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西研・著“カント『純粋理性批判』”(NHK100分de名著)を読んで・Eテレ視聴して

このところ、いよいよ梅雨入の気象状況となった。これにより、新型ウィルス感染は抑制されるものと、思っていたが実際は、ジワジワと増加傾向にあるように感じている。特に、東京では既に第2波の様相ではないかと思うのだが、都知事選に突入しているので、ヤッテルフリだけの亜流アベの現職知事にあっては、そんなこたぁどうでもエェの雰囲気が漂う。後述するカントの格律に反するこの意識は政治家には最も不適切な対応であろう。何故、日本の多くの人々が、こういうタイプの人物を多数政治家に推しているのだろうか。

安倍政権がゴリ押しした、広島の参議院選挙。自民党総裁が支給した1億5千万円の全ての使途が解明されなければならない。又、党が如何にしてそのような大金を支給したのか、決定の経緯も明らかにされるべきだが、党本部へのガサ入れもなく、寸止めで幕引きとなるのだろう。そうした絶望感が巷に漂っている。正義のない不正社会は汚辱にまみれた、腐敗社会だ。これで青少年に夢を持てといっても、虚妄に満ちて絶望感のみが漂う。
“安倍首相から(のお金)です。”と言われたとの証言があったようだが、言われた大抵の人は不正な金でも“これには逆らえない・・・捕まらないハズ”と思って受け取ってしまわざるを得ないのが普通だろう。これは半ば脅迫だ。それが今度は公職選挙法違反なのだ。政争の中での検察側の意趣返し。ところがそれが倍返しとはしていない下心。こんな悪徳が交錯し横行している日本社会。
“桜”では、首相自らが国費を使って、公選法違反。この厚顔破廉恥。普通は許されるハズがないのだが・・・どうやら捕まらない!やはり、日本では上級国民とそれ以外で、法の下の平等はないのだ。腐敗しきった検察の下、政争の中での手加減。日本は法治国家ではなくなった。
それにしても日本社会では未だに20~30万円程度のわずかな金で魂を売ってしまう人々が多いのには驚いてしまう。現に、金権で当選でき、金権無き者は落選している、身も心も“貧しい”国へ堕落したのだ。日本はそんな未開の途上国社会になってしまっているのだ。これが安倍氏の言う“美しい国”の理想の実態だ。この国は決して先進の一等国ではない。

香港が中国の餌食になりかけている。米国はそれを許すはずがない。最終的には、米国は人民元のドルへの換金をやりにくくする処置を取るだろうと推測する。そうなれば、米中貿易の大きな障害になる。米中貿易の裏付けとなる金融機能は、シンガポールに移行するだろうが、現状よりはコスト高になるのではないか。*それは第三者の目には米中貿易に関わることの不利を意味する。これでますます米中貿易は細るのではないか。それで、中国経済は成立するのだろうか。中国共産党の政権内部では、この対策は多分しているのだろうが。
さらにそのさ中での、北朝鮮政権内部の不穏な動向。金正恩の健康不安もあり、北政権の崩壊の序章とも思えなくない。もし北が崩壊すれば、これも北京には打撃となるだろう。

*香港の金融市場が東京に移行するとのノンキな見方は成立するはずがない。厳正な法治のない国のマーケットは究極には信用できないからだ。特に、日本政権は米国の意のままだ。だからこそ、中国商人には香港は重要だったのだ。

否、これにはトランプが習近平と妥協するだろうとの見方もある。例えば、米農産物の中国による大量買い付け等による米国農民の不安解消とこれによる景気浮揚。これはボルトンの著作本に基づく推論であるが、妥当性は高い。


さて、今回は西研・著“カント『純粋理性批判』”の紹介だ。どうして本格哲学書の紹介かというと、実はテレビ欄を見ていて、今、Eテレ“NHK100分de名著”で同名の番組を放映していることを知って、思わず、見ることにした。又そうならば、必ずテキストはあるはずなので、近所の書店で購入し、読んで番組を見る前に“予習”することとした訳だ。これについて、NHK出版の紹介文に次のようだ。だが非才の私には予習の効果は不明のままだが、テキストは“復習”には大いに役立った。
“近代哲学の最高峰が、手に取るようにわかる!
カントの主著『純粋理性批判』は、哲学のあり方を根底からひっくり返すインパクトを持つものの、専門家ですら読み進めることに困難を極める一冊。重要性も難解さも哲学史上の最高峰だ。しかし晦渋な言い回しを西研流に解きほぐしてみれば、カント哲学の核心は思いのほか明快だった!私たち人間は何を認識し得るのか?・・・人間に備わる悟性とは?西洋哲学の最重要古典が「100分de名著」にいよいよ登場!”

