The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
2020年年末ご挨拶
先週初めガースー政権の支持率が急落したとの報道が先週初めにあった。新型ウィルス対策は口では“早目、早目”だが、実際にはゴテゴテであることが、致命傷のようだ。それが原因なら、ウィルス対策の決め手に欠く政権にとっては支持率回復は困難な問題ではないだろうか。これで総選挙を戦うつもりか。さすがに与党内も浮足立つのではないか、と思いきや自民党内でも次の総選挙を睨んでの、大勢を集めた政治集会を懇談会や研修会と称して開催なさっておられるようだ。
対策がゴテゴテなのは、首相がかかわる利権に関係がない、むしろGo To そのものに利権があるから、それを止めることができないのではないだろうか。国益よりも、権力を私物化して私益優先になっているのではなかろうか。こうなれば、もはやガースーでもなく、カスではないのか?
対策がゴテゴテなのは、夏の第2波が治まった頃に、冬の感染拡大に向けた対策を全く講じなかったことが大きな要因である。
今頃、医療関係団体がこのまま放置すれば日本の医療体制は崩壊すると言い始めた。日本の医師の数は確かに、人口比で欧米の半分で、絶対数は少ないように見える。だが、新型ウィルスによる患者数は、欧米に比べて桁違いに少ないではないか。それにもかかわらず、欧米の医療は崩壊せず、日本の医療体制は簡単に崩壊するのか。
原因は新型ウィルスが法定伝染病に指定され、一部の専門の基幹病院でしか治療ができないためだとの指摘がある。そして、そうした基幹病院は大抵、公立病院となっていて、私立の病院では基幹病院となることを拒否する場合が多いのだという。何故ならば、こうした基幹病院になればこのような法定伝染病患者を受け入れる義務が生じ、そうなると報酬が低く、収益が上がらなくなるためだという。ところが、日本では国公立の医療機関より、私立病院が圧倒的に多いのだそうだ。それが基幹病院にならないので、新型ウィルス患者を治療する機関が少なく、一部の基幹病院の医療関係者にしわ寄せが集まり、そこが疲弊して、崩壊し始めているとのことだ。
危急存亡の事態に町医者も動員して、総力戦を実施するべきだろうが、現実は、その町のお医者さんは依然として、平常時態勢で診療を継続されている。これは現前に見る事実だし、マスコミの騒ぐ“医療崩壊”との差の違和感は不思議である。
もし、こうした矛盾が事実であるならば、そうした政治的問題を一つ一つ改善して、つまり法的な改正からはじまって、医療制度の急速な見直しが必要なはずだが、それが為されていないのだ。国全体が非常事態であるのもかかわらず、国会は例年同様年末年始閉じていて、来月中旬より開会としているようだ。そんな暢気なことで良いのだろうか。
やっぱり、ガースー政権は日本の国益全体が毀損されても何の関心もないのではないだろうか。だから、平気で会食を続けている。いつも通りのことを平然とやっていて、それがたまたま公けにされてスキャンダルになってしまっただけなのだ。危機感も緊張感も皆無。
ガースー政権が平然としていて緊急事態でないのならば、一般国民も平然と例年通り活動し、街の人出はこれ以上減少することはあるまい。また早期閉店が死活問題の飲食店は、夜の営業も継続する道理である。
期待はしてはいなかったが、前首相の釈明会見は単なる言い訳で終わった。これですべて清算されたのか。日本では首相に上り詰めると、すべての悪徳は問題視されないのか。これが民間の社長なら、どんな大会社であってもクビ、と面と向かって指摘した野党の議員がいる。下手すれば巨額の損害賠償を一生負わされる可能性もある。
ところが首相のような権力者にはゴマ磨り忖度が十重二十重で守ってくれる。一方では貧者や弱者は簡単に切り捨てられている。日本では弱者の命は軽い。それもどんどん軽くなっている。だから新型ウィルス対策もいい加減なのだ。
