歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“キッカケは嘉納治五郎”で県会議員の家でした。

2008年05月19日 | 街の風景
先週の続きです。

天神坂を登り切ると、左手に木立に囲まれ“別荘風”の建物が、右手には三階建ての邸宅が現れます。


別荘風の建物が建っている処が“三樹荘”。“三階建の邸宅”が建っている処が“嘉納治五郎別荘跡”だそうです。


案内板があります。


これを読むと、我孫子の先駆者は嘉納治五郎で、嘉納が甥の柳宗悦を呼び寄せ、柳の学習院仲間の、志賀直哉、武者小路実篤が集まり、そして、バーナードリーチ。

そして、杉村楚人冠、村川堅固と云った人も集まって来たのでしょう。キッカケは“治五郎さん”だったようです。


明治、大正の別荘地としては、鎌倉、葉山、伊豆、箱根、そして軽井沢、と云った処がやはり“一等地”だったのでしょうか。

現在でも常磐線の“沿線イメージ”は“それなり”ですからね。

柳が大正3年(1914年)から7年まで我孫子で暮らし、その自然環境から大きな影響を受けたと語っているようですが、それにしては6年間で去っていったのは何故でしょうか。

柳が去った後は、田中耕太郎、河村靖山(陶芸家知りません)が住み、そして、昭和28年から、“村山正八さん”が住んでいるようです。


それで、その村山正八さんですが、坂の途中に刻まれていた歌を詠んだ、“祥峰さん”だったのです。この祥峰さん95歳で今もご健在のようです。

こちら嘉納さんの別荘跡は見学はOKです。民家の造りになっていますが、いったい何の施設なのでしょうか。

兎に角、庭に入って眼下に広がる景色を確認しました。高い所から下を見下ろすのは気持ちがイイものです。


“ふつうの人”は、いつも見下ろしていると、いつの間にか、“見下す”、“さげすむ”、そんな気持ちに成る、危険性があります。

“ふつうの人”は、いつも見上げていると、いつの間にか、仰ぐ、敬う、尊ぶ、そんな気持ちに成る、危険性があります。

話は飛びますが、昨晩のテレビで、砂漠の国“ドバイ”の事を取り上げていました。建設中の世界一高いビルを、誇らしげに語る“指導者”が映し出されました。

私は、画面に向かって「○○と煙りは高い所に登る」と、思わず呟いてしまったのです。実体経済がほとんど皆無の国です。

まさに砂上の楼閣を見ているようでした。

権力者は、デカイ、高い、が好きなようです。北朝鮮も、中国も、ドバイも・・・・・・。国家の“コンプレックス”の強さと、建物の、デカさ、高さは、正比例するのかも?

東京都の新宿庁舎はバブルの塔?、バベルの塔?、どちらにしても、まぁ、そんなところです。

それで、この三階建ての民家風の建物なのですが、見回していると、一階の隅の部屋に管理人風の人が居ました。

そちらに向かって歩き出すと、向こうも気が付いたようで、ガラス戸を開けて待っていました。


「ここは、見学は自由ですよねェ?」と、先ず一言。

「はい。こちらの場所は嘉納治五郎の別荘跡地です」 60代後半で、定年後、臨時雇用の管理人の雰囲気を漂わせています。元市役所の戸籍係りの係長風です。

「あの~。特に、その~、関連するものなどは、何か残っていますか?」

「いいえ。たんなる跡地ですから、何も当時のモノは有りません」

「そうですか・・・、ふ~ん。それで、この建物は、何ですか?」

「市で会議室として使っています」

「会議室? 会議室ねェ~。しかし、三階建で、民家風で、立派な建物ですねェ」と云うと、少し考える様子を見せ、躊躇い勝ちに、

「我孫子にお住いの方ですか?」と訊いてきました。「つくば市から来ました」と云うと、

「そうですか、実はこの建物はある県会議員さんの家だったものを、市が買い取ったのです」との説明をしてくれました。

それ以上、細かい事は訊きませんでした。「もしかして何か?」「ヤバイ事情が?」、「深入りすると生命に危険がおよぶ?」、何て妄想を描きながら、お礼を言って立ち去りました。

自転車に向かって、5、6歩進んだところで引き返し、ガラス戸を開けて、「スイマセン。トイレ貸して頂けます?」と訊いたのです。

“元戸籍係り係長風”の方は、誰も居ない後ろを振り返り、何かを確認ような素振りを見せてから、「イイですよ。どうぞ」と、招き入れてくれたのです。

一瞬、“怪しい男を招き入れ、何らかのトラブルが発生したら、この俺の責任はどうなるのか?”何て、考えていたのでしょうか。

兎に角、広い玄関、広い廊下、広い家でした。用を足して戻る時に、一瞬、迷ってしまいました。土木建設関連の議員の方だった?


お礼を云って、自転車に戻り、ペットボトルのお茶を一口飲んで、眼下の眺めを今一度確認して、嘉納治五郎別荘跡地を後にしました。

元戸籍係りのおじさん。ありがとう御座いました。県会議員の件はあまり口外しませんから、でも、ブログには書きました。


それでは、また明日。



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我孫子の三樹荘へ続く天神坂は下って味わうナンバーワンの坂です!