テキストの著者でありテレビ番組での講師である西研氏の経歴は次のようだ。
1957年鹿児島県生まれ。哲学者。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。京都精華大学助教授、和光大学教授を経て現職(東京医科大学哲学教室教授)。主著は以下の通り。
『実存からの冒険』 毎日新聞社 1989年 / ちくま学芸文庫、1995年
『ヘーゲル 大人のなりかた』 日本放送出版協会「NHKブックス」、1995年
『哲学の練習問題』河出文庫 2012年
『哲学的思考 フッサール現象学の核心』 筑摩書房、2001年 / ちくま学芸文庫 2005年
『集中講義これが哲学! いまを生き抜く思考のレッスン』河出文庫 2010年
『ニーチェ ツァラトゥストラ (100分de名著)ブックス』NHK出版 2012 
『哲学は対話する プラトン、フッサールの〈共通了解をつくる方法〉』筑摩選書 2019

西洋哲学で欧州大陸系のデカルトから始まる認識論がスピノザ、ライプニッツを経由してカントに至るのだが、一方、ロックからヒュームに至るイギリス経験論に衝撃を受けたカントが大陸合理論と経験論を論理的に統合したのがカント哲学であるという。“純粋理性批判”はこのカント認識論の中心となるテキストだとのこと。そして、この本は超絶に難解だという。何も知らずにそんな本に嚙り付かなかったのは正解だった。しかし西洋哲学連峰は正にデカンショ節の、デカルト、カントなのだ。

この難解さへの対処について、著者・講師の西研氏は次のように指摘している。“哲学書を読むときは、それが何のために書かれたのか、つまり著者の問題意識を理解することが大切です。とくに『純粋理性批判』のような大部の本は、一つひとつの言葉の意味や細かい議論に入り込むと、かえってわからなくなります。問題意識は何か、著者がそれにどう答えようとしているのかという「大きな道筋」に着目し、わからないところは読み飛ばすくらいのつもりで取り組むことをおすすめします。”
ということは、いきなり予備知識なしで原典に挑むのは矢張り無謀なこと、となる。私のこの方針は間違っていなかった。

ここでは余計なことだが、前に紹介した、マルクスは何故このカントの影響を受けなかったのかが、気になるところだ。否、マルクスの時代は青年ヘーゲル派が闊歩した時代だった、という背景があったのだろう。そういう時代に何故、かれはスピノザだったのか、というのも気懸りだ。

では、大陸系の認識論とイギリス系経験論をどのように統合したのか。それが“近代哲学の二大難問”であり、それは次のことである。
①物心問題:物と心は全く別物で隔絶している、とすると物と心の相互作用は生じえないはずだが現実はそうでない。
②主格一致の問題:人間の認識は主観によるものだが、実際には客観的な認識に至ることができるのは何故か。
こうした点に、デカルトはどんなに疑おうとしても疑えない真理としての“我思う、ゆえに我あり”とした、とのこと。

“因果律”つまり、原因と結果の客観認識は科学的認識の第一歩であるが、これを経験論者ヒュームはこの人間の認識を、“くり返し、近接して経験される”ことを、原因と結果の客観認識であるとの習慣的信念にすぎず、人間の認識は“主観”が全てだ、と断じた。それにカントは衝撃を受け、“純粋理性批判”を著したとのこと。この書名については、“理性を正しく使用するために理性の能力を吟味する、という狙いが込められている”との指摘だ。

