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ひょうご震災記念21世紀研究機構・「研究戦略センター」発足記念シンポジウムを聴講して

今年金融市場で、セル・イン・メイはあるのか。未だに悩んでいる。
やはり何をするのか分からないトランプ大統領、ついにはFBI長官の首を切ってしまった結果、大騒動のようだ。これは第二のウォーターゲートになるとの予測もあり、そうなれば自分自身が辞任しなければならない可能性が高くなったと言われている。
一方では、北朝鮮の軍事リスクを煽っておきながら、オスロで北の当局者と会談を行い、懸念された火遊びは終焉となるのだろうか。実際問題としては核開発凍結を合意したとしても、実効ある査察が可能かに尽きるのではないか。そうしている間に、核の生産が進み小型化が実用化されてしまえば、脅威は増すばかりだ。
トランプ政権は公約の実行力に大いに疑問符が付き、いずれ政権崩壊となれば米株は暴落する。仏韓の大統領選挙は、波乱があるかと懸念されたが実際は事なきを得た。しかし、他の要因でも政界は激しく変化している。
日本の首相は変な国会答弁をしていても忖度社会の日本ではいつまでも支持率が下がらないので、ますます思うがままの身勝手な答弁を繰り返し、これを当人に“誠実”だと言わせているのでは、世界に取り残されるのではないか。
しかも特定のメディアだけを相手に憲法の改正を語っていて、それを国会答弁では答えず、それを熟読せよという。ここでも御夫人同様に ある時は私人、ある時は公人とエエトコドリで立場を使い分けるという、ヌエのようなあり方で、国権の最高機関である国会を小ばかにしている。にもかかわらず大問題にならないのは何故なのか。
こんな実に下品で自己本位な人間でも日本の首相になれるものだと、ほとほと感心してしまう。私もこんな忖度のない反政府的発言を繰り返すようであれば、いずれ治安機関の監視対象になるかも知れない。私はやっていないが、ツイッターも危険ですゾ。

さて、ここでいささか旧聞に属する話かもしれないが、ひょうご震災記念21世紀研究機構に“研究戦略センター”が発足したということで、記念シンポジウムが兵庫県公館でゴールデンウィーク前に開催され、聴講に出かけたので、これを紹介したい。錚々たるパネラーがどのような発言をするのか楽しみだった。
兵庫県公館は“1902年(明治35年)に建てられた庁舎建築。当初 の用途は兵庫県庁本庁舎。1985年(昭和60年)からは県の迎賓館および県政資料館 として活用されている。” ということだが、以前からJR元町駅の北側を歩いた時、きれいに整備のされた建物だと思っていたが、県民でありながら中へ入るのは今回が初めてだった。一般に常時無料公開されているとは知らなかった。ついでに“美術家・絵本作家「中辻悦子展」”も見ることができた。

●開催日時:2017年4月25日(火) 13:30~16:30
●場所:兵庫県公館講堂
●記念講演
[講演者]御厨 貴(東大名誉教授;ひょうご震災記念21世紀研究機構・副理事長兼研究戦略センター長)
●パネル・ディスカッション
[テーマ]災害多発時代を生きる~21世紀の安全・安心な社会をめざして
[コーディネーター]五百旗頭 真(ひょうご震災記念21世紀研究機構・理事長)
[パネリスト]
御厨 貴(東京大学名誉教授;副理事長兼研究戦略センター長)
河田 恵昭(京都大学名誉教授;副理事長兼人と防災未来センター長;中央防災会議専門委員)
加藤 寛(理事兼こころのケアセンター長)
室崎 益輝(兵庫県立大学大学院減災復興政策研究科長・教授)
重川 希志依(常葉大学大学院環境防災研究科長・教授)

この研究戦略センターのトップに 日曜朝のテレビ番組“時事放談”の御厨貴氏が就いたということで、記念講演があった。五百旗頭理事長の挨拶では、“テレビではなく、ナマの御厨さんの講演をお聞き下さい。”との案内だった。
御厨 貴氏の講演内容は災害の戦後70年概要史を通じての今後への対応であった。以下、レジュメなく聞き書きなので不正確なところがあれば容赦願いたいが、紹介する。