2008年05月16日 | 街の風景

我孫子シリーズ、一昨日の続きです。

楚人冠の“丘公園”を下り、「ハケの道」に戻ります。次に目指すは“三樹荘と嘉納治五郎別荘跡”です。

途中にあったお煎餅屋さん。ここも何故か「博物館“等”」のマークがガイドパンフに表示してあります。


確かに、店の名前が“大正煎餅”で、剥げたペンキ塗りの看板は、それなりの佇まいです。それにしても、現役の煎餅屋さんが、博物館等と云われてもねェ・・・・・・。

新品の案内看板です。楚人冠碑→(あっち)、白樺文学館→(あっち)、志賀直哉邸跡→(あっち)、旧村川別荘→(あっち)。


そして、三樹荘と嘉納治五郎別荘跡の矢印は「↑」上を向いているので「ここ」と思ってしまったのです。

それで、「何処?」と思い周囲を見回したのですが、それらしき建物が有りません。数十㍍ほど先まで行くと、別の案内看板を見つけました。
 

すると、矢印はすべて「↑」上を向いているのです。一瞬、頭を反らして空を見上げてしまいそうになりました。

この上向き矢印は「あっち」の意味なのでしょう。すると、すべて通り過ぎて来た事になります。

最初の案内看板に戻り、もう一度、じっくり看板を眺め、辺りの景観を観察、良く見ると、先に狭く暗い坂の入り口がありました。
 

と云う事は、三樹荘と治五郎さんの別荘跡は、この坂を登った上にあると云うことらしいのです。たぶん間違いないでしょう。

「↑」上向きの矢印は「この上」と云う意味だったのです。別の看板の「↑」は「あっち」で、こっちの看板の「↑」は「この上」と云う意味だったのです。

あっちに行ったり、こっちに行ったり、空を見上げたり、キョロキョロ、ウロウロしてしまいました。認識力が衰えてきたようです。

先ずは、坂を眺めます。そして、考えます。本日は自転車なのです。下に置いて行くか?、それとも自転車を抱えて登るか?

頭と身体の両方が衰えたとは思いたくありません。ここは自転車を抱えて登ります。


傾斜の具合と云い、曲がりくねり具合と云い、竹垣の具合と云い、自然石の石段の具合と云い、辺りの佇まいと云い、これまでの坂で“ベストワン”かも知れません。


句が刻まれていました。


『三樹荘に 夢をつむぎし文人の 足跡しるす 天神の坂』 

後で調べて判ったのですが、この歌を詠んだ「村山祥峰さん」は、この三樹荘にお住いの歌人だそうです。

坂を自転車を抱えて登り終わり、一息ついて振り返ります。坂は途中で一度必ず振り返るのですが、今回は登り切ってからでした。自転車は重かった。


それにしても、ホントになかなかいい坂です。手入れがされているようです。

それで、この坂なんですが、上から下る処に「天神坂」と石板が立てられています。下から上がる処には何の表示も有りませんでした。

坂に、入り口とか、出口とか、表とか、裏とか、有りませんが、この坂はやはり「下りが表」で、「登りが裏」のように思えます。

天神坂は下って「味わった方」が良いかも知れません。

実は、後で判ったのですが、私が辿って来た沼沿いの「ハケの道」は「裏道」のようです。

我孫子の駅から、丘陵地帯を辿り「大黒天」に続く「子の神道」と云う道が「表道」のようです。

大黒天には階段を登って入りましたが、子の神道側に山門がありました。アレは裏口でした。

隣の旧村川別荘も表門は山側にあり、私が入ったのは庭先の裏口からでした。志賀直哉邸も山側に門があるようでした。

私は、ずっと、「裏道」を辿ってきたのです。やっぱっり・・・・・・。

兎に角、表側より、裏側好きです。

裏にこそ本質が・・・・・・何て気がします。


それでは、また明日。


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晴天で携帯写真にビックリ!