日本社会がそんな堕落し腐敗した社会になっているが、それで良いのか。それが楽しい、愉快な社会なのか。これは盤石の腐敗政権の恒久的持続可能性があるためだとは、思わないのか。何故、選挙に行かないのか。何故、腐敗政権に利する行為を平気でするのか。日本人にはこんな正義感すらないのか。
さて、本年もこれで終わり!年末の一大事業、年賀状作成・差出も何とか25日中に出し終えた。気付けば近年にない早い対処だったのではないだろうか。差出先は、生涯200を超えることはなく、気付けば今年は75件に絞られた。出しても返信のない相手もあり、思いの一方通行だったのを今年はやっとそれを切ることにしたのだ。下手に出し続けていると、出さなくていい香典も出さねばならなく恐れがある、とシミッタレた考えからもある。
身辺のこと、我が家居室内は相変わらず、とっ散らかったままなので、何とかしなければならない。そう思いつつ既に何年もほったらかしだ。先ずは、年末最終にも何とかしなければならず、恐らく終わらないから、年明けも整理・整頓が必要だろう。
今年の反省だが、自分ではどうしようもないこと、これに煩わされることが大半だ。世の中とはそういうものだが、何だか未だにそうした理不尽に憤っている。
所属する組織の指導陣の見る目が無く、意見してもそれを取り上げない。だから、自分から見限った団体がある。その団体は、社会的影響力も小さいので見限ったのだ。一部の人間、それはたった一人なのだが、彼からは何とかして欲しいとは言っては来るが、肝腎の指導者層は具申意見を取り上げようとはしないので、見限り、付かず離れずにしている。
私は、もう少し社会的に影響力のある団体にも所属していて、そちらに活動を注力したが、こちらでも具申意見が影響力を持たない状態だ。こちらは神戸市と関係が深いので、結構社会的影響力は有るはずだが、何とその神戸市側から、今年ほぼその活動には意味がないと実質的に宣言された状態に陥ってしまった。この団体の指導者が神戸市当局者との日頃の接触を怠っていることが、遠因であろうと私は睨んでいる。しかしそれを指導者は全く理解せず、2年前には外堀を埋められ、今度は同じように内堀を埋められてしまったのだ。これからは、市当局への政治力というか外交努力が必要だと思うのだが、一向にそれを発揮する気配がなく、構成メンバーの若返りも進まず、この団体は座して死を待つのみといった観がある。
この団体指導者には、目下何をなすべきかが全く見えていないのであろう。神戸市から内堀を埋めると宣せられた時、さすがに指導陣は総辞任を宣したが、実際には一向に辞める気配もなくズルズル組織運営を継続している。その癖、一方では“辞任した身であるから、重要な決定は保留する。”と宣する有様。この即断、即決の時代に事態はますます悪くなって行っている。そうした実態から、この団体の内実は死に体になっているのだ。
勿論これには、現神戸市長の原則論・市政方針の無さや若手職員への指導力欠如の問題はある。いつぞやの神戸局テレビの年始番組で発言が殆どなかったことにがっかりした記憶がある。その癖、庁内では独裁者であるとの噂も耳にしているし、現業の現場末端に顔は出してはいないそうだ。
こういった情けない事態は、日本の国レベルでの政治状況とそっくりでもある。何だか、日本社会の活力と革新性に全く乏しい限りであることも、そっくりなのだ。
審査先の経営者にも革新性が全く見られず、“昨日までの続きで、明日も乗り切れる”と思っているかのようだが、それで将来が確実になるものとの自信もないのだ。若い従業員を教育し、革新の原動力にするべきだと思うし、そのためにEMS(環境マネジマントシステム)を活用するべきだと考えるが、EMSがそういうツールであるという機能の側面も理解できず見抜けてもいない。いわば知性に裏付けられた先見性や本質を見抜く力が全くないのだ。これで、この日本社会の明日に展望が持てるとは思えない。
