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“グローバルスタンダードと日本の「ものさし」”を読んで

06.03.22.
最近、日本人の“責任の取り方”に疑問を持つような現象が多々見られるように思うので かねて そのような標題の本を捜していて、ようやく見つけたのですが、もう絶版で図書館で借りて読んでみたのが本書です。本書の副題は“責任の取り方に見る文化の異相”です。
このように“責任の取り方”について テーマにした本が少ないということ自体、現在の日本人が “責任の取り方”を考察することがなくなったことを反映しているような気がします。

著者は日下公人(くさかきみんど)氏で長銀出身のエコノミストというより文化評論家だと思われます。
以下はこの本の前書きの引用です。

現代の日本人は、「バレなきゃいいだろう」「叱られなきゃ問題はない」と考える。この考えは、ほんとうに無責任だ。「責任逃れをして、恥じるところなし」という生き方は、卑しいと思い直さなければならない。「バレなきゃいいだろう」という考えは、「悪いことをした」という意識がないわけではないのに、善悪の判断を回避するとは、自分に対しても無責任である。
彼らは、自分のしたことが他人に知られ、非難されて初めて、罪となり罰を科せられると考えている。こうした考え方は、欧米人の考え方の悪いところだけ真似して取り入れたものである。
欧米人は、キリストの教えにより、「善悪を分かち罰を下す」のは本来、神の仕事だと考えている。人間がするのは暫定的なものだと考えるから、裁判という「手続き」を重視する。裁判という手続きを経て初めて、自分のした行為がこの世における罪であり罰になると考える。しかし、その背景には、…他人を見たら泥棒と思わなければ生き残ってこられなかったという歴史がある。いまでもそういう環境のなかに生きている。
欧米では多民族混在のため、一人ひとりが別々の価値観を持って生きているから、社会のコンセンサスとして何が共有されるかが自分にも他人にもわからない。したがってどうしても、善悪の判断を最終的には他人に委ねざるをえないのである。
そんな欧米でも、自分たちの考え方が限界に来ていることに気付き始めた人が多くなっている。とくにアメリカでは、何事も裁判にかけるという訴訟社会は大きな曲がり角に来ている。

日本人は、古来、恥を重視する民族だった。恥を知る人は、自分に誇りを持つ人だからである。恥を知り 誇りを持つ人は、自ら善悪を判断し、自ら責任を取れる人で、そういう人を大切にしてきたのが、日本社会だった。
もちろん、私たちは過去に戻ることはできない。過去の価値観を、そのまま現代に適用することもできない。
しかし、このままグロし、ハルスタソダードの波に呑み込まれてしまってよいものだろうか? もちろん、NOである。そして、はっきりNOと言うためには、日本人が自分の行為の原則、判断の「ものさし」、ジャパニーズスタンダードを持つ必要がある。

それでは、何をジャパニーズスタンダードとするべきか、結局 その問いに答えることなく本文は終わってしまっています。
じゃぁ本文には 何が書かれているのか。沢山のエピソードでした。中には 少々、日本の戦争責任に疑問を抱くような発言内容もありました。この辺りについては 私としても 十分な検証が必要かと思われますが、引用されたエピソードが 本書の主旨に大きく影響するものでは無いと思われます。
そして最後に、“日本にも不足しているものがあって、それは独立自尊と自己責任の精神である。”と書かれて終わりでした。

やはり、“恥”をコアにした価値観が日本人に馴染み易いのかも知れないが、そのためには 共同体の確立が必要なのでしょう。共同体が無ければ“恥”は成立しないからです。
さて、それでは これからの社会での共同体は何か。それは 多分 羽仁五郎氏が提唱した“都市自治体”ではないかと思うがいかがでしょうか。


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