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瀬戸内観光と常石造船所見学会

あるISO審査員教育機関の修了者による事後研鑽会に参加しているが、その会で10月は尾道と福山の間の常石で合宿することになり、それに参加した。予定としては、ツネイシクラフト&ファシリティーズ㈱殿(以下TFC)を見学して1泊し、翌日午前に定例の研修を行い、その前後に現地観光となっていた。今回は、その会社見学と観光についてレポートしたい。

先ずは、午後1時にJR福山駅南側広場にて集合となっていたので、私は経費節約のため神戸から高速バスを利用することとした。往復で6千円、新幹線利用の場合片道で6千円近くなるので半額となる。朝8時半に三宮バスターミナルを出発して、12時前にJR福山駅前に到着。
集合時刻まで1時間超あるので、昼食は広島県下でポピュラーだという肉玉丼を食べることにして、ネットで探し当てていた大衆食堂を目指した。どういうものなのか、楽しみだったが関西で言う他人丼であった。何故か玉子の存在感は薄いが、野菜と肉は豊富に載っていたという印象。いわゆる牛丼チェーン店の牛丼よりは、手が込んでいて味わいがある。それは、この店は牛肉を煮込んだ料理が目玉のようで、入口付近で肉を煮込んで見せていた程ということもあるのだろう。駅前の牛丼チェーン店で食べるより、地元を感じられて良かった。また、店の構えはヒョッとして戦前からのものかと思われるような古さがあるが、店内は清潔感があり、店員は若くはないがユニフォームのエプロンをしていて好感が持てる。さすが人気店である。昼食後、ゆっくり駅まで行き、コンコースから“さんすて”に行きベンチに座り込んで本を読み時間を潰す。

集合場所付近でようやく仲間に出会う。自分の車を持って来ているメンバーもいて、その3台の車に分乗して まず奇岩景勝の阿伏兎観音へ向かう。明るく穏やかな海に突き出した岩と、沖合いの島影の風景を楽しむ。ここの観音は十一面観音で“寛和の頃(986年)花山法皇が、このあたり一帯の海上交通の安全を祈願して岬の岩上に安置したのが開基と伝える。”と掲示板にある。さらに“後、毛利輝元が再興し、福山藩主の水野勝種によって、現在の磐台寺境内の形をほぼ整えた。磐台寺観音堂と客殿は、室町時代の建築様式で知られている。本尊の十一面観音は、子授け・安産・航海安全の祈願所として広く信仰を集めてきた。”と書かれている。
確かに、岩上の本堂内には、手縫いの様々なオッパイが多数奉納されていた。誰かが“垂れチチはないなぁー”とつぶやき、違う誰かが“そんなことにまで凝る女はいない。”と突っ込んでいていた・・・。