2008年05月15日 | 雑談
本日は、久しぶりの青空でした。

この一週間の寒かった事、ホントに冬に逆戻りでした。昨日まで、炬燵を使用していたのです。

そして、今日の晴天、太陽が眩しく、温かく、もう、これは、家にじっとしていられません。外に飛び出しました。

それに、チョットした用事もあり、土浦の郊外を歩いて来たのです。普段よく行く場所をなので、デジカメは持っていきませんでした。

それで、携帯で写真を撮ってきました。

こんなに良く撮れるのです。驚きました。


いつものデジカメとそれほど変わらないのです。


実は携帯を先週“やっと新しく”したのです。

それで、その携帯の話なんです。

先週、“配達証明付”で“最終通告”(ホントにそう書いてありました)が届いたのです。

“Au”なんですが、これで3台目になります。前回は通信方式が変わるので通話もメールも使えなくなるとの事で変えました。今回はメール機能だけのようです。

去年頃から、電話や郵便で何回か連絡があったのですが、携帯を新しくすると、使い方を覚える迄が面倒なので、ほったらかしにしていました。

そして、先週、最終通告を受け観念したのです。店に入る前は、“どうか優しく美人の店員さんに当たりますように”と、観音様にお願いしたのです。

そして、店の前に立ち、自動ドアーが開き正面を見ると、カウンターの奥に4人の店員が雑談中です。

平日で時間は2時過ぎ、客は一人も居ません、とても暇そうです。パット見で、左隅の女性が観音様にお願いしていた女性でした。

残り3人は化粧のキツイ20代前半の“ネェちゃん”の言葉に相応しい女性達です。

若い店員は、初歩的な質問をすると露骨に「そんな事も知らねェの?」何て顔をされそうで嫌なのです。

私は、一番左隅の“観音様にお願いした女性”に視線を向けると、他の3人はほんの少し身を引き、観音様の女性が「どうぞこちらへ」と声を掛けてくれました。

制服の様子から、“スチュワーデス”(今は違う呼び名ですね)の様にみえました。髪を後ろでまとめ、化粧も自然で、何処か?テレビで見たような? そんな素敵な方です。

今日は“ツイテル”と思いました。その方は、他の“ネェちゃん”とは異なり、30代半ばとお見受けされる、落ち着いた雰囲気の方です。

先ずは、最後通告の件を話、こちらの要望として、「SDカード」が使えること、色が目立つこと、音楽が聴けること、デカ文字であること、を告げました。

すると、それに答える前に、少し間をおいて座っていた「ネェちゃん」に視線を送ったのです。

すると、その「ネェちゃん」が“音楽はすべての機種で聴けますよ”と云いながら、30代の方に眼で指図をしているのです。

機種とその機能が手書きで書かれたA4の用紙と、カタログを後ろの机から取りだし、説明を始めました。

一通り聞いて、3機種に絞り、サンプルを手に取り比べて見る事にしたのです。いろいろ眺め、その一つにほぼ決める時に、キーの照明具合が見たいと云うと、

「はい」と云って。サンプルを操作し始めたのです。サンプルですから、ランプは点灯しないのです。

それを見ていた隣の「ネェちゃん」が、嫌みな目つきをして、後ろの棚を指差しました。そこに“本物の確認サンプル”置いてあったのです。

30代の、優しく、美しい、女性は「新人」だと気が付きました。自分よりも年下の「ケバイネェちゃん」に命令されているのです。ホントに可哀相でした。

機種も決まり、念の為に「SDカード」を確認させて欲しいと云うと、優しく美しい女性は、またも、サンプルの裏フタを開けようとするのです。

「あの~、それはサンプルの方ですから、開かないと思いますけど」と、云うと、

「あっ! そっかァ」と云って微笑んだのです。その言葉、その表情、トテモ可愛かったのです。

それで、「SDカード」なのですが、取り出したのが「小指の爪」ほどの、小さな小さなカードでした。

私が「エッ! 何それ」と云うと、隣の「ネェちゃん」が、嫌みな目つき(化粧の影響がかなり有り)で、

「携帯のSDカードってェー、これですよッ、みんな」とイイはなったのです。

「デジカメや、PCのSDカードはもっと大きなヤツだけど」と云うと、ネェちゃんは暫く考えて、カウンター奥のドアを開け中に消えました。

そして、数分して、小さなSDを、一回り大きなアタッチメントに差し込み、持って来たのです。それでも、小さいと云うと、

「そう言えばもっと大きなヤツが」と呟きながらまた、奥に消えました。

その間、30代の女性は、和やかに微笑み成り行きを見守っていました。いつも見ている大きさのSDカードを持って「ネェちゃん」が再び現れました。

「そう。それだ! いろいろ有るんだ、知らなかった」と云うと、

「一番小さいのがマイクロSD、次がミニSDです。これで宜しいですか?」

「はい」と云うと、ネェちゃんは“美しい方”に視線を送ります。それに答えて、

「こちらのアタッチメント付きのSDカードは、無料交換の対象にはなりませんが、宜しいでしょうか?」

勿論、私は「構いません」と、答えました。後で判ったのですが、ネットで音楽をPCにダウンロードして、SDカードに保存し、カードを携帯に差し込めば直ぐ聴けると思い込んでいたのです。

携帯と、PCでは異なるプログラムで動作するので、そうは簡単にいかなかったのです。兎に角、いろいろな大きさのSDカードが有ることを知りました。

アタッチメント付きSDカード「512MB」で2100円でした。以前、デジカメと一緒に買った「256MB」が2800円だったと思います。安くなりました。

それにしても、兎に角、30代新人“佐久間さん”、年下の「ネェちゃん達」に負けず、頑張って下さい。

おじさんは、遠くから、そっと、応援してます。


それでは、本日の雑談を終わります。


明日は「我孫子シリーズ」です。



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楚人冠は“サルだった!”