このままでは、新型ウィルス禍の過ぎ去った後は、東アジア、極東の覇者であった日本は最劣等国に転落するであろう。国力は隣国韓国が直ぐ後ろに近づいてきているのが現実であるが、それすら的確に認識できていないのだ。一部の学者は10年以内に追い越されると予測しているにもかかわらずなのだ。実は“一部の学者”ではなく、ひょっとして多数の学者ではなかろうか。今や政権におもねっていない限り、学者人生も怪しい時代だから、真実を語らない学者も多くなったようだ。そのようなムードは今年の“ひょうご講座”の講師の大学の先生とのやりとりからも感じられた。
今年は三島由紀夫が日本の指導層の腐敗に将来を絶望し憤死して、50年であるためか、一部で三島ブームがあった。だが、これも生きた三島を知っている高齢者の間でのことで、それを知らない若い人や、知識のない人には広がっていない。日本社会への危機感の乏しいことの裏返しなのかも知れない。
日本人は、そういった危機感すら感じない享楽的キリギリス型人間ばかりになったのであろうか。一方では貧困にあえいでいる人々がいることも、黙殺し、自分さえ何とか享楽的に生きて行ければそれで良いというのであろうか。人生における危機はいつも何かのきっかけで、迫ってくるのが現実なのにもかかわらず、ちょっとした失敗で地獄に転落してそのまま、底なし沼に落ち込むような社会をそのままにしておいて良いのであろうか。常に、危機の淵に居るのが現実であるという、知性に乏しい人々になってしまったのだろうか。それに気付いた時は、大抵遅いのも人生の現実ではないのではないか。反知性にあり享楽的であること、それは罪ではないだろうか。
芥川龍之介はそういった日本社会の本質に気付き、“蜘蛛の糸”を書いたように思い、最近ハッとしたのだった。“蜘蛛の糸”はほぼ百年前に書かれた。ある日ふと気付くと利権という一筋の光明が見えた。それにすがりつき一心に他人を蹴落としても前へ出ようとし、それを“自助努力”だと信じたが、結局失敗し元の地獄に戻った。そんな話はこの日本社会にあまたあるのではないか。他者と一緒に救われたいという優しさは皆無なのだ。
閑話休題。話を私個人に戻そう。
最近、健康面で不安要素が特に酷くなってきた。特に、左ひざが何とも、回復の兆しが無い。入浴時、計40回のスクワットを実行しているが、どうしようもないので困惑している。だから、前回報告した阿弥陀が峰の太閤墓である豊国廟登攀には困難があるのだ。最近、親しくしている整体師と、その都度相談して、困難を超克できないまでも何とか緩和させていくのが基本であろう。
今日は、年末の大掃除で腕の筋肉が急に痛くなった。これまでこんなことは経験しなかった。衰えが激しくなった印象だ。
こういう老人のたわごとは、これ以上聞くに堪えないと想像するので、この話題はここで終わらせる。
人生につきまとうのは、“お勉強”なのでこれについて少し思うところを述べてみたい。
12月初めにジャン・ジャック・ルソーの“孤独な散歩者の夢想”を紹介したが、天才ルソーが老境をどのような思いで過ごしたのか、“お勉強”をどう考えていたのかが、知りたいこともあって、読んでみた側面もある。だが、ルソー自身には最早出し尽くし感があって、しかもその主張に敵対する人物が居るとの妄想のようなものもあり、老境の“お勉強”については意味がないと言い切っていて、参考にはならなかった。そういう人生もあるのだ。だがルソーの想像力が人類社会に及ぼした影響は計り知れないものがあるほど、偉大であることが、この年齢にして“お勉強”してようやく解ることができた。これが私のささやかな今年の“お勉強”の成果であろうか。
この“お勉強”は、西洋哲学の概観を西研先生を頼りに今後も続けて行きたい。それを“法哲学”の面に伸ばしていきたいとの“野望”を抱き始めている。できれば最終的には、しっかりした大学院の修士課程程度の法学研究科には就学してみたいとも思っている。
