The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
新阪堺線
先々週 話題にしました大阪歴史博物館で 引き伸ばして壁面に貼られた戦前の大阪府下の地図を見ました。かつて住んでいたあたりや、大阪城近辺、さらに ふと 堺の大浜公園に目が行きました。
昔 堺には有名な水族館があったのです。子供の頃 幼稚園からと小学校からと二度ほど行った記憶があります。最近まで 堺方面に出かけることが多かったのですが、その水族館がどこにあったのか気になっていたのですが、どうやら それが大浜公園にあったということを 最近 知り、それで そこに 自然に目が行ったのです。
残念ながら この地図には水族館の表示はありませんでした。
この水族館へは、一度目は幼稚園から 通園バスでの遠足でした。二度目の小学校の時は バスが無いので、近鉄電車で上本町まで出て、そこから市電でエンエン堺市内まで行ったと記憶しています。
水族館を見てから海岸に遊びに行ったのですが、その途中には戦災の爪痕か 廃墟のような建物があったことを覚えています。
その後、私の中で この市電で行ったことが不思議なことに思えてきました。つまり 大阪の市電は どうして市域をこえて堺市内に入り込めていたのか、という疑問が湧いてきたのです。私の記憶では なんば あたりで電車を乗り換えたのですが、それは確かにクリーム色とエンジ色に塗り分けられた大阪の市電に間違いありませんでした。明らかにレールも そのままつながっていました。(緑の車体に オレンジ色の窓枠の南海線では 絶対にありませんでした。)
さて その記憶が確かなことを 何とか確かめたいという衝動に駆られたのです。
大阪の図書館で、何とか 古い地図を探しあてて、大阪の市電路線には芦原橋から浜寺まで走っていた 新阪堺線という“市外線”があったらしいと分かったのです。私の見た 戦前の地図には 大阪市電の通常路線は 市内線とあり、新阪堺線は市外線として区別されていました。その地図とは 違うのですが、下に もう少し 縮尺の大きい 色使いが派手で、分かりやすい地図を掲載します。(この地図は1935年4月版の“最新堺市街地図”となっています。)
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インターネットで調べてみると、どうやら 戦時に車両調達など思わしくなく立ち行かなくなった私鉄路線を 大阪市交通局が買い取ったという事情があったらしいのです。これで、大阪の市電が堺市内まで入り込んでいたということが確認できました。また 南海電鉄の阪堺線と区別して 新阪堺線と呼ばれていた、ということのようです。地元では三宝線と呼んでいたとか。
この新阪堺線の 写真が見当たらないのは 少々寂しい思いがします。今では 地下鉄四つ橋線が その機能の一部を果たしているのでしょう。
中世以来の歴史ある自由都市を支えた堺港は 未だ 埋め立てられてはいないようです。しかし、湾口を高速道路・湾岸線で 押さえられている印象。両岸から 埋立地は はるか沖合いまで伸びています。
子供の頃、海水浴に行ったことのある浜寺や羽衣の海岸も埋め立てられています。その浜寺には 昔、伝統ある水練学校があったようです。
その由緒ある海岸も、今や、高速道路と 工場群が立ち並び、コンクリートの下に消え去っています。さらに、無残なことにも その工場群も 役目を終え、廃墟になりかけて 再開発を待っている所も多いようです。高々50年も経ない間の 世の変遷の激しさと無常を そこはかとなく感じています。
こういうことを書いていた矢先、何やら堺のLRT運営会社についての新展開があったとテレビは伝えていました。“今時 路面電車など、交通渋滞にしかならない” などと頭の固い、“古い” 発想はやめるべきでしょうね。老齢化社会を前に、また環境にも配慮して車社会からの脱却を目指すべきでしょう。
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昔 堺には有名な水族館があったのです。子供の頃 幼稚園からと小学校からと二度ほど行った記憶があります。最近まで 堺方面に出かけることが多かったのですが、その水族館がどこにあったのか気になっていたのですが、どうやら それが大浜公園にあったということを 最近 知り、それで そこに 自然に目が行ったのです。
残念ながら この地図には水族館の表示はありませんでした。
この水族館へは、一度目は幼稚園から 通園バスでの遠足でした。二度目の小学校の時は バスが無いので、近鉄電車で上本町まで出て、そこから市電でエンエン堺市内まで行ったと記憶しています。