ようやく約束の午後3時半過ぎ、TFCに入る。こでは、会社概要の説明を受け、工場見学、質疑応答の予定。時間が少なかったので説明は、手短で内容は濃いものだった。
この会社は昭和41年神原林業㈱の発足に始まるという。造船と林業とは関係が無さそうだが、元来内国船は木造船であった。そのため木材調達が造船会社の死命を制しており、社としても県北に山林を所有していた。ところが、昭和30年代に鋼鉄船に変わって行き、それまで社を支えていた船大工の処遇が問題となった。そこで木材加工工場として建築関係も手がける会社をスタートさせたとのことである。この社の若い社長・神原潤氏の先々代の、景気の波の大きい業界だが、悪い時に雇用を守りながら乗り切る工夫が、会社を強くし永続性を確保することになり、それが地域社会への貢献につながる、との信念に基づいているという。
従って、この会社は今も建築事業部と 小型船舶のクラフト事業部、救命艇事業部から成り立っている。(クラフトとは小型船舶の一般的呼称という。)小型船舶はアルミ中心で造っており、設計は外注しているとのこと。業界では中小メーカーの設計外注は普通とのことだが、どうやら技術や開発を重視する この会社においては自前での設計も考え始めている様子だった。海外受注は少なく、パトロール艇の引き合いもあるが、連絡船・渡船の方に食指が動いているようだ。
画期的な製造船としては、堀江謙一氏のウェーブ・パワー・ヨット“suntoryマーメイドⅡ”があり、これは波力推進船として開発され製造を請け負った。次に2011年度シップ・オブ・ザ・イヤァーに なった佐渡の隣の粟島と村上市(本土)の連絡船“awalineきらら”(双胴旅客船)。ピッチング抑制機能があり、地域貢献のためのデザイン性、経済性がポイントだった由。さらに、今春納入した大阪市街観光船の電気推進船。ディーゼル等を使っていないので静粛性があり、“波音を感じる”をセールス・ポイントにしていて、天井にソーラー・パネルも付け、エコ・ムードを演出させている船、とのこと。
顧客への引渡し時、先ずは試運転での速力が問題になるという。それから喫水線の位置、つまり重量算定ミスや重心点設計ミスがないことが重要。その他、JG基準の遵守状態のチェックとなる。このため試運転の為の船員資格も社員に取らせるようにしている由。
東日本震災に際し、社会貢献を考えるグループ首脳より“何ができるか探れ”との社命を受けた社長が、被災地を訪れ、三陸再建に必要な漁船の供給のため岩手山田町に漁船工場の建設を決意した由。このため、現地の15名の若者を新たに採用し、アルミ溶接の資格取得をはじめ、玉掛、クレーンの教育を施し、既に10名は岩手に戻って工場準備に入っているとのこと。この活動が、我らのメンバーの活動とつながり、見学会となったということである。
ISOは常石グループで取得していたが、この会社単独での取得に2年前変更し、更新1回目を迎えるところ。審査機関は勿論ロイド。今後は建設部門を含めて拡大審査を受ける予定だということだった。ISOを活かして成長したいと思ってはいるが、組織活動が社員に未だ浸透していないことが、経営者としての悩みだとの社長の言であった。私は、そういう状況には小集団活動が有効と考え、それを訊いたが、そこまで手が回っていないとのことであった。

一通りの会社説明の後、クラフト工場の見学となる。事務所棟から工場に向かう途中に、説明のあった“suntoryマーメイドⅡ”が、展示されていた。波力とバネのみで推進する装置が艇の前方に設置(写真中央)されているが、その原理について現場説明では理解不能。平均速度2ノットという。重量3トンでアルミ缶をリサイクルした合金(A5083)を使用とのこと。通常は5ミリ厚の板を使用するが軽量化のため3ミリを使ったので、製作が困難だったとある。また長さは9.5m、幅は3.5m、キールとマストを除く船体高さは1.7mと現場掲示板にあった。船体を腐食から守る犠牲暴食の亜鉛塊を取り付けているのを見せてもらったが、殆ど溶けていた。航海実績は、2008年3月16日ハワイ沖を出て、同年7月4日紀伊水道到着で、110日の航海日数。航行距離7800kmと掲示板にあった。



クラフト工場の建屋は約3千平米(900坪)あり、2009年に竣工。南側は、外光を採光できるような壁となっている。珍しく場内撮影可、とのこと。生産ピッチは、2.5ヶ月に1隻で、年に4~6隻を製造する能力がある。現場船台には3隻見えた。1隻は建造中で、2隻は、福岡の消防艇と広島県の取締艇で、メンテナンス中であった。こういった小型船は一般に船底の成形から始まり、それをひっくり返して船体を製作し、概ね擬装までやって進水となる由。アルミの溶接は難しいという既成観念があったが、説明者からはそれほどではなく、溶接線は白くなるので不良は分かり易いとのことであった。
こうした現場見学や質疑応答を通じて、このTFCは常石造船グループにおけるアンテナ会社的存在であると思った。技術を磨くため時代の先端を行く船の受注に意識を向け、そのため特に社長には世の中の動向に常に注意を払いつつ、社内の状況、社会貢献にも目を配るという緊張感を感じた。現代は、そういう緊張感を欠いた企業は たちどころに転落してしまう時代なのだろう。質疑応答後、ほぼ日没となり、辞去。





近くの常石ハーバー・ホテルに投宿。ロビーのテレビが偶然、NHKがローカル番組で、TFCの東北被災地に工場進出する様子を放映していた。工場進出への幹部の反対意見の中で決断した経緯や、新たに雇用する現地社員の教育・訓練の様子をルポしていたが、誰かが これを来年3月11日に全国放送すると言っていた。

