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山田詠美・著“無銭優雅”を読んで

先週、ようやくアホノマスクがたった2枚届いた。2ダースか20枚なら分かるが、少なすぎるではないか。
今頃とは、どうやら我が居住地域は中央政府から見放された地域のようだ。このブログでの執拗な政権批判が影響しているのなら、近所の人々には申し訳ない気がする。言論の自由は無いのか?
何の変哲もないガーゼマスクだ。市中に溢れかえるマスクを見て今頃頂戴しても全く有難味はない。それにしても何故、丈夫な不織布マスクではなかったのか。センスのかけらも感じられない。
 

 

その先週末から、県境を越えての移動が公式に解除された。恐らく、事実上は既に無視されていたに違いない。私も大阪には先々週には行っていて、中ノ島図書館で図書カードの更新を果たした。それに移動に使った阪神や阪急電車でも乗客は普通に“越境”していた。だが、大手を振って越境可能となったので、これからどんどん行ける。
そうなると一方では感染拡大が懸念される。現に、東京は“アラート解除”後、感染者は増加の傾向のように見える。

厚労省は又、新型コロナウイルス接触確認アプリ“COCOA”をスマートフォン向けに配信開始した。だが、“濃厚接触者”という通知が来ても、どうやらそれだけではPCR検査とはならないようで、例によって“帰国・接触者外来の受診を促される”ということのようだ。何だか詰めが甘いのではないか。早期発見、早期隔離の原則は特効薬、ワクチンが普及しない限り不変のはずではないのか。不徹底の政策、アホアホの証だ。

又ようやく厚労省が唾液での検査を承認した、という。何だか、これも遅い印象。アホノマスク同様、全てが遅い、少ない、詰めが甘い、どこまで行っても救いようがないアホアホ。

ところで、ワクチン開発はどうなっているのか。米中に比べて日本の開発予算は1桁も2桁も少ない5~600億円のようだ。ワクチン開発は“国防の重要政策”だというが、日頃“国民の生命財産を守る”と息巻く首相のミミッチさにもアホアホ感。肝腎なところで、外国にSOSを出せば済むという甘い発想は、民族派としての矜持の欠片もない。
そういえばイージス・アショアも止めたという。国防ドースンの⁈

このアホアホ政権お気に入りの広島の国会議員夫婦が2人とも逮捕。昨年の選挙で巨額の買収をやった疑い。そんな巨額資金は何処から出たのか。多分、自民党の不当な選挙対策費とされる。これには税金で集めた政党助成金が入っている。金に色は付けられない、とはいうもののこれで国民は怒らないのが不思議。金で簡単に買収されるのも何だかネェー。
政権によって人事を掻きまわされた検察庁。ここで政権に対し襟を正すのか、それとも、恭順か。今後の出方に、大方は息をのんでいる。自民党本部のガサ入れとなれば、政権は持たないはずだが。

小さな問題が色々山積だが、しかし、これらはいずれも大きな問題へ直結する。

ガラッと変わるが、北朝鮮は何だか政権内部に地殻変動が起きているのではないかとの、憶測が出てきている。陰に陽に新型ウィルス感染拡大が彼らにも影響しているようだ。金正恩その人の権威の陰りも見られるようだ。それがどの程度のものか、この国では誰にも分らない。


さて、今回はしょうしょうガラッと目先を変えて恋愛小説。山田詠美・著“無銭優雅”の紹介である。
自粛の中で読書に励んできたのだが、仏教やマルクス、哲学、それに相場観では何だか潤いが乏しい。そこで恋愛小説を指向した。そうなればこれまでならば渡辺淳一といったところだったが、残念ながらもう既に亡くなった作家。今の人の話が聞きたい・・・自分では思いつかないので、ネットに適当なキィワードをインプットして出てきたのが、山田詠美氏の“無銭優雅”。ところがこの本、市中書店には在庫品薄。出版社のホームページには掲載されているのだが何故か?仕方ないので、ネットの2押しだった同氏“A2Z”をひとまず買った。ところが、近所の書店に行ってみると1冊だけ“無銭優雅”が残っていて、いそいそ買った次第だ。
思い返してみて、女性作家の小説は読んだ記憶がない。“女性”は男の私には生涯、永遠の“謎”!そもそも私自身は“男性”の自覚はなく、むしろ主観的には“中性”の意識のつもりでいる。だが自覚はないが結果的には“男”の目でしか世の中を見れていないようだ。確かに、家内*も娘も女性なのだが、未だにオンナは私には謎。そして、家族の中では私は疎外されている。だから、ここに来て女性の書いた恋愛小説には積極的に興味もあった。