こうして“「認識の客観性」を再建”するための原則を次に示した。
①主観が主観の外に出て客観世界そのもの(物自体)に一致することはできない。
②どの主観も一定の[認識のための]共通規格をもっているので、自然認識の基本的な部分(因果律、質量保の法則など[の物理・化学等を成立させる科学則])については共通認識=客観的認識が成り立つ。
 

 

 

 

この図で“現象界”が人間の認識できる部分であることを示している。先ほどの①は“叡智界”のことを示しており、“物自体”を全て正確に人間が認識できるものではない、としている。
ここで感性は事物の感覚的印象をそのまま受け入れるのではなく、空間と時間の枠組み(形式)に従って整序し、認識の働をもつ。
悟性は感性によって得られた素材を、数量や因果関係といった概念にもとづき判断し理解する力をいう。この悟性を通じて理解された内容を、論理的な思考によって推論していく働きが理性となる。

ところがその理性でも、解決できない“答えの出ないアンチノミー”問題があると提示している。
①宇宙は無限か、有限か
②物質を分解すると、これ以上分解できない究極要素に至れるか否か
③人間に自由はあるのか、それともすべては自然の法則で決定されているのか
④世界には、いかなる制約も受けないものが存在するのか否か
①②は正反いずれも成立せず、数学的アンチノミーと言われる。③④は正反いずれも成り立ち、力学的アンチノミーとしている、という。
では何故こうしたアンチノミーが生まれるのか。それは理性に2つの特性「関心」があるからだ、という。
①完全性を求めること、つまり“全体を知って安心したい”
②“もっともっと問い続けたい”
まさに、このアンチノミーの存在が“理性の限界”を示している。要するに“考えてもムダ”なのだ。というより“考えるのは時間のムダ”と言ったところだろうか。著者は次のように指摘している。“実は、カントもブッダとよく似た考えです。答えの出ない問いは捨てて置けばよい、大事なことは「良く生きる」ことだといって、道徳の問題のほうに哲学の軸足を移そうとしました。”

理性は完全性を求めるもの(実践理性)だが、ここで“良く生きる”とは“完全な生き方をしたい”という理性の求めに応じて“完全な道徳的世界”に生きることだという。そしてカントは、“道徳的に生きるところにこそ人間の自由がある”と言っているともいう。そしてカントのいう“自由”とは“権威や伝統が道徳的に正しいかどうかを主体的に吟味し、理性的判断にもとづいて行動を選択する”ところにある。こうした実践理性の道徳的社会は“皆が互いを尊重しながら平和に共存する世界”だ。

そして理性的存在者からなる社会の一員としてふさわしく生きるためのルールを“道徳法則”と呼び、著者は2例を紹介している。
・汝の人格の中にも他のすべての人の人格の中にもある人間性を、いつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というふうに行為せよ。
・汝の意思の採用する行動原理(格律)が、つねに同時に普遍的立法の原理としても妥当するように行為せよ。
安倍首相は常に、他の人をその人格を手段としてのみ用いていないだろうか。普遍的立法の原理に妥当するように行為しているだろうか。“お仲間”のための政治に“普遍的立法の原理に妥当する”とは、死んでも言えまい。

ここでカントの“神”に対する考え方が重要だ。“神とは、完全な道徳と幸福の実現を配慮する、叡智界最高の存在であり、「最高善」とも呼ばれる。思うにまかせない現実に配慮してくれる存在を信じるからこそ、人はがんばることができる”のだという。これをして、カントは神の存在可否を“人間の生き方を考えるために有用な問いへと再設定したといえます。”と言っています。

この後、著者は“感性・悟性という認識の構造についてカントは語りましたが、それが妥当であるか”を語っていない、と限界を指摘し、それはエトムント・フッサールに持ち越されたとして、テキストは終わっている。この部分はテレビ番組では指摘する時間はなかった。

この番組とテキストで分かったことだが、西研氏の解説が分かり易いので、今後は著書を中心に“哲学のお勉強”をして行こうと思っている。少なくとも、先に挙げた主著は読むべきだろう。だが、『ヘーゲル 大人のなりかた』は既に入手困難となっているのが残念である。とにかく、“分かり易いこと”は良いことだ。
  

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