The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“狂信”と“向社会性”―経営理念の構築に際して
さて、私はここで、一つの本を ご紹介しようと思います。但し、この本を 推薦の書として紹介するものではありません。批判の対象として、また 個人的な一つの精神的決着をつけたく ここに取り上げました。
私自身のこのような考えを 公表するのは あまり気が進まず、今日までかなりの時間を要しました。ですが、その時間の経過の中で、やはり どうしても 一旦は決着をつけておくべきだと思うようになり、その意志が 最近強くなったのです。
実は 私には個人的に関係のある中小企業経営者が 居ました。そして、彼の経営する企業の戦略構築の お手伝いをしようということになっていました。
ところが、経営理念の構築で ある種行き詰まりが生じたのです。そして その原因がこの本というか、この本のテーマの“思想”でした。私には この“思想”を 経営理念の中心に据えるのは その会社のステークホルダーに、良い印象を与えないように思えました。この表現では、いかに“経営理念”と称しても 心ある人は去って行ってしまうと直感したのです。
ところが、どうやら その経営者の話によれば この“思想”の唱道者には かなりの“信者”があり、そのセミナーでは 私には安くないと思える会費が 集められているとのことです。その活動の中心は関西で、どうやら“信者”は 中小企業経営者が ほとんどで “高価な”会費も 集め易いのでしょうか。
そして 注意深く ネット検索してみると、この“思想”の影響を受けたと思われる 複数の企業の ホームページを見ることもできるのです。
この本の著者は ある仏教寺院の 御住職であり、お上人様でいらっしゃいますが、この本は “経営書”なのか、“宗教書”なのか、いずれなのか判断がつきません。
“宗教書”ならば、今この場での論評の対象にはなりません。“宗教書”ならば、たとえ独断と偏見に満ちていようと、“信教の自由”を尊重するべきだと思いますので批判の対象にしてはならないと思うからです。
“経営書”ならば その手法は科学的でなければならず、その点において評価の対象になります。なぜならば、その手法は “条件が揃えば 再現するもの” でなければならず、それが 科学的でなければならない理由です。つまり “会社経営は こうすれば ほとんどの場合 こうなる”という客観性、実用性が 経営学の特徴であるはずなのです。“祈れば済む”あるいは“信心で経営”など ということでは 経営学的手法とは言えません。
さて 私は この本を 一応“経営書”として捉え、その意味で、この本は科学的なのか見てみたいと思うのです。具体的に この本の記述内容の一部から 紹介してみましょう。
この本の冒頭、“歴史的大転換に遭遇した現代社会”と題して“西ヨーロッパ、アメリカ、それに日本といった経済先進国を中心に、今、歴史的な経営環境の激変が北半球全体を直撃しています。”から始まります。そして、“歴史は「治世の時代」と「乱世の時代」を繰り返しており、私達はこの二つの時代を交互に生きていくことになります。” と展開し、さらに 突然に “歴史は上元60年、中元60年、下元60年の計180年を1サイクルとして繰り返され、上元と中元の120年が治世の時代であり、下元の60年が乱世の時代と位置づけられています。・・・・そして、治世の時代は今から約23年前に終りました。” と 根拠不明の断言に入りこんでしまいます。
もっとも“東洋におけるもっとも代表的な暦学による史観”が 根拠とのことですが、“東洋” とは 具体的にどこなのでしょうか?中国なのでしょうか。“もっとも代表的な暦学”とは 何を指し、どのような文献を紐解けばよいのでしょうか。浅学な私のようなものにも分かるように 説明していただきたい、と思うのです。それとも浅学な者には 説明しない、ということでしょうか。
“治世の時代は今から約23年前に終りました”ということは この本の“まえがき”の日付が2006年3月となっていますので、正確には “約”1983年3月頃から“乱世”ということです。その前120年は治世ですので、1945年に終了した第二次世界大戦も “治世”であったことになります。ナルホド!そういえば 1868年の明治維新も 幕末の動乱も “治世”となります。・・・奇異な印象です。
それに、いわゆる “歴史的大転換”は 何故 北半球に限定されるのでしょうか。今 経済的に話題の中心はBRICSで、南半球も含まれているのではないでしょうか。このようなグローバルな 環境変化になっていることが 有史以来の上大きな 問題だと思うのですが どうなのでしょう。
