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空海と密教の三密について―読後感報告
“余人をもって代えがたい!”とばかり、検察庁法まで改正して重宝していた政権お気に入りの検察官、これを検察トップの検事総長に就けようと躍起だった。しかし、その肝心な人物が新聞記者らと“賭けマージャン”をしていた、という。
普通に思えば“何たる脇の甘さ!?”と思うのだろうが、今やマスコミ記者と政界要人の関係は、ここまでズブズブの関係だった!ということが明らかになった訳だ。これが常態であるのならば、日本の報道が陰に陽に“政権寄り”になるのは、当然のことだろう。今の政権には、それにネトウヨ等の自薦他薦や政権自らが資金提供している応援団が付いているから非常に厄介なのだ。あたかもナチスの突撃隊やヒトラーユーゲント、はたまた毛沢東の紅衛兵の類に似ている、或いは、そのもの。これが現在日本の根深い闇の根源ではないのか?
当の検事は“大変有能な人物”との評が、そこはかとなく漂って来ていた。しかし、テレビに登場する政権批判のヤメ検達の複雑な表情を見ていると、何だか忸怩たる思いに溢れている印象があった。
その背景には、取分け検察官にしてはいけない人物がここまで出世するとは“何たること”の思いがあるように見受ける。何よりも“正義感が希薄”は固より、“秋霜烈日の順法精神の欠如”、“法曹人としての矜持の欠如”それが明白な人物に歯がゆさがあったのではないか。だからこそ、検察OBの検察庁法改正には強い拒絶反応が見られたのではないか。現に中には、こうした事態に至る前に“(検事長を)辞めるべきだ”と発言した検察OBもいた。
ネット情報ではあるので正確度は不明だが、当該人物の“麻雀好き”はつとに有名で特に“新聞記者らとの賭けマージャン”はかねてより、関係者に知らない者はいないというエピソードだったらしい。いわば“常習賭博”である。“政権側が、それを知らなかったハズがない”というほど。
ある政治評論家の評は辛辣である。“社会通念上許容されてきた微罪を違法のままにしておくことで、普段は99.9%のものは泳がせておき、いざというときに捕まえるのが警察や検察の権力の常套手段だったが、それを今度は逆にやられてしまった”との指摘。
だが焦点は、今度はそうした微罪で当局が本当にショッピけるのかどうかだ。だからこそ、世論は処分としての“戒告”や“退職金”に疑問を呈している。本当にショッピけなければ、今後、警察当局は“一般国民”を“常習賭博”でショッピけなくなる。或いは、“高等国民”と“一般国民”の身分差別を行うと宣言しなければならなくなる。それは明らかな憲法違反なるという矛盾に直面している。突き詰めれば、いずれにしても金科玉条の法体系は無残にも崩壊する。これが近代法治国家日本の現実となってしまったのだ。
今回の、週刊誌を使っての告発はその点でも巧妙である。現政権の無軌道ブリに余程堪忍袋の緒が切れた、といったところだろうか。今回の政権が踏んだ虎の尾のトラは、ヒョットして検察OBではないかと思うが、どうだろうか。“サンケイの他の記者がリークした”説もあるが、そうした文化にドップリ浸かっていた連中に今更の正義感や遵法性の覚醒とは思えない。矢張、検察OBだと期待したいところだが、そうならば遂に“眠っていた鞍馬天狗が動いた”の感。これに今後第2弾、第3弾があるかどうかだ。
だが問題の核心は、それらを上回ってマスコミ側にあるものと私は見る。むしろ、その方が社会的影響は大きいのではないかと考える。つまり、ズブズブの人間関係を繋げなければ報道できないという問題だ。
要は日本の公権力に闇の部分が多すぎる点にあるのではないか。日本ではあらゆる分野で情報公開が不十分なので、報道人は当局者と“不適切な関係”を結ぶことで、内部情報を掴んで報道しなければならない、と思われる。だからこそ、ある元社会部記者のコメンテータが“ある事件の担当捜査官の子供に甲子園の観戦チケットを渡して、その刑事との人間関係を作った”という“証言”を“得意気”にしていた。そういう違法スレスレのことをするのが日本の“敏腕記者”なのだという。このSDGS時代に至っても、法規制を軽んじる文化があるのは公然の事実のようだ。これが“社会の木鐸”であるべき、マスコミ人の鏡と言えるのだろうか。
こういった社会的背景にも、日本社会の後進性が認められるのではないか。報道関係者の襟を正す動きが今後出てくるかどうか見守りたい。
さて、今回は久しぶりの“書棚”への投稿。冬眠のGWにやったことで、既に予告してしまった読後紹介、ようやく登場である。
①梅原猛“空海の思想について”(講談社学術文庫)
②松永有慶“密教”(岩波新書)
③梅原猛“最澄と空海―日本人の心のふるさと”(小学館文庫)