○記念講演;御厨 貴
災害に対して“安全・安心”という言葉があるが、これは古くからある言葉ではなく2003年に政府・科学技術庁への報告書に使ったのが最初だった。“安全”は自然科学での概念として成立し得る客観基準に基づける。“安心”は主観的であり、客観的に評価できない難しい課題であるが、具体的にどうするかは今後避けて通れない。
昭和20年(1945年)代は自然災害による被害は当たり前という社会意識だった。特に水害が多発するように国土計画がいい加減だったが、被災すれば呆然として政府を非難することもなく、運命を甘受するところがあった。政府も復旧に全力を挙げるだけで良かった。事前防災の発想はなく、公共政策の問題としては戦後復興の中にはなかった。
1955年以降になると、水俣有機水銀汚染や森永ヒ素混入ミルクが社会問題化したが、ある特定の地域や人々の課題であり、その場限りの抑制課題としての認識だった。
これが昭和40年(1965年)代に入ると公害が社会問題となった。一方では豊かになることの代償として甘受するべきとの認識も依然としてあったが、公の利益追求の蔭で他人の権利が脅かされているとの考え方が一般化した。
その後、公害行政に関する反省が聞かれるようになった。水俣病の原因は既に分かってはいたが、平成7年(1995年)にようやく元通産官僚の次の “政府としては生産を止めろ、とは言えなかった。経済発展の為には口をつぐむのは当然だろう。”という証言が出てきた。しかし、フクシマ原発で解決できない問題が起きてしまった。起きないはずの事故が起きた場合、重大な問題となるのは分かってはいたことだった。
公害抑制・防止は1970年代に頂点に至ったが、この頃は未だ科学技術を信じていた時代だった。科学的対策で四日市喘息も解消されたので、科学技術に対するある種楽観論、予定調和への信仰があった。
しかし平成7年(1995年)の阪神大震災やオウム・サリン事件は“安心・安全論”のターニング・ポイントとなった。つまり関西のほぼ固い地盤だったはずの地(大規模地震の震源となるとは思っていなかった)に、大きな震災が発生し、“安心・安全の日本は意外にもろい”との自覚が生まれるようになった。中には破壊状態を見て1945年の空襲を想起する人もいた。
ここで野口武彦が“幕末気分”で指摘した時代末の社会心理と同じ状況になったのだ。当時も安政地震や諸外国による砲艦外交があり、国際的な安全保障の危機も目前にあった。先々が見えず、予測していても、それ以上の災害がやって来る。一寸先は闇となった時代なのだ。
安全基準に信頼と安心を寄せられなくなり、それを示しても安心の保障ができなくなった。10年前の阪神大震災で指摘されたが、念を入れるかのように東日本大震災で再確認せざるを得なくなった。
今後本当にこの国を救う人材は現れて来るのか。昨年、公開された映画“シンゴジラ”は、正体不明の怪物にどう対処できるかの課題を示したものと解釈できる。この時、“有識者”は全く役に立たなかった。“真っ当な人間”よりは、世間からはみ出した“オタク”の方が役立つのか。同じような人間のトップの政治家が、できそうな人に全権を委任して従うことが出来るのか。そういう課題を思い起こさせる。
今後、想定される東京直下地震、南海トラフ地震に役所はどう動くのか。東北の失敗の事例を明らかにしたくない勢力が健全ならば、同じことをしでかすだけだ。これまでの経験知を素早く高知に移せるのか。対策の第1列から第n列をどう構成し資源をどう配分するのが公正・公平・効率となるのか 判断できるトップは居るのか。
幸い、熊本知事は事態をオープンにしようと努力していて、NPOやボランティアの協力があっても受援力が欠乏していては復旧に有効ではないことが明らかになって来た。これをオーラル・ヒストリーの手法で残したい。日本のどこかで何かが必ず起きる災害の時代に、様々の個別問題が多面体として浮かび上がってくる。これを集約して一点突破して実践知を編み出したいと考えている。