2008年05月14日 | 街の風景
昨日の続きです。

自転車を下に置き、階段を登り丘の上に出ました。視界は良好、遠くに手賀沼が見えます。


公園の裏手は住宅地。


先ずは公園を一周して全体の様子を探ります。それと、先ほどより気になっているのが、東屋で読書に耽る女性の姿。


“うら若い女性”なのか、“それなりの中年女性”なのか、服装、後ろ姿からは判別が困難なのです。

“うら若”か? “それなり”か? ここはどうしても確認しなければ落ち着かないのです。

それとなく、何となく、こちらの「邪な気配」を漂わせないように、“別に、あなたに関心はありません。私の興味はこの景色です”との素振りで、ゆっくりと東屋の先を一回り。

それで、何ですが、結果は“うら若”と“それなり”の中間で、街ですれ違っても、視線の動くことのない「極々ふつう」の方でした。

無駄に時間を費やしてしまいました。この丘に登ってきた目的は“杉村楚人冠”なのです。


陽当たり、風当たりの良い場所なので、案内板の表面に“苔や土埃”はあまり有りません。


“明治の顔”をしています。


スゴイ功績を残した方だったのです。コラム「天声人語」の命名者でもあるそうです。新聞界の父なのです。

これまでまったく知りませんでした。勉強になりました。

それで、この「変な名前」なんですが、そのことに関しての説明は有りません。功績も大事ですが、変な名前を名乗った理由も大事だと思うのです。

やはり、名は体を表すです。杉村広太郎から“杉村楚人冠”を名乗るに到る経緯が知りたくなります。

「ウィキペディア」で調べてみました。

「楚」は、春秋戦国時代の中国の国名で、漢族から「蛮夷」の国と見なされ、秦に滅ぼされたそうです。

「楚」は辺境の野蛮人とみなされていたようです。その野蛮人を滅ぼした武将が、

「人言、『楚人沐猴而冠耳』。果然」と云ったそうなのです。

意味としては、“楚の王は冠を被ったサルと人は言っているが、まったくその通りだ”と云うことなのです。

「楚人冠」とは、“冠を被ったサル”だったのです。では、杉村は何故?自分をサルと称したのでしょうか? 第二の謎です。

ホントに自分が“サル程度”と思う人間は、自分をサル等とは名乗りません。自他供に優秀だと思っている人の、“極一部”がこんなことをするのです。

有る意味、嫌みな感じがします。屈折し、捻れた、自信の表明と受け取れます。

それで、サルを名乗った理由ですが、

【杉村広太郎は、朝日の記者になる前の、在日アメリカ公使館勤務時代、白人とは別の帽子掛けを使用させられるという差別的待遇を受けたことに憤り、以来「楚人冠」と名乗った】・・・ウィキペディアより。

あの当時、多くの知識人の欧米に対する思いは、憧れ、羨望、尊敬、嫉妬、妬み、嫉み、憎悪、敵意、反感・・・・・・等々、ゴチャゴチャと屈折し捻れていた気がします。

それで、この絵は笑えました。じっとしていると寒さが応えます。後ろで雪車を押している男の方は、身体がポッカポッカの筈です。



少し離れた処にもう一つ、案内板がありました。


我孫子を始めて全国に紹介したのも楚人冠だったのです。


『筑波見ゆ 冬晴れの おおいなる空に』の句碑です。 


「冬の晴れた日、大きな空に筑波山が見えました」眼にした景色を、ただそのまま綴ったように読めます。

が、しかし、この言葉の奥にある、深~い意味、その時の詠み人の心理状態、時代背景等を想像し、情景の広がりを想い描き、深く、深く、味わうと、それなりの感動を呼び起こす名句なのでしょう。