或いは、そのための受験勉強と捉えて、当面は“お勉強”してみたい。少なくとも西研先生の“現象学”の解説・入門にまでは“お勉強”を進めたいとも思っている。これが、来年度の目標になるのだろう。
今年前半では、空海や最澄に関する“お勉強”をしたが、仏教、特に密教に関して、歴史的な変遷の事実を多少理解できた程度で終わってしまった。しかし、これをさらに深める余裕は残念ながら私には無い、と考えている。
専ら、西洋哲学を軸に専念したい。そうしなければ、何かを極められないと思っている。
“予防原則”という言葉がある。これは、“化学物質や遺伝子組換えなどの新技術などに対して、人の健康や環境に重大かつ不可逆的な影響を及ぼす恐れがある場合、科学的に因果関係が十分証明されない状況でも、規制措置を可能にする制度や考え方のこと”とされる。極めて正当な考え方のように見えるが、“ヨボウケンソク予防検束”と法学的にどのように違うのか、その両者の“考え方”の相違点・境界線はどこにあるのか、私には直ちに了解し得ない課題なのだ。
“予防検束”とは、戦前の警察官がやっていた“チョット来い!”といって一般人を拘束した悪名高い行為である。“警察官が一時的に人の身体の自由を拘束して警察署など一定の場所に連行して留置することをいう。泥酔者、自殺を企てる者、その他救護を要すると認める者に対し必要な場合に行う保護検束と、暴行、闘争その他公安を害する虞(おそれ)のある者に対しこれを予防するため必要な場合に行う予防検束が認められていた(旧行政執行法1条)。”
“予防原則”と“予防検束”、何だか駄洒落の材料にされそうなよく似た響きであり、紙一重の考え方である。しかし、“予防原則”が“予防検束”のように、権力の乱用の道具に使われ、学問の自由が侵されるのではないか、と私は危惧するのである。そのために“お勉強”してみたい、そういう野望なのだ。
実は来年は、そうした野望実現のマイルストーンにしたいと思っている。そんなところが現実的なところであろうか。
そんなところで、世の中を慨嘆し続けてこのブログ投稿とするのを原則としたいと考えている。
カナリ、エエカッコしてしまったか?このような私を来年もよろしくお願いします。
ついうっかり!来週はお正月休みとさせて頂きます。よろしく!!!
対策がゴテゴテなのは、首相がかかわる利権に関係がない、むしろGo To そのものに利権があるから、それを止めることができないのではないだろうか。国益よりも、権力を私物化して私益優先になっているのではなかろうか。こうなれば、もはやガースーでもなく、カスではないのか?
対策がゴテゴテなのは、夏の第2波が治まった頃に、冬の感染拡大に向けた対策を全く講じなかったことが大きな要因である。
今頃、医療関係団体がこのまま放置すれば日本の医療体制は崩壊すると言い始めた。日本の医師の数は確かに、人口比で欧米の半分で、絶対数は少ないように見える。だが、新型ウィルスによる患者数は、欧米に比べて桁違いに少ないではないか。それにもかかわらず、欧米の医療は崩壊せず、日本の医療体制は簡単に崩壊するのか。
原因は新型ウィルスが法定伝染病に指定され、一部の専門の基幹病院でしか治療ができないためだとの指摘がある。そして、そうした基幹病院は大抵、公立病院となっていて、私立の病院では基幹病院となることを拒否する場合が多いのだという。何故ならば、こうした基幹病院になればこのような法定伝染病患者を受け入れる義務が生じ、そうなると報酬が低く、収益が上がらなくなるためだという。ところが、日本では国公立の医療機関より、私立病院が圧倒的に多いのだそうだ。それが基幹病院にならないので、新型ウィルス患者を治療する機関が少なく、一部の基幹病院の医療関係者にしわ寄せが集まり、そこが疲弊して、崩壊し始めているとのことだ。
危急存亡の事態に町医者も動員して、総力戦を実施するべきだろうが、現実は、その町のお医者さんは依然として、平常時態勢で診療を継続されている。これは現前に見る事実だし、マスコミの騒ぐ“医療崩壊”との差の違和感は不思議である。