次に各パネリストによる短い基調講演があった。司会は五百旗頭理事長であった。
○河田惠昭“人と防災未来センターの挑戦”
組織としての将来像は、先ず内閣府防災のシンクタンク機能の向上がある。細目として①熊本地震の経験で福祉避難所の開設、熊本で上手くいかなかったプッシュ型支援、住宅の耐震化の効果検証で検討課題を提供 ②災害救助法など現行法体系の問題点つまり、被害がなくても機能する必要のある要素、自助、共助を活かす対策 ③大災害が国家規模の衰亡誘因となる社会認識醸成 ④京都・奈良・鎌倉等の文化財都市の被災復興(減災・予防)のあり方
次に、“人と防災未来センター”が率先してナショナル・ミュージアム構想へと格上げさせる。①東日本大震災や熊本地震のアーカイブズ利活用の大学以外へも普及させ防災意識向上に寄与 ②国家防災体制の拡充、イノべーティブな防災研究推進 ③内閣府に地震にしかない“災害調査研究推進本部”の台風などへの拡大 ④災害ミュージアムは兵庫県だけでなく広域連合や国家とのマッチング形式で運営化。
3番目には、防災関連の研究や実際に役立つ専門知識の普及人材育成がある。
災害多発国にもかかわらず全国に巨大災害の展示がないので、当センターは応援・助力する。或いは、実際に被災地支援を行い、実践の伴う経験知を深耕する。

○加藤寛“「こころのケア」の役割”
「こころのケア」は阪神・淡路大震災以降に普及した言葉で、“心的外傷(トラウマ)を受けた人へのケア”意味で、外傷者への心理社会的支援を指す。担い手は精神科医からボランティアまで居る。医療活動ばかりではなく、保健活動、生活支援も含まれる。真の復興のためには人々の“こころのケア”がなければ、それ以降の健全な社会発展は望めない。兵庫県こころのケアセンターは国の補助で兵庫県が運営する全国初の拠点施設として2004年4月に開設された。
JR福知山線脱線事故後の活動にも寄与した。海外にも支援(2006年スマトラ沖大地震、2008年中国・四川大地震)を実施。東日本大震災、熊本地震も当然支援実施。
今後も支援活動/教育研修/相談・診療を行って行くという。

○室崎益輝“21世紀の安全・安心な社会を目指して~人材育成の側面から”
・教訓の伝承と人材育成が課題。
教訓の伝承がなく被災経験が活かされなかった。被災責任としての恩返しの伝承が重要だが、伝える側の問題として個別事例をブラシュアップして理論化・一般化できておらず、伝える人材も不足、そうした羅針盤も存在しなかった。このための“人と防災未来センター”等の社会システムが必要である。防災には“種を運んでくる人:風の人”と“現地に即して育成する人:水の人”、“一人ひとりの市民として現場に根差した人:土の人”の協力・協調が必要で、これを意識した学校教育や企業の危機管理体制が求められる。
・減災戦略と減災復興政策研究科大学院の創設。
シティズンシップ、パートナーシップ、リーダーシップの発揮できる市民・行政・専門家一体の復旧・復興活動の推進を目指す。安全を広く捉え、さらに減災と復興を一体化して捉え、実践から変革へつなげる政策を志向する。

○黒川希志依“21世紀の安全・安心な社会をめざして~人材育成の観点から”
“いのちを守る”、“生き残った人の暮らしをつなぐ”、“人と地域の再建・再興”のためには、“自然現象の理解”、“被害の抑止策”、“被害の軽減策”の対策の検討が要る。“いのちを守る”ためには自助として、どこにどのような家に住み、どのように避難し、隣近所との協力を自分で決めて行動する。復旧時の“暮らしをつなぐ”避難所開設、物資の分配の最適解の共助の在り方を考える。“人と地域の再建・再興”は自立再建が基本であり、そこへ公的支援を受けて拡充するのが基本である。
求められる防災教育として、被災者とならないための人材育成が必要であり、防災力を最大に引き出せるリーダーの育成が必要である。また、自立自助の意識が高く、地縁に基づかない人脈をもつことが大切である。