残念ながら、素養の無い私には“単なる小学生の写生”にしか思えませんでした。

失礼しましたァ~ m(_ _)m

大変に立派な陶器製の句碑です。陶器製とはなかなか珍しいです。


広大な屋敷の配置図です。屋敷を“白馬城”とよび、自邸?母屋?を“枯淡庵”と呼んでいたそうです。


屋敷を白馬城とよぶ意識に、枯れた心境とはほど遠い感覚を抱くのですが、枯淡は単なる願望の現れでしょうか。

若き日に思い描いた青雲の志と、生涯で上り詰めた地位との落差に、それなりの寂しさと、儚さ、空しさ・・・・・・、そんな想いが混ざりあった、白馬城と枯淡庵。

優秀で、それなりに名を残した人の心境は、無能で、世の中を汚しただけの者には、理解を超えた想いがあるのでしょう。

私も、丘の上に立ち、遠くの空を見つめ、じっと眼凝らし、筑波山を探したのですが、裏の家に立つテレビのアンテナしか見えませんでした。


カンカン帽にメガネをかけ、口髭を生やし、自転車に跨り、我孫子を走り廻っていたようです。


わたしも、この日は、野球帽にメガネをかけ、口髭を生やし、自転車に跨り、我孫子を走り廻っているところです。

外観的には、ほんの少しだけ楚人冠に近いのです。


まだ、まだ、我孫子を走り廻ります。


それでは、また明日。


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白樺文学館の小林多喜二

2008年05月13日 | 街の風景
昨日の続きです。

「志賀直哉邸跡地公園」の斜め向かいに「白樺文学館」がありました。有料ならば通り過ぎるつもりでした。

入り口付近の様子を窺って見たのですが、有料の様でも有るし、無料の様でもあり、何だかハッキリ判りません。

地方に良くある“単なるふつうの資料館”だろうし、たぶん、写真とか、原稿とか、初版本とか、当時の社会背景とか・・・・・・。

そんな資料を見るよりは、我孫子の町で“白樺派の痕跡”を探す方を選択しました。白樺派の“作品・作者”そのものには興味が薄いのです。

兎に角、白樺派が居た町“我孫子”はどんな町なのか、そこら辺に興味があるのです。



それと、今回ブログを書く為に、この文学館のホームページを見たら、何故か「小林多喜二ライブラリー」があるのです。

白樺派と、“プロレタリア文学”の“代表的作家小林多喜二”、この両者に交流があった事は知りませんでした。志賀直哉と親交があったようです。

考えて見ると、白樺派も、プロレタリア文学も、資産家の「お坊っちゃん」の“正義感”で一つに括る事はできそうです。

多喜二には“単なる正義感”だけでは片づけられない「勇気」と「根性」と「現実を見る眼」があります。

「カボチャ」や「ナス」を描き、“みんなで仲良く楽しくお手手繋いで”の武者小路実篤とは、かなり方向が異なるように思います。

「新しき村」のような「夢想・空想」とは確かに方向が異なります。直ぐに飽きた実篤ですが、「新しき村」は現在でも続いているそうです。

もう一つ、それと何ですが、“小林多喜二ブーム”が起きているそうです。

今日の新聞に新潮文庫が「蟹甲船・党生活者」を4月に7千部刷っても足りず、5万部の増刷をした記事が載っていました。

新潮社以外の複数の出版社から、小説、マンガ本が出されているそうで、20代、30代を中心にブームのようです。

「格差貧困社会」になっている? なりつつある? 今の世の中、現代の蟹工船は到る所に有るのかも知れません。

多喜二も草場の影で、複雑な心境ではないかと思います。特高に拷問を受け獄死して75年後の平成の世に、蟹工船に共感を覚える若者が増えているのです。

それで、この「白樺文学館」は、昨年11月16日から休館していたそうで、再開されたのが、今年の4月1日だったそうです。

私が前を通りかかったのが4月3日で、再開3日目だったのです。何か?タダならぬ因縁が、有りそうな、無さそうな・・・・・・、無いですね、でも、何だか、覗いて見たくなりました。

これまで個人が運営していたものを、土地、建物、資料を我孫子市に寄贈し共同運営になったそうです。

本日は、話が少し逸れてしまつたので、白樺文学館の話だけで終わります。

明日からは、また走り回った「ネタ」でいきたいと思う所存です。

文学館の次は、「杉村楚人冠」の痕跡にふれます。それにしても、“楚人冠”とは「へんてこ」な名前です、いったい何者なのでしょうか?


我孫子に来るまで、まったく知らなかった人です。

この白いマンションの裏手、陽の当たる丘の上に「楚人冠」の痕跡があります。


それでは、また明日。

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“志賀直哉邸跡”で究極のランチ!

2008年05月12日 | 街の風景
先週の続きです。

“旧村川別荘”の見学に小一時間を費やし、外に出たときは12時少し前でした。次は、志賀直哉邸跡を目指します。

それにしても、この案内看板に「旧村川別荘」の表示が有りません。看板が立てられた時には公開されていなかった?


「ハケの道」を我孫子駅に向かって自転車のペダルを漕ぎます。この辺りには今でも別荘風の家が見受けられます。


ハケの道は昔は沼べりの道だったのです。そんな昔の面影を所々で感じることができます。


ガイドパンフには「博物館等」のマークが表示されている“旅館富舛”です。建物がそれなりの年代物なのでしょう。


特に白樺派との関わりがあったとかの話も無く、兎に角、建物が“そこそこ古い”と云うだけで、それ以上の意味は無さそうです。

“博物館等”の“等”の方に重点を置いた建物なのです。

こちらのお家も立派です。広い庭に大きな桜の樹が満開でした。


「志賀直哉邸跡」に到着。村川別荘から700㍍ですから数分の距離。


チョット見には、小さな町中の公園の雰囲気です。奥の方には公園の“清掃用具小屋風”の建物が見えました。


石段を登り「公園」の中に入ります。埃と苔にまみれた「案内板」の表面をティッシュで擦ります。


白樺派と云えば、志賀直哉に武者小路実篤です。二人とも名前は知っているのですが、本は読んだことはありません。

一応、志賀と云えば「暗夜行路」と“云える”だけで、内容はまったく知りません。「暗夜行路」もここで書いたそうです。

大正4年(1915年)から7年半ここに住んでいたそうです。志賀が最初に自分の家を建てのがここだそうです。


この“清掃用具小屋風”の建物は、何と、復元された“書斎”でした。冬場はかなり寒そうです。


12時を回りました。今日はお弁当を持参しているのです。書斎脇にお誂え向きのテーブルと腰掛けがあり、早速昼食を摂りました。


お弁当は大好物の“海苔弁” 