*本当は“カナイ”と表記したいところだが、それではイミフなのでとりあえず漢字で書いた。世間では“妻”とか“嫁”とか表現することが多いが、“妻”は何だか“刺身のツマ”に通じているような気がして、積極的に使う気にはならない。“嫁”も女偏に家と書き、何だか中国古代以来の封建的家父長制を想起してなじめない。そこで私は結婚以来、第三者には家内と呼称している。“家内”も“良妻賢母”を想起して封建的だが、私にはヨリマシな表現のような気がしている。

文庫本の表紙裏に載っていた紹介文は次の通り。
“友人と花屋を経営する斎藤慈雨と、古い日本家屋にひとり棲みの予備校講師・北村栄。お金をかけなくとも、二人で共有する時間は、“世にも簡素な天国”になる。「心中する前の心持ちで、つき合っていかないか?」。人生の後半に始めた恋に勤しむ二人は今、死という代物に、世界で一番身勝手な価値を与えている―。恋愛小説の新たなる金字塔。” 
商業的PR文なので当然なのだが、何だか面白そう。

読み始めて、主人公の45歳女性・慈雨の独白が長々と続き、読み辛い。小説は慈雨の3年前、今の恋人の栄との出会い直後の思い出話から始まる。このまま続くのかと思いきや、次第に長々の独白が気にならなくなって来くる。その小説の世界に入るのには時間がかかるものだが、この小説ではそれが結構長くかかったような気がする。
その理由の一つに、この小説には章立てがないこと。当初はどこで読むのを中断して良いのかよくわからず、ついにどうしようもなくなって中断すると言った次第だ。だから遅読の私には当初は読みにくい印象が先だった。

ところで、この小説には平文以外に、急に文体・字体の異なる箇所がある。どうやら他の著作物からの引用のようである。その前後で、場面転換することが多いので、それがインターミッションとなっているのか。だから、そこで読書中断としていた。
私にはありがちな迂闊で、兎に角読み終えてから気付いたのだが、小説の表題の扉の裏に小さく“本文中、書体が変更されている箇所は、他著作物からの転載です。”と細かい文字で記載されていた。そして確かに巻末にその引用文献のリストが示されている。
どうやら、昔、高校の古典で習った“本歌取り”の手法を使った仕掛けだ。これは“典拠の明らかな有名な古歌を本歌として語句・趣向を自分の歌に取り込んで、本歌を連想させることでその情趣を取り込んで、自作に奥行きを与えて表現効果の重層化を図る手法。新古今和歌集で盛んにおこなわれ、教養を誇った。”確かに、原典を知らなければ、半分興醒めである。だから巻末に出典リストがあるのだ。
さすが、プロの直木賞作家、凄い読書量と記憶力。一番最初の引用は、堀辰雄の“風立ちぬ”だそうだ。私も宮崎駿の同名のアニメを見て後、この短編を読んだが、いきなり出されても、気付くわけがない。調べてみてはじめて分かったが、原典では、小説後半にさしかかったところで瀕死の恋人に主人公が「おれはお前のことを小説に書こうと思うのだよ。・・・おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、・・・おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。分るだろう?」と言って、小説にする決意を示している場面だ。作者・山田氏も同じ思いで“書く”のだと読者に決意表明したつもりなのだろう。
他の“本歌取り”は押して知るべし、原典に気付くわけがない、知ったことか。何だか、それぞれその場面にふさわしい表現になっているのだろうが、本歌を知らねば“猫に小判”でしかない。先ほど言ったように、せいぜいでインターミッションに活用する程度が実態だった。無教養者にザンネン!