パネラー個別報告は以上の通りで この後、パネルディスカッションが行われた。誰の発言かはここでは意図的に明らかにしていない。
現実の事例には個別性、一回性が含まれているので事例分析と要素の理論化・一般化は必要なことだ。そうでなければ来るべき大災害にはこれまでの経験が役に立たない。それが現状で出来ているだろうか。
事実を伝えるべきマスコミが不勉強のせいか、報道姿勢が画一的な予断に満ちている。役に立たない行政と不幸な被災者と言う図式を示すが、実際は不幸な被災者は声の大きい自分本位の少数者であることが往々にしてある。これには、行政は不思議に言い訳も否定もしない。(恐らく、声の大きい自分本位の少数者は日常化しているからだ。)この状況で第三者のNPOやボランティアが向き合って来るのだが、災害救助法の下で効果的に活動出来ているのだろうか。自助、共助、公助のアンバランスが実態なのだ。これが行き過ぎると昔の関東大震災で起きた武装した私的自警団の結成であり、その先に朝鮮人の虐殺が起きた。そういう点で、公的秩序の象徴としての制服の存在は重要だ。
被災現場には、その全体像を把握するグループが大切であり、これには現実に少し距離のある人々であるべきだ。NGO,NPO等のスキルのある人々の受け入れを現地社協が拒否する事例が目立った。
スキルのある人々が、現地で失敗経験を言うと喜ばれ、上手くいった事例を言うと嫌われる傾向にある。関西の支援者は平気で失敗を話すので受入れられ易かったようだ。支援者を支援する仕組が必要だ。特に現場の消防が大きく傷つくことが多い。やって当たり前の行政当局者の苦悩は大きいのが現実だ。
阪神震災の後、複数の震災で色々な事象が生じた。こうした県レベルの災害では知事の人格・識見・能力が問われる。東日本大震災での東北3県の対応は全てダメだった。その下の一般公務員の対応も良くなかった。支援に外部から2千人を超える支援者が入ったが、行政側に自分より有能な人物を使いこなす度量がなく、スキルを持った人達に任せて上手く使いこなせなかった。これでは何人助っ人が来ても足らないのは明らか。資金面でも不足しているにもかかわらず、借金を頑なに拒んだ。国家レベルでの資金調達では、覚悟がなく他人任せとなり30兆円は無駄になるだけ。唯一、泉田知事は人も金(復興基金)も上手く使った。今、熊本の蒲島知事は自分に必要な知識・情報を上手く使おうとしている。
復興の全体的将来像を発災後いつ考えるかが重要だ。阪神では国は下河辺委員会を起用したが、上から目線で“焼け太りはダメ”と最初に言ってしまい、失敗した。蒲島知事は発災後2日目に部下の反対を押し切って有識者会議を作ったが、こういう見識が必要だ。そのメンバーには中央に顔が効いて、客観意見を言える人を揃えることが大切だ。
阪神の失敗は公表されているので大いに参考になっている。特にその後の仮設住宅への入居ではコミュニティの破壊がないように配慮して上手くいっている。
私有財産への支援は不可、復興支援は不可という災害救助法の画一的適用は禍根を残す。これに対し、相馬市は発災後、役所に来れば3万円支給するとしたので被災者が集まり、結果的に被災実態の調査も素早く容易にやりきった。
復旧・復興の先頭に立つ知事は出来るだけメディアに出て市民に直接語る姿勢が必要だ。当時の兵庫県・貝原知事御本人は、それを心掛けたようだが、第三者から見て不十分だった。先頭に立っていることを示すのは難しいようだ。
創造的復興(ビルト・バック・ベター)を考えることが重要だ。(ころんでもタダでは起き上がらない姿勢)その後 様々な震災があったが、兵庫県は防災シンク・タンクをはじめ芸術文化センター、自然との共生・夢舞台を設立したが、他県では未だできていない。構想すらないのではないか。

何となく自画自賛の雰囲気を私は感じたが、事実ではある。災害という基礎自治体の根幹をゆるがす事態には、国レベルでの対応は隔靴掻痒となり、結果として資金の無駄遣いとなり、国家衰亡の元となるのではないだろうか。もっと都市自治体を活発化させるのが、日本の将来を切り開く要因になるのではないか。国の“地方創生”政策は日本社会のレベル向上に役立ったのだろうか。単なる掛け声だけの無駄遣いとなっていないか。もっともっと都市自治体の強化がさらに望まれるところだ。必要に応じて、自治体の広域連合で応える発想が今後さらに要求されるべきだろう。

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