ご飯を半分ほど詰めて、その上に“かつお節”を敷き詰め、醤油を適量垂らし、その上にまたご飯を詰め、ご飯の上に醤油を付けた海苔を隙間無く敷き詰めるのです。

おかずは自家製の梅干しが一つ、これだけで充分なのです。今書いていても、唾液が口の中に溢れてくるのです。

この「海苔弁」が“堪らなく美味い”のです。じっくり噛みしめ、ゆっくり味わいます。

鳥の囀り、柔らかな陽射し、心地よい風、すべてがご馳走になります。ゆったりとした“究極のランチタイム”です。

食後は、水戸の“梅羊羹”を四分の一。辛い物も、甘い物も好きなのです。デザートも食べ終わり、ペットボトルのお茶を飲んでいると、同年代の夫婦連れがやって来ました。

彼らもランチタイムのようです。


一人で広いテーブルを占拠し、幾分気が引ける思いがしたのですが、奥さんが直ぐにベンチに座り、ポリ袋の中からパンを取りだし、旦那に無言で手渡しました。

旦那の方も無言で受け取り、互いに無言のままでランチタイムが開始されたのです。食事中もずっと無言で視線も合わせません。

典型的な中年後期の夫婦です。兎に角、二人で散策に出掛けて来たのです。それなりに仲の良い夫婦だと思います。

二人はパンを食べ終わると、さっさと先に行ってしまいました。昼食の為に立ち寄っただけのようです。

お茶を飲み終わりました。そろそろ、こちらも出発です。

“志賀直哉邸跡”はホントに“跡だけ”でした。しかし、お弁当を食べるにはトテモ良い処です。


それでは、また明日。


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“胡錦濤さん”のズリ落ちるメガネ

2008年05月11日 | 世間話し
最近、土日はブログをお休みするのですが、きょうは、何となく独り言を云いたくなったので、シリーズとは別に、それとなく綴ります。

それで、“胡錦濤さん”何ですが、4、5日滞在して先日帰国されたようです。

あの方は、国家主席、国家中央軍事委員会主席、党総書記、党中央軍事委員会主席、党中央政治局常務委員の肩書きを持っているそうです。

党と国家の最高権力者で65歳だそうで、卓球は強そうでした。気になったのは「メガネ」です。

顔にしっくり合っていないのか、いろいろな場面で“ずり落ちる”メガネを人差し指で持ち上げる映像が流れました。

“汗かき”でメガネがずり落ちるのでしょうか? それとも、いつになく緊張して“冷や汗”をかいていたのでしょうか?

兎に角、ズリ落ちたメガネを人差し指で持ち上げる仕草が何故か気になり、そちらに気を取ら、他の印象が薄れてしまいました。

「嬉しいとメガネが落ちる」のは“大村混ちゃん”ですが、「何故か?メガネが落ちる」“胡錦濤さん”です。

まぁ、それで、中国なのですが、中華料理は好きなのですが、中国?、中国人?、は“あまり好き”ではなくなりつつあるのです。

何故?、いつ頃から?、と考えると、小泉総理の頃からだと思うのです。やはり「靖国問題」です。

しかし、よく考えると、「靖国問題」では、「靖国」は利用された気がするのです。中国と日本を互いに牽制させる事が国益になる「あの国」かも知れません。

それに乗っかったのが小泉さんです。彼はそれまで靖国神社に参拝した事はないのです。この私でさえ、本殿の前で“二拍二礼”で参拝しているのにです。

靖国参拝をする事により、中国の「反日“感情”」を刺激し、刺激された中国人が反日行動に出る。

その反日行動で、日本大使館?領事館?への投石や日の丸が燃やされる映像が頻繁にテレビで流れました。

当時、その映像をくり返し「見せられ」やはり「不愉快」になりました。日本中で不愉快を通り越し「反中国“感情”」を抱いた人達が多くいた筈です。

隣と云うのは、近い為にいろいろ見えたり、聞こえたりするものです。ここは一つ感情論に流されず、冷静に理性的に対処するのが懸命だと思うのです。

確かに、中国は最近「何やら怪しそう」には見えるのです。膨大な「面積」と「国民」と、それに加えて最近の「経済力」と「軍事力」、そして、それに「中華思想」が加わると、油断はならないと思うのです。