水族館を見てから海岸に遊びに行ったのですが、その途中には戦災の爪痕か 廃墟のような建物があったことを覚えています。
その後、私の中で この市電で行ったことが不思議なことに思えてきました。つまり 大阪の市電は どうして市域をこえて堺市内に入り込めていたのか、という疑問が湧いてきたのです。私の記憶では なんば あたりで電車を乗り換えたのですが、それは確かにクリーム色とエンジ色に塗り分けられた大阪の市電に間違いありませんでした。明らかにレールも そのままつながっていました。(緑の車体に オレンジ色の窓枠の南海線では 絶対にありませんでした。)
さて その記憶が確かなことを 何とか確かめたいという衝動に駆られたのです。
大阪の図書館で、何とか 古い地図を探しあてて、大阪の市電路線には芦原橋から浜寺まで走っていた 新阪堺線という“市外線”があったらしいと分かったのです。私の見た 戦前の地図には 大阪市電の通常路線は 市内線とあり、新阪堺線は市外線として区別されていました。その地図とは 違うのですが、下に もう少し 縮尺の大きい 色使いが派手で、分かりやすい地図を掲載します。(この地図は1935年4月版の“最新堺市街地図”となっています。)
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インターネットで調べてみると、どうやら 戦時に車両調達など思わしくなく立ち行かなくなった私鉄路線を 大阪市交通局が買い取ったという事情があったらしいのです。これで、大阪の市電が堺市内まで入り込んでいたということが確認できました。また 南海電鉄の阪堺線と区別して 新阪堺線と呼ばれていた、ということのようです。地元では三宝線と呼んでいたとか。
この新阪堺線の 写真が見当たらないのは 少々寂しい思いがします。今では 地下鉄四つ橋線が その機能の一部を果たしているのでしょう。
中世以来の歴史ある自由都市を支えた堺港は 未だ 埋め立てられてはいないようです。しかし、湾口を高速道路・湾岸線で 押さえられている印象。両岸から 埋立地は はるか沖合いまで伸びています。
子供の頃、海水浴に行ったことのある浜寺や羽衣の海岸も埋め立てられています。その浜寺には 昔、伝統ある水練学校があったようです。
その由緒ある海岸も、今や、高速道路と 工場群が立ち並び、コンクリートの下に消え去っています。さらに、無残なことにも その工場群も 役目を終え、廃墟になりかけて 再開発を待っている所も多いようです。高々50年も経ない間の 世の変遷の激しさと無常を そこはかとなく感じています。
こういうことを書いていた矢先、何やら堺のLRT運営会社についての新展開があったとテレビは伝えていました。“今時 路面電車など、交通渋滞にしかならない” などと頭の固い、“古い” 発想はやめるべきでしょうね。老齢化社会を前に、また環境にも配慮して車社会からの脱却を目指すべきでしょう。
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昭和9年、大阪を「室戸台風」が襲います、海に一番近い所を走っていた新阪堺は、車両や車庫などに高潮や強風による甚大な被害を受けました。
その“傷”がまだ癒えない昭和12年には、日中戦争が勃発、沿線に造船所の多い新阪堺の乗客は増え始めます。昭和16年、太平洋戦争が始まると利用者は爆発的に増加、歴史も浅く、車両数も少ない新阪堺は輸送に必死となり、これが無理な運転を増やし、ただでさえ不足気味の可動車両数をさらに減らす結果を産み、朝の通勤時間帯には殺人的混雑となり、積み残しも続発、ついには警察から改善通牒を受ける有様。
戦時中の事なので車両の新製もままならず、慢性的な車両不足を何とかしようと、大阪市電から車両を借り受けるも、やって来たのは小型電車で、両数もたっの5両では焼け石に水、昭和19年3月に“国家要請”で大阪市へ全事業を譲渡し阪堺電鐵の短くも波乱万丈の歴史は幕を閉じました。
阪堺電鐵線は、翌4月1日から大阪市電の「新阪堺線」となり、譲渡と同時に乗客のほとんど無かった浜寺~湊ノ浜間を休止、戦後の復興時に、昭和19年から休止中の浜寺~湊ノ浜間と「堺空襲」で壊滅的被害を受けた湊ノ浜~出島間を廃止して、最終的な路線存続区間は芦原橋~出島間となり、運転系統も29・30・31の3系統に再編されて昭和43年9月30日の路線廃止時まで活躍しました。
あと、大浜に向かっている路線は「阪堺電軌」の「大浜支線」と言います。宿院~大浜海岸間を結んでいましたが、こちらも戦時中に休止、昭和50年代に正式廃止となっています。