そして この本は、最後の“「あとがき」に代えて”で、“宇宙が人間を守るために、宇宙のすべての構造は成立しています。”という断言がテーマで 終わっています。この主張も 十分な納得できる説明が なされずに終わってしまっています。
この本が 仏教の一宗派の 説教の書であるとしても、釈尊は 不可知的内容の 議論を忌避したように伺っております。ここで、不可知的“宇宙”を ワザワザ取り上げることが 適切なのでしょうか。
それに “宇宙”が この“思想”の視野に入っていながら “地球環境”というテーマが 本書には欠落していますが、何故なのでしょう。今や 会社経営においても “地球環境”を視野に入れなければならず、まさにこの点において“歴史的転換点”に立っているのですが、この点について 著者は 一切 触れず、誤った歴史認識を展開しています。
さらに この“思想”の核心部分は いわゆる弁証法の 特に “止揚”という概念とかなりオーバーラップしているように思います。ですから 正確に“思想”と称するならば その弁証法との関係を 説明する必要があると思うのですが、本書では とうとうそのような論述は 最後までありませんでした。また、この“思想”は、この本では 弁証法と比較して 十分に練り上げられた印象は乏しく、かなり程度が低いものと感じてしまいます。
特に、“関係的思考”などという概念を述べたところでは “(対立する)相手から歓迎される意見を述べる”ということを推奨し、“自分からの一方的な意見を述べる”ことを排撃しているのですが、この二つの態度を取る前提となる原則が まさに この“思想”の原点になるはずではないかと思うのですが そのような原則について 全く述べられることはありませんでした。あるいは、“(対立する)相手から歓迎される意見を述べる”に至る 思考のプロセスのあり方についても 全く言及されていません。つまり、“関係的思考”とは “単なる迎合主義”でしかないのではないかと思われます。
この“思想”に従って無原則な思考をさらけ出すことは 返って 信頼を失うものであることは 明らかではないでしょうか。
また この本とは別に、この著者の講話をテープにしたものを 拝借して聞いてみたことがあります。
その講話では “複雑系”をテーマにしていました。そして ここでも“宇宙有機体論”を展開していました。教団の教義なら それで 仕方ないのですが、論証のない、独断に満ちた結論だったと記憶します。
ついでに、その講演の中では、関東大震災の際の 森永乳業の社長が無償で粉ミルクを被災者に配布していた、というエピソードを紹介し無条件に礼賛しておられました。普通は 森永粉ミルクと言えば 砒素ミルクの事件を思い浮かべます。同じ会社の経営者の2つの行為の間に、どのような関連があるのか、森永が 途中でどのように変質したのかしていないのか。そして それはどうしてなのか。会社経営を 評論する者としては 正しく評価するべきです。この“思想”を用いれば、森永乳業の会社の動き全体を ズバッと 把握し本質に迫る洞察が 可能なはずですが この二つの行為を“分離”して 一方だけを取り出して解説するというのは一体どういうことでしょうか。
仏教宗派の お上人様として、この著者が 砒素ミルク事件の被害者の心情に 思いが至らないのは どういうデリカシーなのでしょう。私は この講演に不快感すら覚えました。
この本の著者が 仏教者であるなら 一体 “八正道”を どのように見ておいでなのでしょう。これまで お上人様となられるまで どのような ご修行をなされたのでしょうか。
この本の表題からも見て取れるように、どうやら 世間に流布したような言葉や 多少最新の知識(詳細で誤っていることが垣間見える)をいろどり、借用して 自己の“思想”として売り出したものではないか、と思われます。ところが、なぜだか新鮮味が乏しく、返って 古臭い印象があります。このように著しくバランスを欠いた、安っぽい“思想”に 何故 関西の 少なからざる中小企業経営者たちは飛びつくのでしょう。
クライアントたるコンサル先を そのコンサルタントが批判することは 原則的には御法度なのですが、もはや コーチング・テクニックの領域を超えていると思われました。そこで私は この“思想”についての疑念の一部を 冒頭紹介した経営者に 正直に開陳しました。すると その途端、議論の余地無く 出入り禁止となってしまいました。議論不能と いうことは いかにも理不尽。その指向するものが論理性に乏しく、“科学的”でないことの 一つの証左では ないかと思われます。