もし、こうした矛盾が事実であるならば、そうした政治的問題を一つ一つ改善して、つまり法的な改正からはじまって、医療制度の急速な見直しが必要なはずだが、それが為されていないのだ。国全体が非常事態であるのもかかわらず、国会は例年同様年末年始閉じていて、来月中旬より開会としているようだ。そんな暢気なことで良いのだろうか。
やっぱり、ガースー政権は日本の国益全体が毀損されても何の関心もないのではないだろうか。だから、平気で会食を続けている。いつも通りのことを平然とやっていて、それがたまたま公けにされてスキャンダルになってしまっただけなのだ。危機感も緊張感も皆無。
ガースー政権が平然としていて緊急事態でないのならば、一般国民も平然と例年通り活動し、街の人出はこれ以上減少することはあるまい。また早期閉店が死活問題の飲食店は、夜の営業も継続する道理である。
期待はしてはいなかったが、前首相の釈明会見は単なる言い訳で終わった。これですべて清算されたのか。日本では首相に上り詰めると、すべての悪徳は問題視されないのか。これが民間の社長なら、どんな大会社であってもクビ、と面と向かって指摘した野党の議員がいる。下手すれば巨額の損害賠償を一生負わされる可能性もある。
ところが首相のような権力者にはゴマ磨り忖度が十重二十重で守ってくれる。一方では貧者や弱者は簡単に切り捨てられている。日本では弱者の命は軽い。それもどんどん軽くなっている。だから新型ウィルス対策もいい加減なのだ。
日本社会がそんな堕落し腐敗した社会になっているが、それで良いのか。それが楽しい、愉快な社会なのか。これは盤石の腐敗政権の恒久的持続可能性があるためだとは、思わないのか。何故、選挙に行かないのか。何故、腐敗政権に利する行為を平気でするのか。日本人にはこんな正義感すらないのか。
さて、本年もこれで終わり!年末の一大事業、年賀状作成・差出も何とか25日中に出し終えた。気付けば近年にない早い対処だったのではないだろうか。差出先は、生涯200を超えることはなく、気付けば今年は75件に絞られた。出しても返信のない相手もあり、思いの一方通行だったのを今年はやっとそれを切ることにしたのだ。下手に出し続けていると、出さなくていい香典も出さねばならなく恐れがある、とシミッタレた考えからもある。
身辺のこと、我が家居室内は相変わらず、とっ散らかったままなので、何とかしなければならない。そう思いつつ既に何年もほったらかしだ。先ずは、年末最終にも何とかしなければならず、恐らく終わらないから、年明けも整理・整頓が必要だろう。
今年の反省だが、自分ではどうしようもないこと、これに煩わされることが大半だ。世の中とはそういうものだが、何だか未だにそうした理不尽に憤っている。
所属する組織の指導陣の見る目が無く、意見してもそれを取り上げない。だから、自分から見限った団体がある。その団体は、社会的影響力も小さいので見限ったのだ。一部の人間、それはたった一人なのだが、彼からは何とかして欲しいとは言っては来るが、肝腎の指導者層は具申意見を取り上げようとはしないので、見限り、付かず離れずにしている。
私は、もう少し社会的に影響力のある団体にも所属していて、そちらに活動を注力したが、こちらでも具申意見が影響力を持たない状態だ。こちらは神戸市と関係が深いので、結構社会的影響力は有るはずだが、何とその神戸市側から、今年ほぼその活動には意味がないと実質的に宣言された状態に陥ってしまった。この団体の指導者が神戸市当局者との日頃の接触を怠っていることが、遠因であろうと私は睨んでいる。しかしそれを指導者は全く理解せず、2年前には外堀を埋められ、今度は同じように内堀を埋められてしまったのだ。これからは、市当局への政治力というか外交努力が必要だと思うのだが、一向にそれを発揮する気配がなく、構成メンバーの若返りも進まず、この団体は座して死を待つのみといった観がある。