この投稿の表題“空海・密教の三密”とは何か。分かりやすいネット上での解説を紹介したほうが手っ取り早い。(簡潔化のために多少の言葉を勝手に修正して以下に紹介する。この文責は筆者にある。)
“仏教では、生命現象はすべて身(身体)、口(言葉)、意(心)という三つのはたらきで成り立っていると説いている。顕教では、人間のこれら三つのはたらきは、煩悩に覆われ汚れているということで三業(ごう)と呼ぶ。ところが、法身である大日如来を宇宙の根源的な生命力とみなし、森羅万象を大日如来の現れと説く密教では、人間の三つのはたらきも大日如来の現れであるから、本質的には人間も大日如来と同じであるとし見ている。ただ、大日如来のはたらきは通常の人間の思考では計り知れないということから、密なるものという意味で「三密」と呼んでいる。”
“空海は、全ての人間がもともと仏と同じように悟りの境地に達する資質を内に秘めており、修行によって本来の姿にたち返るなら、肉身のまま即時に成仏する、即ち「即身成仏」となると説いている。”
“教説を表面的に捉えた「顕教」が、応化身(おうげしん)すなわち歴史的人物である(シャカつまり仏陀である)釈尊の説いた教えであるのに対して、「密教」は、法身(ほっしん)すなわち普遍的な真理である法を、そのまま人格化した大日如来の直接の説法であるとした。つまり、空海は釈尊の教えを超え、釈尊の悟りを成り立たせる真理そのものを仏(法身)として、教えの主体にしたのだ。”
この前段落の三つ目の引用文は、密教の核心を語っている上に、インド仏教史の概略を語っている。私はこのことを①と②によって初めて知って、ようやく何となく“仏教”について全貌を了解したような気になった。
①によれば、空海の思想は大日如来に発するとあり、次のように説明している。“釈迦の説いた仏教は衆生(しゅじょう)を化(げ)するための方便の教えであり、真実のことをいっていない。”これは私には驚愕だが、次のように続く。“釈迦仏の伝統は絶え、その道統は乱れている。正しい由来をたどれることができるのは、毘盧遮那(びるしゃな)仏の教え,密教のみである。”この密教は“毘盧遮那(=大日如来)→金剛薩埵(こんごうさった)→龍猛(りゅうみょう・別名・龍樹)→龍智→金剛智→不空→恵果→空海”のように伝わったと空海は主張しているという。空海は20年の唐での留学期間を勝手に短縮して2年で戻ったので、弁明書“御将来目録”を時の朝廷に提出したが、そこであのように言明したという。
ここで②によれば、“密教が生きた宗教として、庶民の間に信仰され、また僧侶の間で学問的な研究がいまなお続けられているのは、日本とチベットだけ”なのだという。発祥地インドではバラモン教に取って代わられたのだという。これは空海の絶大な功績である。
だが、毘盧遮那や金剛薩埵などはホトケサマの称号であって実在のインド人なのだろうか、という疑念がよぎる。この3冊を読んでもそのあたりは明確にならなかった。一般に知られる仏教史としてはシャカが創始であり、釈迦入滅後、弟子たちがその言行録を残し、そこにある戒律を守って修行していた。しかし、それでは修行者は救われても、一般人・衆生は救えない。それはシャカ本来の目的ではなかったのではないか、と主張から龍樹達により大乗仏教へと変化して、それがインドの外へ伝わって、その一部が唐にも伝わったのだという。不空はそのように唐に仏教を経典と共に伝えた歴史上のインド人。インドから唐へは様々な仏教が伝わったが、密教、天台はそのうちの一つのようである。
何より私には衝撃だったのは、①での梅原氏による“空海は近代日本のインテリにきらわれた”という指摘である。弘法大使は“呪術家の本家本元”であったのは事実であり、それは“科学信仰一辺倒の近代の日本人にはどうにも理解しにくい人物であった”からで、“空海は熱烈なるインテリのファンを持つことはなかった”というのだ。
その空海を今日のように評価を高めさせたのは梅原氏御自身の尽力によるものだという。謙虚な文化人にしては珍しい口調の指摘であり、それだからこそ返って真実味のある物言いだと感じたのだ。成程、若い頃には確かに空海・弘法大師の解説本は全く見当たらなかったのは事実だ。だからこそ、今まで詳細を知ることは無かったと思い返すのだ。
①の後半では、空海の著書・“即身成仏義”、“声字実相義(しょうじじっそうぎ)”、“吽字義(うんじぎ)”の概略の解説がある。私のような浅学には、ほぼ理解不能。残念だが今となっては、微塵も記憶に残っていない。
“「大日経」の部分や全体ばかりか一字の中に、空海は声字実相の義をみる。梵本の初めの阿字、口を開いて気を吐けば、アの声がある。これが声であり、また阿の声は法身の名を表す。これが字である。その法身は何の意味をあらわすのかといえば、諸法本不生の義を表す。この諸法本不生の義が実相である。”
これは①の“声字実相義”の章にある記述。ナンノコッチャ、サッパリヤ!