それとも これは “思想”に対する かの経営者の個人的な理解力不足の問題であって “関係的思考”の実践が不十分だっただけで、“思想”そのものの欠陥ではない、と言えるのでしょうか。
私は個人的な資質に矮小化される問題ではないように思います。いわゆる思想には 本来“純化”が求められる性質があり、その主張を徹底させるというのが存在理由であるため、異分子を排除する傾向は 当然の帰結であるとも言えるでしょう。
この本の理念が、いかに“思想”と称していても 万人を包み込む包容力を持ち得ず、人を遠ざけてしまう思想であれば、それは“経営理念”の本来の用をなさないものだと思うのです。そうなれば、この“思想”は、その“統合”という理念・呼称にも関わらず 大いなる自己矛盾を起こしていると言えます。
逆に、怪しい論理の“思想”には 多くの人びとの納得を得られる訳が なく 結局 世の中から浮き上がった思想となってしまうでしょう。そうなれば、その“思想”は 狂信へ進展する可能性があります。そして、それが 狂信となればカルトとなります。そうなれば、それは もはや企業ではなく 秘密結社の類になってしまい、ビジネスの発展を阻害する要因になります。
それに比べて 以前に ご紹介した“向社会性”という概念は “狂信”からは ほど遠く、オープン・マインドを基礎としているので、人々を引き付ける“経営理念”の中心に据えることのできるものだと 改めて思うのです。つまり、“向社会性”を ベースに そこに経営者の信条を 載せて行くのが健全な “経営理念”のあり方ではないかと思うのです。
企業・組織には ステーク・ホルダーとして様々な人が関わるものであり、かつその様々な人々を できるだけ広く受入れることが可能でなければならないのですが、その様々な人の思いが ある方向に一致、つまりベクトルが合っていなければなりません。だからこそ 会社には “狂信”ではなく“向社会性”が 求められ、その“向社会性”が その会社の多様性を生み、その多様性が 今度はその会社を強固なものにして行くはずなのだと思うのです。
この記事かなり長くなってしまいました。どうやら 私はかなり困難なテーマに陥ってしまった印象です。つまり、“宗教性と会社経営” という 個人の内面に迫る問題でありながら、会社という社会の公器を 扱わなければならないからです。
ですが 少なくとも“経営理念構築”に 関係する時、場合によっては避けて通れないテーマではあります。
私自身のこのような考えを 公表するのは あまり気が進まず、今日までかなりの時間を要しました。ですが、その時間の経過の中で、やはり どうしても 一旦は決着をつけておくべきだと思うようになり、その意志が 最近強くなったのです。
実は 私には個人的に関係のある中小企業経営者が 居ました。そして、彼の経営する企業の戦略構築の お手伝いをしようということになっていました。
ところが、経営理念の構築で ある種行き詰まりが生じたのです。そして その原因がこの本というか、この本のテーマの“思想”でした。私には この“思想”を 経営理念の中心に据えるのは その会社のステークホルダーに、良い印象を与えないように思えました。この表現では、いかに“経営理念”と称しても 心ある人は去って行ってしまうと直感したのです。
ところが、どうやら その経営者の話によれば この“思想”の唱道者には かなりの“信者”があり、そのセミナーでは 私には安くないと思える会費が 集められているとのことです。その活動の中心は関西で、どうやら“信者”は 中小企業経営者が ほとんどで “高価な”会費も 集め易いのでしょうか。
そして 注意深く ネット検索してみると、この“思想”の影響を受けたと思われる 複数の企業の ホームページを見ることもできるのです。
この本の著者は ある仏教寺院の 御住職であり、お上人様でいらっしゃいますが、この本は “経営書”なのか、“宗教書”なのか、いずれなのか判断がつきません。
“宗教書”ならば、今この場での論評の対象にはなりません。“宗教書”ならば、たとえ独断と偏見に満ちていようと、“信教の自由”を尊重するべきだと思いますので批判の対象にしてはならないと思うからです。
“経営書”ならば その手法は科学的でなければならず、その点において評価の対象になります。なぜならば、その手法は “条件が揃えば 再現するもの” でなければならず、それが 科学的でなければならない理由です。つまり “会社経営は こうすれば ほとんどの場合 こうなる”という客観性、実用性が 経営学の特徴であるはずなのです。“祈れば済む”あるいは“信心で経営”など ということでは 経営学的手法とは言えません。
さて 私は この本を 一応“経営書”として捉え、その意味で、この本は科学的なのか見てみたいと思うのです。具体的に この本の記述内容の一部から 紹介してみましょう。
