野は相当に追い詰めらようです。
武蔵工場の名前が消え、バレー部も廃部になりました。大会社の中の大会社、日立製作所の武蔵工場が消えてしまっていたのです。
分社化して他のメーカーと統合すると云うことは、不採算部門の切り捨てであり、従業員の削減であり、雇用条件の低下である訳です。
ジュンの頃は“これからの分野”だったものが、今では“もはやこれまでの分野”となってしまっていたのです。
中国や、韓国や、台湾や、インドや、ブラジル等の国でも生産できる分野では、労働条件も彼らと同等で働くことになってしまうのです。
“経済的”には、ですけれど、辛く厳しい時代になりました。これから先の長い方、多くの収入を望む方、これからは、ホントに大変な時代です。
ジュンの時代は、みんな貧乏から抜け出すことを目指して、いろいろ一生懸命頑張りました。これからは、もう、貧乏でも、楽しく、のんびり暮らす事を、一生懸命頑張って考える時代だと・・・・・・。
もう、品質の良いものを、安く、大量に生産し、大量に消費する、そんな時代はお終いにしましょう。ホントに失うものが大き過ぎます。
書いているうちに、最初の予定とは、かなり、かなり、逸れまくってしまい、コムズカシイしいことになってしまいました。
本日はここで、お終いにします。次回からもうすこし「キューポラ関連」に戻します。
まあ、アッチに行ったり、コッチに行ったりは、たぶんあると思いますけど・・・・・・・。
それでは、また明日。