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山田詠美・著“A2Z(エイトゥズイ)”を読んで

梅雨前線による豪雨が熾烈である。九州は例年のごとく線状降水帯の被災地となっている。一方では依然として新型ウィルスによる感染が燻っているので、ソーシャルディスタンスを保持したうえでの避難が望まれるが、問題なく実施されているのだろうか。そもそもが避難所の対応が日本のGDP同様、何十年も進歩なく、一般人が日常生活を送るには極めて厳しい状態に置かれるままになっているのだ。体育館でゴロ寝とはとても先進国の対応ではあるまい。この災害大国のこの国で、どうしてそんなことになっているのか。同じく災害の多いイタリア等と比較しても、日本のそれは遥かに見劣りがする、という。それだけ日本の“民度が低い”のか、権利意識が希薄なのではないかと、思われる。

新型ウィルスによる感染がデータ上増加傾向にある。しかし、感染状況の正確な全体像が把握できているとは言えないようだ。特に、東京は以前と違ってクラスターが疑われる集団に積極的にPCR検査を実施しているために増加しているとのこと。もしそうならば、陽性率も同時に公表されるべきだが、それは中々聞こえて来ない。私の中では東京都の発表する陽性率はそもそもが怪しいとの疑いを持っているので、1%付近から直近4.5%へ上昇したと聞いてもそのまま信じられない。

全体に医療体制に余裕があるためか、感染者数が増加しても未だ慌てた様子が見られないが、感染は一旦増加し始めれば倍々ゲームで一気に増加するものと見るべきなので、今の緩いムードには大いに疑問がある。
ところが厳しい拘束政策で社会活動を停止させることに、いずれの当局も今になって何故か極端に及び腰になっている。そしていずれも数値基準を甘くしたり、廃止したりしている。だから社会全体に緩いムードだけが先行しているのだ。
どうなればどの程度社会活動を抑制させるのか、或いはロック・ダウンするのかの基準を明確にしないまま、時間だけが経過している観がある。担当閣僚も感情的な状況説明だけで、あたかも任務全うしているかのような振る舞いで、本当にしなければならない仕事はしていない印象だ。ヤッテルフリ、アホアホ安倍政権の特質がここにも現出している。
以前は専門家会議であまり意味の無さそうなシミュレーションをしていたが、今こそはそれを実施する必要があると考えるのだが、そうした発表は未だない。つまり、どういう段階でどの程度の抑制・自粛をすればどうなるのかのシミュレーションが政策決定のために重要だと思うのだが、その気配が一向にないのが残念なのだ。勿論、的確なシミュレーションは科学的な現状把握が大前提なので、積極的検査は必須である。これまでの直近の経験も踏まえて、どうなったら何をするかを冷静に提示するのが政治家の仕事だ。専門家会議をいきなり潰すと発言したり、為すべきことの本質を全くわきまえておらず、今の政治屋は周囲に権力や権威の誇示することを仕事と思っているフシがある。だから感情的になるのだ。この世には全くムダな方々だ。

そういうこともあって、個人的には警戒は解かないことが肝要であろう。♬手洗い、ウーガイ、・・・の励行。人込みでのマスク常用。特に外出からの帰宅時には、手洗い、うがいは勿論、頭髪のヘアトニック塗布。来ていたものを戸外に干す。

泉佐野市の“ふるさと納税はケシカラン!”との不当な中央政府のイジメは最高裁判決で覆った。よく見ると裁判長は女性であった。斟酌なしに正邪判定か。まぁ、イジメた側のトップも女性だが、こっちはいつも余計なことに容喙してくる権力誇示者で、男性社会に毒されたオバハン。翌日いけしゃあしゃあと、イジメリストから外すと公表していたが大臣辞任に値する一件ではないか。
安倍政権以降、そういう責任感が希薄になったのではないか。さすがのゴーマン。何だか悪い世の中になった気がする。

いよいよ、中国で香港国家安全維持法が成立したという。さっそく香港で7月1日に370名が逮捕されたらしい。“香港独立”という文言の旗を持っていただけで、逮捕要件が成立したという。
この法律は国外の外国人にも適用されるという、治外法権とは180度逆パターン。ということであれば中国政府と関係良好な政府の統治下では、言論の自由はない。中国政府はこうした関係良好な政府を札ビラ・ビンタで増加させている。いよいよ中国の影は膨張し始めた。
香港のエコノミストも中国企業の赤裸々な分析はできなくなる可能性があると不安視していた。これでは自由な経済活動は不可能だ。
早く、ナチス中国北京政府を壊滅させないと、人類史の汚点になる。こんなことを書けば、このブログも香港国家安全維持法の適用対象となり、逮捕される可能性は高い。やがて日本でも・・・そんなこと許されて良いのか? 


さて、今回は山田詠美・作、小説“A2Z(エイトゥズイ)”の紹介である。“無銭優雅”の次に読んだ山田詠美の恋愛小説。今度は、どんな仕掛け?
書き出しが面白い。“たった、26文字で、関係のすべてを描ける言語がある。それを思うと気が楽になる。人と関わりながら、時折、私は呆然とする。・・・私が、今、感じているこの思い。それは、たった26文字で表記できる程度のものなのだと、ただ溜息をついてしまいたい。”―26文字と言えばアルファベットだが、何がいいたいのか、分かったような理解できないような、不思議な気分のまま物語にどっぷり浸かって行く。例によって、ネットに出ていた出版社内容情報は次の通り。
“文芸編集者・澤野夏美の勤める会社の向い側にある小さな郵便局、お仕着せの制服でうつむく成生と目が合った瞬間──。恋人の存在を打ち明ける夫森下一浩への複雑な思い、夏美に心を寄せる新人作家永山翔平との仕事への情熱。あるべき男女関係を壊しているように思われるかもしれないが、今の私たちには、これが形――。AからZまでのたった26文字にこめられた、大人の恋の全て。”
ここまでの情報だけで小説の内容はお分かりだろうか。表題“A2Z(エイトゥズイ)”は、“(from)A to Z”のこと。A始めからZ終わりまで・・・何の?30代夫婦のダブル不倫の始めから、終わりまで・・・なのだ。