この団体指導者には、目下何をなすべきかが全く見えていないのであろう。神戸市から内堀を埋めると宣せられた時、さすがに指導陣は総辞任を宣したが、実際には一向に辞める気配もなくズルズル組織運営を継続している。その癖、一方では“辞任した身であるから、重要な決定は保留する。”と宣する有様。この即断、即決の時代に事態はますます悪くなって行っている。そうした実態から、この団体の内実は死に体になっているのだ。
勿論これには、現神戸市長の原則論・市政方針の無さや若手職員への指導力欠如の問題はある。いつぞやの神戸局テレビの年始番組で発言が殆どなかったことにがっかりした記憶がある。その癖、庁内では独裁者であるとの噂も耳にしているし、現業の現場末端に顔は出してはいないそうだ。
こういった情けない事態は、日本の国レベルでの政治状況とそっくりでもある。何だか、日本社会の活力と革新性に全く乏しい限りであることも、そっくりなのだ。
審査先の経営者にも革新性が全く見られず、“昨日までの続きで、明日も乗り切れる”と思っているかのようだが、それで将来が確実になるものとの自信もないのだ。若い従業員を教育し、革新の原動力にするべきだと思うし、そのためにEMS(環境マネジマントシステム)を活用するべきだと考えるが、EMSがそういうツールであるという機能の側面も理解できず見抜けてもいない。いわば知性に裏付けられた先見性や本質を見抜く力が全くないのだ。これで、この日本社会の明日に展望が持てるとは思えない。
このままでは、新型ウィルス禍の過ぎ去った後は、東アジア、極東の覇者であった日本は最劣等国に転落するであろう。国力は隣国韓国が直ぐ後ろに近づいてきているのが現実であるが、それすら的確に認識できていないのだ。一部の学者は10年以内に追い越されると予測しているにもかかわらずなのだ。実は“一部の学者”ではなく、ひょっとして多数の学者ではなかろうか。今や政権におもねっていない限り、学者人生も怪しい時代だから、真実を語らない学者も多くなったようだ。そのようなムードは今年の“ひょうご講座”の講師の大学の先生とのやりとりからも感じられた。
今年は三島由紀夫が日本の指導層の腐敗に将来を絶望し憤死して、50年であるためか、一部で三島ブームがあった。だが、これも生きた三島を知っている高齢者の間でのことで、それを知らない若い人や、知識のない人には広がっていない。日本社会への危機感の乏しいことの裏返しなのかも知れない。
日本人は、そういった危機感すら感じない享楽的キリギリス型人間ばかりになったのであろうか。一方では貧困にあえいでいる人々がいることも、黙殺し、自分さえ何とか享楽的に生きて行ければそれで良いというのであろうか。人生における危機はいつも何かのきっかけで、迫ってくるのが現実なのにもかかわらず、ちょっとした失敗で地獄に転落してそのまま、底なし沼に落ち込むような社会をそのままにしておいて良いのであろうか。常に、危機の淵に居るのが現実であるという、知性に乏しい人々になってしまったのだろうか。それに気付いた時は、大抵遅いのも人生の現実ではないのではないか。反知性にあり享楽的であること、それは罪ではないだろうか。
芥川龍之介はそういった日本社会の本質に気付き、“蜘蛛の糸”を書いたように思い、最近ハッとしたのだった。“蜘蛛の糸”はほぼ百年前に書かれた。ある日ふと気付くと利権という一筋の光明が見えた。それにすがりつき一心に他人を蹴落としても前へ出ようとし、それを“自助努力”だと信じたが、結局失敗し元の地獄に戻った。そんな話はこの日本社会にあまたあるのではないか。他者と一緒に救われたいという優しさは皆無なのだ。
閑話休題。話を私個人に戻そう。
最近、健康面で不安要素が特に酷くなってきた。特に、左ひざが何とも、回復の兆しが無い。入浴時、計40回のスクワットを実行しているが、どうしようもないので困惑している。だから、前回報告した阿弥陀が峰の太閤墓である豊国廟登攀には困難があるのだ。最近、親しくしている整体師と、その都度相談して、困難を超克できないまでも何とか緩和させていくのが基本であろう。