この小説の一番最初の“本歌取り”手前にも巧妙な仕掛けがある。これは文庫本を読み終えて、巻末の“解説”を読まなければ、全く気付くことはない。
文庫本には大抵こうした解説が付いていてありがたい。おまけに安いのが良い。ここでは豊島ミホ氏が解説している。

主人公の慈雨は恋人の栄に、どうして自分たちの出会いが運命だと言ったのかと問い詰めている。そこで、栄は“おれと同じ名前の人が書いた大好きな小説があるんだ。うんと短いやつ。その主人公の名前、なんと、おまえとおんなじ。おれら、作者とヒロインだぞう、すごいだろう”と言っている。ここで、栄は壷井栄なのだが、作者はわざと無政府主義者・大杉栄の名前を出して読者に目くらましさせて躓かせ、大きな仕掛けを見えにくくしてみせている。これ、作者のいたずら。
その“解説”によれば、この小説の主人公の“慈雨”は、壷井栄の短編小説“あたたかい右の手”に登場する少女の主人公・竹子のおさななじみの名前だそうだ。解説を引用する。“慈雨ちゃんはぎゅうぎゅ詰めの汽車の中で、乗客に押しつぶされて死んでしまう。それを竹子が惜しむところでこの物語はおわるのだが、読んでびっくりしたのは、慈雨自身、そして慈雨の両親が、その死に抵抗しなかったことである。おっとりと育った慈雨は、満員の汽車の中で他人を押し返すことを知らず、声をあげることもできない。また、なにかの宗教を猛烈に信じている慈雨の両親は、神の意として、慈雨の死を受け入れてしまう。美しい心のままで紙に召された慈雨は幸せだ”というのだ。ここで“あたたかい手”というのは、“多分、本人が必要としていなくても差し出される手のこと”で、“絶対にあなたを生かす、あなたがなんと言おうとこの手であなたを世界にとどめさせる、そういう意思のある手のこと。「あたたかい右の手」の物語で、実際に慈雨を救いうる手は、作者である「栄」の手でしかなく、それゆえに「無銭優雅」の栄は、「竹子」ではなく「栄」なのだ”と解説している。
だからこそ、この小説の最後の部分は理解ができると思うのだが、解説者はこれが理解できないというのだ・・・。その最後はこうだ。“私と同じ名を持つ物語の中に棲んでいた女の子は、ある日、列車の中で押しつぶされて、たったひとりきりで死んだ。”この小説の慈雨には、栄氏が居て、孤独ではない明るい運命の確信を持てているのではないか。少々、込み入った仕掛けではないか。正に根幹の本歌取りだ。

恋愛小説に死はつきものという。そう“風立ちぬ”はそのものだ。栄は“死って、恋のすげえ引き立て役なんだ。”・・・“うん。ひとりでなんか死なせないよ。どうせ死ぬなら、一緒に死のう”と言っている。
そうした台詞の伏線として、栄のこの家で“あそこで、おれのかみさん、首吊って死んだんだよ”と、栄が鴨居を指さした思い出を慈雨に語らせている。だがこれは、栄が慈雨を試した仕掛けだったと、小説の終わりで知れる。
読み終わって気が付けば、この慈雨の幸せは、実父の死の後に訪れている。恋愛小説につきものの死は、ここにあった。

小説を読んでいる間に、浅学の私も気付くような隠れたアフォリズムが随所にある。解説でもその点に言及している。作者は読者がそれに気付くだろうか、と試しているかのようだ。それが、いくつあったのか読後に示しあうゲームがあっても面白いのではないか。
解説では次のように指摘している。“古びた日本家屋である北村家のディテールや、四季の花や食べ物、それから慈雨の繰り出すアフォリズムと、味わってほしいものは作中に山ほどある。―「気の利いたアフォリズムのない恋愛小説なんてつまらない」と山田詠美さんは刊行時インタビューで語っていた。”

非常に良く計算された、仕掛けが随所に緻密に配置されているが、普通の恋愛小説を装っている。何も知らなければ、普通に読んで感動して、済ませることも可能だ。その点では、宮崎駿のアニメ“風立ちぬ”の上を行くように思う。作家の頭の良さと、深い教養に感嘆するばかりだ。どうしてこのような小説が、市中の本屋さんから姿を消しつつあるのだろうか。日本の痴性主義のなれの果てであろうか。
でも、この小説、何で“無銭優雅”なのだろう。まぁ、金持ち階級の話ではないが、それほどのビンボーでもない、それなりの定職を持った、中の中の中産階級の話ではないのか。元地主一族の息子とサラリーマンだが会社役員のお嬢さんの中年の恋バナ。否、見ようによっては、むしろ現代の高等遊民ではなかろうか。これが未だ2000年代の社会意識だった、ということを反映しているのかも知れない。
果て、重厚な小説だったが、残念ながらこれくらいでは私の女性への謎は未だ解けていない。だが、私の心に響く一滴の良質の清涼剤にはなったような気がする。山田詠美氏の小説をもっと読んでみたい。その多面性にも興味がある。

 

 

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