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“ISOは悪意の意図に対して無力”で良いのか

韓国国会は大統領弾劾訴追案を可決した。デモ参加者に泣いて喜ぶ人も居た。
こういう光景に何となく違和感を禁じ得ないのは、私だけだろうか。この国の大統領は、選出された時は喜ばれてようだが、その辞めた後が悲惨だったりする。無事に任期満了で下野した人は居ないのではないか。大統領就任末期の悲惨な光景の繰り返しだ。この異様さの原因は何なのだろう。制度的欠陥なのか、政権運営に問題があるのだろうか。かの国の人々はその原因を究めて対応しようとはしないのだろうか。それを放置していることにも異様な印象を受ける。

さて、今回は久しぶりにISOマネジメントに関するテーマを考えてみたい。それは、先週末に行われたISO研究会で“ISOは悪意の意図にたいしては、無力なので考慮しない。”との発言があったことだ。私はこの発言を一瞬問題視したが、議論の目的はそれではなかったので、討議の中ではあっさりスルーされてしまったし、その場では議論が脇にそれるので私も殊更には発言しなかった。
しかし、私は会合終了後“悪意を排除できない規格は、規格としての意味をなさないのではないか。”と、その発言者に迫ってみた。すると御当人はかなり当惑していたが、脇から“その時は、極論を言えば認証取り消しダヨ。”との声があった。伝家の宝刀を抜き放った形だ。そうか、今度は私がその言葉にたじろいだこともあり、一旦了解したのだった。
しかし、その後少し考えてみたが、“認証取り消し”は極限的処置となり、その後はその組織とのコミュニケーションは絶たれてしまう。それで良いのかという問題が生じる。勿論、ISO業界の持続可能性と言う経営的問題にも直面することにつながる。やはり、“悪意に対しては考慮せず、善意をもって報いる”しかないのだろうか。

そこで、次のことを思い出したのだ。昔90年代後半の頃だったが、ISO認証取得の仕事に取り掛かった時、偶然にも供給者(原料購買先)を品質監査する機会があった。そこはISOを認証取得して間もない会社だったので、私の課題に非常に参考になると思って興味津々だった。
いよいよ品質計画書を拝見。すると、参照文書の欄の文書番号が どのプロセスであっても全て同じ番号となっていた。これは異様なので、何故かと質問した。相手は“その文書はISO用に作ったもので実際には使っていない。実際には別の仕組で動いている。それは、審査機関が推薦したコンサルタントの指導によることだ。”との自信たっぷりの説明だった。そして“何なら、そのコンサルさんを紹介しますよ。”と言い放った。そして、結局その参照文書そのものも見せてくれなかった。恐らく無かったのではないかと思われる。
審査機関は日本では規格の本山だと誰もが思う所だったし、当方は、教えを乞う立場でもあったので、一旦納得した風を装い帰った。後日、その事実を審査機関に電話で問い質してみた。勿論、当方は名乗らなかったのだが、先方はかなり驚き、慌てていて、その会社はどこかと聞いて来たので、どうやら それは性質の悪いコンサル単独の問題ではないかと、推察された。しかし、私はそれ以降、その審査機関については括弧付きの信頼しか持っていない。
事情通の解説でも当時日系の審査機関は、規格解釈にも疑問の点が多いとの評価があった。それは90年代当時は品質ISOに対し、日本の品質管理に未だ自信を持っている傾向があり、さらに大手企業の品質保証の経験しかない審査員ばかりだったため、ISOの要求事項に尾ひれの付いた要求をすることが多かったためだった。それに対し、外資系の審査機関では尾ひれの付いた要求をする審査はなかった。そこで、その後外資系の審査機関を選んで認証取得したという経緯があった。上記の私の所属するISO研究会も米国のISO審査員教育機関のOBによる会合だ。

話を戻そう。要は、“ISO用に作った実際の文書ではないものでISO受審とは、ある種の悪意を持っての受審”であり、それを担当した審査員は知ってか、知らずか、二重構造の内ISO用のシステムを審査し適合とした。正に“ISOは悪意の意図にたいしては、無力”だったのだ。否、品質計画書を見て、審査員は私のような質問をしなかったのだろうか。もっと巧妙なウソが必要だが、単純に見逃してしまった、或いは 知っていてシナリオ通り詮索しなかったのかも知れない。それが本当ならば、97年には既に形骸化したISO審査が計画され行われていたことになる。制度にはこうした意図や目的に反したやり方をする不届き者が必ずいるということなのだろう。

しかし、こうしたウソには相当なエネルギー、時間と労力を要するものだ。そこまでしてISO受審することにどんな意義があるのだろうか。どうやら、かの二重構造のマネジメント・システムを持った企業について、JABのホーム・ページで検索してみると登録は維持しているようだ。なので何とか対処しているのだろうが、この程度のウソは審査員が変われば容易にバレるので、その後システムを修正したのだろうが、それは大変だっただろうと思われる。

こういう大規模なウソではなくても、小さな悪意は随所にあり得る。ベテランの審査員なら見抜ける場合もあろうが、そうでない場合もある。それには審査側には、サンプリングによる限界と言う説明がなされるのはあり得る。しかし、審査側にそのような逃げが用意されていて、いい加減な審査でお茶を濁して良いのだろうか。
このように考えた場合、会計監査はどのようにしているのだろうか。こちらは失敗すれば、当局からの御咎めがあり、監査法人に営業停止の命令が下り、自身の職業的地位も安泰ではなくなる。あらゆる角度から必死に、記録の整合性を問い、粉飾の有無を嗅ぎ分けられなければならない。厳しい勘と経験の世界かも知れない。

さて、ISO審査はいかにあるべきか。ここで初心に帰って、ISOの目的は何かを思い起こすべきだ。ISOの目的は、組織の品質や環境のマネジメント・システムが有効に機能させるためにある。ISO審査はシステムが有効に機能しているかを見るためにやっている。なので、全体として上手くシステムが機能していると推察できるのであれば、先ずは良しとするべきなのだろう。その上で、規格適合性に問題があれば何らかの形での指摘をするのが良いのではないか。それは相手の組織運営が上手く行くようにするためのものでなければならない。要は、そこに被審査組織と審査員の間の信頼関係があって然るべきことなのだろう。信頼関係があればこそ、“悪意の意図”などあり得ない。あったとしても、無意識或いは無邪気な“悪意”でしかない。
そのような被審査組織と審査員の間の信頼関係を築けるかどうかは、審査員の能力にかかっていると言えるのだろう。そうなれば、“悪意に対しては考慮せず、善意をもって報いる”となり、それが理想の審査となるのだろう。この点において、会計監査とは決定的に異なる。
しかし、それを実現するためには何をするべきであろうか。それが分かれば苦労はない。

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