早速、宴会。やがてここに見学会に居られたTFCの幹部2名も参加された。私は体調不良もあって、最初の1杯のみビールであとはノン・アルで過ごしたが、思わず酔って後半は ほとんど不覚。
それでも誰かの部屋で2次会をやった記憶。折からの、領土問題が話題になり、酔った勢いで右翼バネが働いた議論で盛り上がった。潜水艦設計者だったコーディネータの、“日本も原潜を6隻くらい作って配置すれば中国も手出しはできないはずで、それが可能な技術が日本には既にあり、一番安上がりの国防だ。”との発言も議論に拍車を掛けた。旧共産圏の原潜は映画レッド・オクトーバーで見るような単純な形状をしているため、スクリュー音が大きく所在がつかみやすいとの評、これには東芝機械関連の会社に居た人も同調していた。



翌日は、朝8時から研修会。
その後、10時から宿泊先のビジネス・ホテルを出て観光スタート。湾前の百島を一周クルージング。おのずと、常石造船の全貌を海から見ることになった。陸上からでは分らなかったが、驚いたことに殆ど全ての船台、ドックに大型船舶が載っていた。日本の造船会社は 壊滅状態だと思っていたにもかかわらず、ここはフル生産で活況のようだ。前日の質疑応答で、量産型の生産対応でコスト・ダウンしているように聞いたが、その効果だろう。自動車メーカーが数種の台車を開発して、その上に様々な車体を載せ、数多くの車種を生産しているのと同様なのだろうか。
瀬戸内海の風景に前日から見慣れてしまった目には、風景そのものには感動は少なくなっていたが、海上の風に心地よさを満喫した。クルージング船の繋留地に戻って来た時、サーフ・ボードの上に乗って、海上散歩と洒落込んでいるオッサンが居たが、弱くなったとは言え紫外線だらけの海上では危険極まりない行為にしか見えなかった。



クルーズ後、マリーナで昼食。ベトナム料理のカレーか麺類。私は無難にカレーを選ぶ。量は多くはないが結構満足。
昼食後は全員尾道へ向かったが、わずかな時間しかないので、三々五々市街地散策となった。くたびれていたので、尾道の坂は登らず、商店街の林芙美子の旧居・資料館商業会議所記念館を覗いて周った。残念ながら林文学には暗いので、あまり感慨はなかったが、商業会議所記念館では江戸期に北前船が 石見銀山の銀を天下の台所・大坂に供給していたことを改めて知らされた。アイスクリームを食べながら休憩しベニスを思わせる海峡の風景を楽しむ。しかし、海峡の向こうには、この町の繁栄を支えた大手造船会社のかつての主力工場があった。しかし、今はそこで船を造っていないことに、常石とは対照的な寂しい印象であり、逆に常石の経営力を強く感じる。午後3時に一応の解散となる。



ここで、分乗した3台の車は 各自の方面に分かれることとなった。その内の福山方面に戻る車に乗り換えさせてもらう。JR福山駅にて完全解散。私は午後6時半までの高速バス待ちとなるが、未だ時間があるので駅北側に隣接する福山城を観光する。いつも山陽新幹線で北側に見る立派な城だ。体調が良くないので、結構石垣が高いのに閉口する。残念ながら天守閣は鉄筋である。しかしながら、何故かエレベータが無く、この階段にも苦労した。最上階層で福山市街の夕景を一望して、この城が戦略的要衝の位置であることを確認。しかし、場内に展示された城模型を見ると、一見堅守に見え、特に南側からは堀と石垣が幾重にも重なっているが、北西から攻撃して丘陵を占拠すれば、守りが薄く容易に本丸を突けるのではないかと思える配置だった。
本丸の庭を散策し南西にある門をくぐって、外に出ると駅に直結している。その後、駅に隣接した“さんすて”内のレストランで夕食を摂る。定刻5分遅れ発のバスで帰途に就いた。無事帰宅したのは11時前。しかし、この会の主催者には、申し訳ないが 鞆の浦観光ができなかったことに心残りを感じている。

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