この小説は、前に読んだ“無銭優雅”より章立てが明確で、読む作業の中断箇所が分かり易い。“無銭優雅”は仕掛けが複雑だったが、これはそれ程ではなく、各省に英語のA to Zのキィ・ワードが当て嵌められている程度だ。だから26章あり、拾い出すと次の通り。そのまま目次になっているか?私の解釈で勝手に作って・・・披露。

交通事故accident:主人公が夫の愛人の存在を告白された状態
(思い切りの)呼吸breathe:主人公の心の空洞を埋めるために
混乱confusion:主人公の隣に夫の寝顔があって
目的地destination:主人公が恋人と一緒にいる場所
遭遇encounter:主人公が恋人を見かける時
作業場factory:新人作家を前にして主人公の編集者としての顔が出てくる
保証guarantee:主人公にとって夫は孤独になる恐怖を先延ばしする保証
人質hostage:主人公の恋人の家に気持ちが人質になっている
交差点intersection:新人作家が別々の仕事をする主人公夫婦の家を指して例えた
びっくり箱jack-in-the-box:編集の仕事は下克上。何が出てくるか解らないびっくり箱。
知識knowledge:たったひとりの恋人に対する知識
叙情lyricism:夫が恋人といる雰囲気に叙情があったと第三者が評して
あやつり人形marionette:主人公が恋人の都合に合わせる自分を評して
悪名notorious:新人作家が作家の名声より主人公との不倫の悪名を取りたいと言った
(特別な)機会occasional:主人公が恋人と会いシャンペンを飲む機会
所有物possession:主人公の恋人とのクリスマスの逢瀬が今後の記憶の所有物
質問事項questionnaire:新人作家を他社を出し抜いて世に問う時に編集者として受ける質問事項
むこうみずreckless:夫の愛人に対する評
孤独solitude:主人公夫婦の家で主人公が抱く環状
宝treasure:新人作家の才能。それは編集者が大きく左右するので、作家との関係は重要。
題名のないuntitled:新人作家が作品を生み出す前の漠然とした状態を“題名のない混沌”と言った。
夢想家visionary:ダブル不倫を夢想している訳ではないのだが。
皺wrinkle:脳味噌のしわ伸ばし。互いの不倫を清算して思考の整理整頓。
レントゲンx-ray:強がる主人公の心理は夫に見抜かれているX線写真。
懐かしく思うyearn:主人公の夫に対する本心
ボディバックを閉じる音zip:恋のムクロを入れた死体袋を締める音

私は“小説は人生のシミュレーション”と思っているし、大抵の人も、そう思っているハズだ。そうした目で不倫小説を見てみると、―私は不倫小説は渡辺淳一の小説しか知らないが―小説に登場する人物の人生はほぼ上手く行っていなかったように思う。必ず、大なり小なり精神的なダメージを負うとか、実生活も不安定になり、それで仕合せだとは思えない状態になって終わるイメージが強い。だから、やっぱり“不倫”は文学にはなっても、現実感なしと。
だが、著者の描いたこの世界にはそれが微塵もない。いずれの登場人物も“爽快感を感じる憎めないキャラクター”なのだ。それは舞台設定が巧みだということもあるのだろうか。主人公夫婦は二人とも文学界で異なる競合出版社の編集者。主人公の女性も、その夫も互いに、年下の男性、女性と不倫する。その最初のきっかけから終わるまでの心理変化を追いかける。そしてどの登場人物もあっけらかんと素直で、じめじめしない性格。出版社の上司も同僚も商売敵すらも、皆適度な距離感を保ってサラッとしている。勿論、恋の相手の男女とも同じ。だから、実生活へのダメージは固より、精神的ダメージも負わずに終わっている。そんな理想的な“不倫の世界”は現実にはあり得ないだろう。こういう事もあり得るのではないかという、好条件がそろった現代社会の隙間ではないか。結局のところ、悪い言葉で言えば、夫婦生活の惰性に飽きて、横でする“つまみ食い”がテーマ。それを、著者の女性目線で軽快に描いた、というところだろうか。

この小説を読んでいて中断休憩後の立ち上げ読み始めが難しい。それは、章の最初は会話で始まることが多いからだ。それも現在の会話でなく、過去の回想シーンであることがほとんど。だから、誰が誰に話しているのか直ちには分からないことが多く、前後の脈絡で読解しなければならない。やはり、論理推定力が必要で頭が良くなければ読みこなせない。著者の頭の良さに読者はついて行かなければならない。
だがこれは、テレビ・ドラマや映画になれば映像と音声で容易に乗り越えられるが、推定する読書の楽しみは減ることになる。

だが、映像にするにはセックス・シーンもあるのでどの程度にするのかの映倫問題があるかもしれない。もっとも、この小説では直接的なセックスそのもののシーンは無いので、大した障害にはならないようにも思う。むしろ不倫でこれまでとは違う相手とのセックスで、感情が微妙に変化することも考慮した表現や筋立てにするべきではなかったか、とも思うのだ。そのあたりの女性作家による女性の揺れ動く心理描写が欲しいのではなかろうか。ザンネン!ダガ、そうなるとポルノになってしまうか?
  

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