この本の冒頭、“歴史的大転換に遭遇した現代社会”と題して“西ヨーロッパ、アメリカ、それに日本といった経済先進国を中心に、今、歴史的な経営環境の激変が北半球全体を直撃しています。”から始まります。そして、“歴史は「治世の時代」と「乱世の時代」を繰り返しており、私達はこの二つの時代を交互に生きていくことになります。” と展開し、さらに 突然に “歴史は上元60年、中元60年、下元60年の計180年を1サイクルとして繰り返され、上元と中元の120年が治世の時代であり、下元の60年が乱世の時代と位置づけられています。・・・・そして、治世の時代は今から約23年前に終りました。” と 根拠不明の断言に入りこんでしまいます。
もっとも“東洋におけるもっとも代表的な暦学による史観”が 根拠とのことですが、“東洋” とは 具体的にどこなのでしょうか?中国なのでしょうか。“もっとも代表的な暦学”とは 何を指し、どのような文献を紐解けばよいのでしょうか。浅学な私のようなものにも分かるように 説明していただきたい、と思うのです。それとも浅学な者には 説明しない、ということでしょうか。
“治世の時代は今から約23年前に終りました”ということは この本の“まえがき”の日付が2006年3月となっていますので、正確には “約”1983年3月頃から“乱世”ということです。その前120年は治世ですので、1945年に終了した第二次世界大戦も “治世”であったことになります。ナルホド!そういえば 1868年の明治維新も 幕末の動乱も “治世”となります。・・・奇異な印象です。
それに、いわゆる “歴史的大転換”は 何故 北半球に限定されるのでしょうか。今 経済的に話題の中心はBRICSで、南半球も含まれているのではないでしょうか。このようなグローバルな 環境変化になっていることが 有史以来の上大きな 問題だと思うのですが どうなのでしょう。
そして この本は、最後の“「あとがき」に代えて”で、“宇宙が人間を守るために、宇宙のすべての構造は成立しています。”という断言がテーマで 終わっています。この主張も 十分な納得できる説明が なされずに終わってしまっています。
この本が 仏教の一宗派の 説教の書であるとしても、釈尊は 不可知的内容の 議論を忌避したように伺っております。ここで、不可知的“宇宙”を ワザワザ取り上げることが 適切なのでしょうか。
それに “宇宙”が この“思想”の視野に入っていながら “地球環境”というテーマが 本書には欠落していますが、何故なのでしょう。今や 会社経営においても “地球環境”を視野に入れなければならず、まさにこの点において“歴史的転換点”に立っているのですが、この点について 著者は 一切 触れず、誤った歴史認識を展開しています。
さらに この“思想”の核心部分は いわゆる弁証法の 特に “止揚”という概念とかなりオーバーラップしているように思います。ですから 正確に“思想”と称するならば その弁証法との関係を 説明する必要があると思うのですが、本書では とうとうそのような論述は 最後までありませんでした。また、この“思想”は、この本では 弁証法と比較して 十分に練り上げられた印象は乏しく、かなり程度が低いものと感じてしまいます。
特に、“関係的思考”などという概念を述べたところでは “(対立する)相手から歓迎される意見を述べる”ということを推奨し、“自分からの一方的な意見を述べる”ことを排撃しているのですが、この二つの態度を取る前提となる原則が まさに この“思想”の原点になるはずではないかと思うのですが そのような原則について 全く述べられることはありませんでした。あるいは、“(対立する)相手から歓迎される意見を述べる”に至る 思考のプロセスのあり方についても 全く言及されていません。つまり、“関係的思考”とは “単なる迎合主義”でしかないのではないかと思われます。
この“思想”に従って無原則な思考をさらけ出すことは 返って 信頼を失うものであることは 明らかではないでしょうか。
また この本とは別に、この著者の講話をテープにしたものを 拝借して聞いてみたことがあります。
その講話では “複雑系”をテーマにしていました。そして ここでも“宇宙有機体論”を展開していました。教団の教義なら それで 仕方ないのですが、論証のない、独断に満ちた結論だったと記憶します。