今日は、年末の大掃除で腕の筋肉が急に痛くなった。これまでこんなことは経験しなかった。衰えが激しくなった印象だ。
こういう老人のたわごとは、これ以上聞くに堪えないと想像するので、この話題はここで終わらせる。
人生につきまとうのは、“お勉強”なのでこれについて少し思うところを述べてみたい。
12月初めにジャン・ジャック・ルソーの“孤独な散歩者の夢想”を紹介したが、天才ルソーが老境をどのような思いで過ごしたのか、“お勉強”をどう考えていたのかが、知りたいこともあって、読んでみた側面もある。だが、ルソー自身には最早出し尽くし感があって、しかもその主張に敵対する人物が居るとの妄想のようなものもあり、老境の“お勉強”については意味がないと言い切っていて、参考にはならなかった。そういう人生もあるのだ。だがルソーの想像力が人類社会に及ぼした影響は計り知れないものがあるほど、偉大であることが、この年齢にして“お勉強”してようやく解ることができた。これが私のささやかな今年の“お勉強”の成果であろうか。
この“お勉強”は、西洋哲学の概観を西研先生を頼りに今後も続けて行きたい。それを“法哲学”の面に伸ばしていきたいとの“野望”を抱き始めている。できれば最終的には、しっかりした大学院の修士課程程度の法学研究科には就学してみたいとも思っている。
或いは、そのための受験勉強と捉えて、当面は“お勉強”してみたい。少なくとも西研先生の“現象学”の解説・入門にまでは“お勉強”を進めたいとも思っている。これが、来年度の目標になるのだろう。
今年前半では、空海や最澄に関する“お勉強”をしたが、仏教、特に密教に関して、歴史的な変遷の事実を多少理解できた程度で終わってしまった。しかし、これをさらに深める余裕は残念ながら私には無い、と考えている。
専ら、西洋哲学を軸に専念したい。そうしなければ、何かを極められないと思っている。
“予防原則”という言葉がある。これは、“化学物質や遺伝子組換えなどの新技術などに対して、人の健康や環境に重大かつ不可逆的な影響を及ぼす恐れがある場合、科学的に因果関係が十分証明されない状況でも、規制措置を可能にする制度や考え方のこと”とされる。極めて正当な考え方のように見えるが、“ヨボウケンソク予防検束”と法学的にどのように違うのか、その両者の“考え方”の相違点・境界線はどこにあるのか、私には直ちに了解し得ない課題なのだ。
“予防検束”とは、戦前の警察官がやっていた“チョット来い!”といって一般人を拘束した悪名高い行為である。“警察官が一時的に人の身体の自由を拘束して警察署など一定の場所に連行して留置することをいう。泥酔者、自殺を企てる者、その他救護を要すると認める者に対し必要な場合に行う保護検束と、暴行、闘争その他公安を害する虞(おそれ)のある者に対しこれを予防するため必要な場合に行う予防検束が認められていた(旧行政執行法1条)。”
“予防原則”と“予防検束”、何だか駄洒落の材料にされそうなよく似た響きであり、紙一重の考え方である。しかし、“予防原則”が“予防検束”のように、権力の乱用の道具に使われ、学問の自由が侵されるのではないか、と私は危惧するのである。そのために“お勉強”してみたい、そういう野望なのだ。
実は来年は、そうした野望実現のマイルストーンにしたいと思っている。そんなところが現実的なところであろうか。
そんなところで、世の中を慨嘆し続けてこのブログ投稿とするのを原則としたいと考えている。
カナリ、エエカッコしてしまったか?このような私を来年もよろしくお願いします。
ついうっかり!来週はお正月休みとさせて頂きます。よろしく!!!
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