“サンスクリットには五十一種の文字がある。その始めが阿字で、その終わりが吽字である。”これが神社の狛犬や仁王・金剛力士像の一対の“あ、うん”に見られる由縁である。
果たして、空海は梵語も読めたようだが、日本語の五十音は空海の制作によるものだろうか。この語の並びの論理的な点で驚嘆するのだが、もし、そうであるならばこれも空海の絶大な業績ではないだろうか。お蔭で明治以降の日本語のローマ字化が容易だったのだ。
このように真言密教では、声に出す言葉・呪文を大切にしている。だから真言と唱える。“その呪文が加持祈祷のさいにとなえられる。”恐らく、これが念仏へと発展していくのであろう。
②は実際にチベットまで踏査して学術研究した研究者の本。密教学習には欠かせない本らしいが、読んではみたものの全くの猫に小判!ザンネン!新書にしては記述が専門性を極めており、もう少しお勉強してからの本ではないか。
③については、ある書評では“ほとんどが最澄についてのこと”とあったが、著者・梅原氏にとっては、既に他書で空海について多くをかたっているので、ここでは最澄について特に書きたかったのであろう。ここで、著者は最澄を“数ある日本の宗教家の中でもっとも澄んだ宗教家”であると断言している。だから、“最澄という名前は、最澄にたいへんふさわしい”と評している。
私もかつて“空海と最澄はどっちが偉い”という本を読んで、このブログで紹介したことがある。そこでは空海に軍配が上がっていた。
それは、最澄には密教を唐で深く学ばなかった返す返すも残念な生涯の悔いがあったことによる。最澄自身の願いで神護寺で空海から灌頂を受けたが、もっと密教を知りたくて“理趣経”の解説書の貸借を空海に申し入れたが断られてしまったということや、それと同時に大事な弟子も空海に奪われてしまったことによるものだった。しかし、梅原氏にとってはそれは表面的なことのようだ。
確かに日本の歴史・社会に与えた影響は、最澄の台密(天台密教)の方が空海の東密(真言密教)よりはるかに大きい。空海について“大師は弘法にとられ”*と昔から言われているように、“そのあとの方々はあまり有名でなく”東密には歴史上著名な宗教家は現れなかった。
しかし、最澄の弟子たち円仁、円珍らは、その後唐で密教も学び、比叡山に持ち帰った。こうして平安後期から鎌倉時代にいたって、延暦寺から法然、親鸞、日蓮、栄西、道元ら新興の宗祖を輩出して開花した。これは、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4教学(四宗相承)を広める総合大学としての延暦寺を創建した最澄の卓見の結果である。この本ではそのカリキュラムをまとめた“山家学生式(さんげがくしょうしき)”の詳細な紹介があるが、これも浅学には十分な理解は不能で苦痛な読書だった。しかし日本仏教の宗教改革の種を蒔いたという点において、最澄には遙かに深い洞察があったと考えるべきではないかと、評価を変えたのだった。
*この本には紹介されていないが、この言葉の後には“漬物は沢庵にとられ”が続くようだ。これはオモロイ。
最澄は近江出身の帰化人の子孫だという。地元の比叡山に庵を結んで修行していたところ、桓武帝に見出されて、長岡京から平安京へ遷都、つまり都が最澄の草庵に近寄って来た。私は最澄が天皇に近づいて、都の傍の山に延暦寺を建てたものとすっかり誤解していたが、どうやら事実は全くの逆。桓武帝は未だ権威のない最澄に箔をつけるために唐に留学させたのだと、著者・梅原氏は言う。第18次遣唐使の還学生(げんがくしょう、短期留学生)として通訳に門弟の義真を連れ、入唐求法。しかし、当時新興の最澄は桓武帝が亡くなると仏教旧勢力の南都仏教僧侶と論争を繰り返したという。特に、徳一という不詳だが藤原仲麻呂の子と思われる人物との論争は熾烈で、その最澄の論をまとめた本があるという。
空海は、讃州善通寺出身で、秀才だったので一族期待を集めて都に上った学生(がくしょう)。ところが、儒教などの学問より仏教に興味を持ちヒッピー化、山野で修行を繰り返す私度僧であったのではなかったかという。どうやって最澄トップの遣唐団に加わったのか詳細は不明のようだ。難破しつつも、20年留学を要する学僧として入唐したが、当時の唐での密教最高指導者・恵果から“長く待っていた”と言われ、瞬くうちに全てを学び灌頂を受け、わずか2年で帰国。しかし、身勝手な留学期間短縮は許されず3年を九州大宰府で過ごし、後、最澄の助力もあり許されて入京し、嵯峨帝の下、活躍することとなったという。
以上が読後の私の記憶に残っている知識の断片であり、それを書物をたどりつつ何とか記述した。密教の奥義にまで至らず、歩留まりも悪いが、紹介の一助になれば有難い。まぁ、これから身体は衰える一方、唯でさえ一部辛くなってきていて、身体的な密教修行はできないが、空海の著書・“三教指帰”を読むことからかじってみようかと今更ながら思っている。勝手だが念仏仏教の主張、修行できなくても“念仏を唱えれば救われる”を信じつつ、理解を深めて、またここに投稿して紹介できるようにしたい。
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