ついでに、その講演の中では、関東大震災の際の 森永乳業の社長が無償で粉ミルクを被災者に配布していた、というエピソードを紹介し無条件に礼賛しておられました。普通は 森永粉ミルクと言えば 砒素ミルクの事件を思い浮かべます。同じ会社の経営者の2つの行為の間に、どのような関連があるのか、森永が 途中でどのように変質したのかしていないのか。そして それはどうしてなのか。会社経営を 評論する者としては 正しく評価するべきです。この“思想”を用いれば、森永乳業の会社の動き全体を ズバッと 把握し本質に迫る洞察が 可能なはずですが この二つの行為を“分離”して 一方だけを取り出して解説するというのは一体どういうことでしょうか。
仏教宗派の お上人様として、この著者が 砒素ミルク事件の被害者の心情に 思いが至らないのは どういうデリカシーなのでしょう。私は この講演に不快感すら覚えました。
この本の著者が 仏教者であるなら 一体 “八正道”を どのように見ておいでなのでしょう。これまで お上人様となられるまで どのような ご修行をなされたのでしょうか。
この本の表題からも見て取れるように、どうやら 世間に流布したような言葉や 多少最新の知識(詳細で誤っていることが垣間見える)をいろどり、借用して 自己の“思想”として売り出したものではないか、と思われます。ところが、なぜだか新鮮味が乏しく、返って 古臭い印象があります。このように著しくバランスを欠いた、安っぽい“思想”に 何故 関西の 少なからざる中小企業経営者たちは飛びつくのでしょう。
クライアントたるコンサル先を そのコンサルタントが批判することは 原則的には御法度なのですが、もはや コーチング・テクニックの領域を超えていると思われました。そこで私は この“思想”についての疑念の一部を 冒頭紹介した経営者に 正直に開陳しました。すると その途端、議論の余地無く 出入り禁止となってしまいました。議論不能と いうことは いかにも理不尽。その指向するものが論理性に乏しく、“科学的”でないことの 一つの証左では ないかと思われます。
それとも これは “思想”に対する かの経営者の個人的な理解力不足の問題であって “関係的思考”の実践が不十分だっただけで、“思想”そのものの欠陥ではない、と言えるのでしょうか。
私は個人的な資質に矮小化される問題ではないように思います。いわゆる思想には 本来“純化”が求められる性質があり、その主張を徹底させるというのが存在理由であるため、異分子を排除する傾向は 当然の帰結であるとも言えるでしょう。
この本の理念が、いかに“思想”と称していても 万人を包み込む包容力を持ち得ず、人を遠ざけてしまう思想であれば、それは“経営理念”の本来の用をなさないものだと思うのです。そうなれば、この“思想”は、その“統合”という理念・呼称にも関わらず 大いなる自己矛盾を起こしていると言えます。
逆に、怪しい論理の“思想”には 多くの人びとの納得を得られる訳が なく 結局 世の中から浮き上がった思想となってしまうでしょう。そうなれば、その“思想”は 狂信へ進展する可能性があります。そして、それが 狂信となればカルトとなります。そうなれば、それは もはや企業ではなく 秘密結社の類になってしまい、ビジネスの発展を阻害する要因になります。
それに比べて 以前に ご紹介した“向社会性”という概念は “狂信”からは ほど遠く、オープン・マインドを基礎としているので、人々を引き付ける“経営理念”の中心に据えることのできるものだと 改めて思うのです。つまり、“向社会性”を ベースに そこに経営者の信条を 載せて行くのが健全な “経営理念”のあり方ではないかと思うのです。
企業・組織には ステーク・ホルダーとして様々な人が関わるものであり、かつその様々な人々を できるだけ広く受入れることが可能でなければならないのですが、その様々な人の思いが ある方向に一致、つまりベクトルが合っていなければなりません。だからこそ 会社には “狂信”ではなく“向社会性”が 求められ、その“向社会性”が その会社の多様性を生み、その多様性が 今度はその会社を強固なものにして行くはずなのだと思うのです。
この記事かなり長くなってしまいました。どうやら 私はかなり困難なテーマに陥ってしまった印象です。つまり、“宗教性と会社経営” という 個人の内面に迫る問題でありながら、会社という社会の公器を 扱わなければならないからです。
ですが 少なくとも“経営理念構築”に 関係する時、場合によっては避けて通れないテーマではあります。
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「私は個人的な資質に矮小化される問題ではないように思います。いわゆる思想には 本来“純化”が求められる性質があり、その主張を徹底させるというのが存在理由であるため、異分子を排除する傾向は 当然の帰結であるとも言えるでしょう。」