そして、その中国も、日本に対して同じ様な「警戒感」を持っている様に見えます。

しかし、ここは「感情」ではなく、「理性」で対応すべきです。互いの指導層が“自己”の“政治的都合”で、感情的対立を扇動し、それに乗せられる事は危険です。

意識的に作られた「感情的対立」も、ある段階を越えると当事者も制御できない状況になります。

今回、“胡錦濤さん”が「日本の戦後援助に感謝している」と早稲田大学の講演で述べたようです。明らかに国内向けの発言です。

「愛国反日」にブレーキをかけ始めたようです。

長野で「五星紅旗」を振り回した「愛国無罪」の「留学生」。確かに彼らの行動は「不愉快」で「不気味」です。

お互いに、何故、そのような感情を抱いたのか、ゆっくり、静かに、じっくり考える必要があります。

反日、反中の感情は「誰かの都合」で作られたものです。あなたが、あなたの能力により、“独自に集めた「一次情報」を自分の能力で分析した結果”では無い筈です。

そんな能力のある「ふつうの人」はあまり居ません。ですから、兎に角、大きな声で正義を叫び、対立を煽る人達に対しては警戒する事が懸命です。

嫌いでも、上手くつき合う事が懸命な選択です。感情と感情をぶつけ合っても良いことは何も有りません。

それでも、腹の虫が治まらないと云う人が困るのです・・・・・・、でも、腹の虫の為に争い、戦争になるのは大きな迷惑です。

戦争は「正義と正義」の闘いではなく、時の権力者の「一つの政策的選択」なのです。勝った方は政策的に正しく、負けた方は政策に誤りがあった、タダそれだけの事です。

戦争は計画し指揮する層にとって「理性的」な「殺し合い」です。人間だけが行う残虐な行為です。

「憎しみ」だけでは戦争には勝てません。先の大戦で「日本軍」の「上層部」は「感情」で闘っていたのです。連合軍は「理性」で闘っていました。

しかし、実際に前線で殺し合う人間は、「憎しみ」が無ければ「人を殺す」行為はできません。ふつうの人は「精神」に異常をきたし、異常な行為を行う事になります。

兎に角、中国と日本、そして韓国、北朝鮮とも、上手くつき合っていかなければなりません。嫌いで、顔も見たくない、口も聞きたくない、と思っていても、何も解決しないのです。

そんな、こんなを、最近の中国関連の報道で感じたのです。独り言です。でも、一言、誰かに、云いたかったのでした。


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我孫子市の旧村川別荘の母屋で扁額と平書院と欄間と床柱を考える

2008年05月09日 | 建物の話し

さぁ!“我孫子シリーズ”です。何故か突然やる気が出てまいりました。

我孫子シリーズは「村川堅固さん」の「旧別荘」のお話です。前回(4/25)から14日ぶりの再開です。

前回は迄は「新館」の見学でした。今日から「母屋」に話は移ります。前回と同じく親切なボランティアガイドさんに案内して頂きました。

玄関を飾る「扁額(横に長い額)」に「天簫」の文字。“簫”は竹を束ねた笛ですが、“天の笛”とは、どう云う意味なのか?


天から聞こえてくる、微かな“笛の音・・・自然の音”に心静かに耳を傾け、世事の雑念から遠ざかり、穏やかなひととき過ごす・・・・・・。

その様なことでしょうか? 兎に角、身も心も、穏やかに、静かに、楽しく過ごす処が別荘なのでしょう。

パンフレットには、【簫は、「ショウ」と読み、竹で作った笛】としか書いてありません、特にガイドさんには、意味については質問しませんでした。

玄関を上がり、左手に進と床の間付きの部屋になります。本陣の「離れ」を移築したのですが、それなりの部屋です。

脇床に付き物の“違い棚”がありません。明かり取りの窓が開けられています。この窓は移築後に開けられたものでは?と考えます。

何故?そう考えたのか、その理由をこれから説明します。

まぁ、そんな大袈裟ではないのですが、

1.床柱が途中で「切れ」、仕切の壁を取り除いた様式になっている。これは、東側からの光りを、脇床まで通す為の細工である。

2.脇床には「違い棚」は付きものですが、それが無いのが変。

3.脇床の壁に窓が切られていれば、明かり取りの「細工」は必要無い。

まぁ。そんなところです。兎に角、見た目、デザイン的にも違い棚を作らないのはトテモ変に見えます。

それと、この床柱は「棕櫚」を使っていました。自然を生かした「茶室風」なのでしょう。

“東側”の書院です、略式の「平書院様式」で、廊下側に出っ張る「机」がありません。


「書院欄間」は「七頭の馬」の透かし彫りです。



この“七頭の馬”は、『足伏走馬』と云う「神事」を彫ったようです。この神事は『七頭の馬』、『七番の神事』とも云うそうで、現在の競馬に似た神事だそうです。

床の間から庭先の眺め。縁側には薄縁が敷いてあります。


鶴の釘隠。


厠前の手水場です。下には、“掃き出し口”が有ります。懐かしい響きです。


ガラス戸越しの裏山。別荘の眺めです。


そして、お風呂です。流し場、壁には、タイルや石が張られていますが、何故か湯船はモルタル仕上げです。あまり浸かりたくない風呂です。


天井と壁の腰から上は「杉の皮」が張ってあります。ここら辺が別荘の趣。


なかなかの母屋でした。

それにしても、当時、東京帝大の教授だった「堅固さん」の俸給は、大変な額だったのでしょう。雑司ヶ谷に家を構え、別荘を2軒も所有していたのです。

堅固さん、息子の堅太郎さん、そして三代目で「この別荘」を手放しました。相続税対策でしょう。

兎に角、予定外の別荘で約1時間を費やしました。少し先を急ぎます。


それでは、また明日。


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連ドラ“瞳”は今二・今三です!

2008年05月08日 | テレビの話し
なかなか我孫子シリーズが再開しません。一旦休むと、立ち上がりのエネルギーがかなり必要となるのです。

気が変わり易い、飽きっぽい、そんな傾向もありますが・・・・・・。

兎に角“今一”なのです。

そんな事で、あの朝の連ドラ“瞳”何ですが、どうも“今二”、“今三”なのです。

兎に角、何と云っても前作「ちりとてちん」が面白過ぎたので、余計に面白“無さ”過ぎに見えてしまうのです。

何と云っても前作は「糸子さん」のキャラが魅力的だったこと、そして演じる“和久井映見”が出色の演技をしていたこと、そして、脚本が良く練れ、演じる役者も良く、登場人物のキャラが立っていました。

それに比較して、今回の「一本木勝太郎」のキャラは“一本調子”、“ステレオタイプ”の、“単純頑固親爺”で魅力がありません。

それに加えて、「西田敏行」の芝居も臭いです。人間離れした体型も、長い頭髪も、臭いそうです。未だに「勝太郎」ではなく“そのまんま敏行”です。

それに加えて、「百合子」の飯島直子も、“そのまんま直子”です。先日も“直子と敏行”の親子喧嘩のシーンがありましたが、妙にリアルで“芝居ぽっく”ないのです。

芝居ぽっく見えないないのは、口先だけの罵り合いで、表情や台詞に、陰影とか、過去の経緯とか、葛藤とか、寂しさとか・・・・・・、そんな複雑な絡み合い、もつれ合いを感じないからです。単に憎しみだけに見えるのです。

「そのまんま直子」の啖呵も、瞳の“母親百合子”ではなく、単なる“元ヤンキー”にしか見えませんでした。

それに、鰹節仲卸業の「石田勇次郎」の前田吟も、“印刷屋のヒロシ”です。寅に「オイ。ヒロシ!」と、声をかけられと「何ですか?兄さん」と云って振り向きそうに見えます。

それに、小料理屋「まつり」の“木の実ナナ”に抱く、“老年純情男の恋心”はまさに、“寅さん”とオーバーラップします。

“印刷屋のヒロシ”の後遺症は、観客と演者の両方にありますから、寅さんのパロディーとして演っているのなら、要らないと思いますよ。

兎に角、やはり、何と云っても脚本がいけないのでしょう。ストリーの展開が、やっぱり、そうか、そうなるのか、と云ったところで、後は役者の個性に“お任せ”といったように見えます。

役者を見たいのではなく、役者が演じるドラマを見たいのです。役者のキャラだけではドラマになりません。

その点、児童相談センターの「若山善行」がイイです。“近藤正臣”がイイです。彼が何とかこのドラマを支えています。

ダンススクールの関連は極力少なくして、相談センター関連でドラマを作っていった方がいいです。

若者の「NHK離れ」を意識しての「ヒップホップ」なのでしょうが、この時間帯に若者は見てません、見ているのは「おじさん、おばさん達」です。

若者に媚びる必要はありません。若者を意識した番組は別にやっているのですから、全ての番組を若者からお年寄りまで意識して作ると、若者からお年寄りまで見なくなります。

それと、一人忘れていました。酒場「ローズ」の“篠井英介”がいい味出しています。もう少し登場シーンを増やして欲しいです。

“堅いテーマ”のドラマには、こういうキャラが欠かせません。


兎に角、若者からお年寄りまで路線は、一本の番組の中ではやらないで下さい。「紅白歌“手”合戦」が良い見本です。


本日は、おじさんの呟きでした。


それでは、また明日。


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ゴールデン・ウィーク孫のお泊まり

2008年05月07日 | その他
ゴールデン・ウィークは、孫が一人で2泊3日のお泊まりです。

ブログの更新どころではありませんでした。


ジャングルジムでも遊びました。


超大きい“オタマジャクシ”も見ました。


手を振って先頭を切って歩きます。


超大きい錦鯉に“お麩”と“パン”もあげました。


四つ葉のクローバー探しもしました。


吹奏楽も聞きました。知らない曲ばかりで「あくび」をしていました。この日は「こどもの日」です。選曲に工夫があってもいいはずです。

先ずは、一曲目の“掴み”が大事なのですよ。子供の足を止め、親も引き込む。


観客もほとんど子供連れ、演奏しているのは「つくば大生」なのですが、彼らも未だ子供なのです。

観客を楽しませるよりも、“自分達が”楽しんでいました。かなり“いい音”は出していたのですが残念です。まぁ、アマチュアだし、タダだし、文句は云えません。


“オカリナ”の会場では、知っている曲が演奏され、孫も手拍子で参加しました。


石炭を燃やして走る「蒸気機関車」にも乗りました。蒸気機関車は“煙たい”ことを体験しました。貴重なことです。


ロケットも見ました。ホントに飛び上がると思っていたようです。


宇宙服も見ました。あまり興味はないようでした。


磁石に吸い付くパチンコ玉はかなり気に入ったようで、取ったり、付けたり、暫く遊んでいました。


前日より用意し、一晩寝かせた“特製手打ちうどん”を、黙々と美味しそうに食べてくれました。箸の持ち方がとても上手です。



楽しい、楽しい、3日間でした。



それでは、また明日。


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