The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“新自由主義”的発想
またまた いささか旧聞に属する話で 大変 恐縮ですが メルマガ “木村剛が斬る!”の2月15日号の“今週のコラム”で“中小企業の経営者こそワーキングプアである”という表題で一文が掲載されていました。少々気になる記事だったので 保存しておいたのですが、何気なく思い出したので 紹介してみたいと思います。全体はそれほど長いものではないのですが、ここでは その本質的な一部をそのまま掲載します。
格差問題の象徴として、「ワーキングプア」が話題になっている。「働いても働いても豊かになれない」「どんなに頑張っても報われない」という実態が問題視されている。
これらの論議は、労働者ばかりにスポットライトを当てているが、じつは、極めて大事な論点を見落としている。真剣に議論すべきなのは、「経営者」という論点からだ。
こう指摘すると、イデオロギーに染まった識者もどきの人びとは「会社に優しく社員に厳しくしろ、ということか」などと批判されるかもしれない。しかし、私が指摘したいことは日本における大多数の経営者(個人事業主を含む)は、「ワーキングプア」に近い立場にいるという事実を認識していただきたいということに尽きる。
「働いても働いても豊かになれない」「どんなに頑張っても報われない」というやるせない思いを抱くのは、何も労働者だけの特権ではない。同じような切なさを胸に日々を過ごしている中小企業の経営者や個人事業主は多数いる。
雇用問題が語られる場合には、「労働者=弱者」「経営者=強者」という単純な図式が当てはめられがちだが、「強者」と呼べるような大企業の経営者は完全な少数派。ほとんどの経営者は、吹けば飛ぶような中小企業の社長か、自営している個人事業主というのが日本の実情だ。
さて、この議論 何か変だと思いませんか?
本当の「ワーキングプア」の人以外は なかなかこの議論の 奇妙さに気付かないだろうと思います。
“全ての人は 生まれながらに自由で平等である” ことを 前提にしなければ このような議論は成り立たたないことに気付くべきです。現実は 様々な人々は 様々な ハンディキャップを生まれながらに背負っているものです。そういうハンディキャップを 前提に議論しないから このような論理が まかり通るのだと思うのです。
現実の世の中には、“完璧な「自由・平等」はあり得ない”、ことを 前提に 福祉政策は議論されるべきです。そうでないと とんでもないことになります。つまり、福祉政策は “お慈悲”でなりたつ慈善事業だという論理に刷り返られてしまい、“経済的には全く無意味な 不経済政策だ”、という議論になると思うのです。
社会福祉政策というのは 人々の個別のハンディキャップを 社会的に負担し、取り除く政策であり、どのような階層からでも社会に参加可能な 機会平等を実現し、その結果 生じる多様性が その社会を 自由で本当に人間的で 強い社会にしていくのだ、という考えが背景にあるのです。それを肝に銘じるべきです。
考えてみれば 私の幼い頃は 単純な競争原理の考え方を吹き込まれ、“だから 頑張れ” と言われていたような気がしますが、成長するにつれ、世の中は 実はそう単純ではなく、様々な社会的障害は 否応無くあるものだ、と教えられ わずかながらではあっても身をもって それを経験したような気がします。
頭が悪くて、顔もダメ、おまけに短足、三重苦。その上、頑丈でない身体。こんなハンディに悩まされる生涯。
そこへ来ると 木村氏は 頭が良くて 東大経卒、日銀出身、エリート人生。こんな 人にはハンディなんて分からぬ話。
日本の“選良”、言うに事欠き 単純発想、なさけなや。
今の日本社会には 様々なハンディある人々への 想像力が 大いに欠如しているように思うのです。
木村氏のような“選良”ですら こういう 子供じみた議論をなさるような時代なのです。
思慮が 浅すぎます。単純すぎる発想です。大いなる 想像力の欠如でしょう。
今の日本には もっともっと 社会的な “やさしさ” 本当の “癒やし系” が 求められます。
格差問題の象徴として、「ワーキングプア」が話題になっている。「働いても働いても豊かになれない」「どんなに頑張っても報われない」という実態が問題視されている。
これらの論議は、労働者ばかりにスポットライトを当てているが、じつは、極めて大事な論点を見落としている。真剣に議論すべきなのは、「経営者」という論点からだ。
こう指摘すると、イデオロギーに染まった識者もどきの人びとは「会社に優しく社員に厳しくしろ、ということか」などと批判されるかもしれない。しかし、私が指摘したいことは日本における大多数の経営者(個人事業主を含む)は、「ワーキングプア」に近い立場にいるという事実を認識していただきたいということに尽きる。
「働いても働いても豊かになれない」「どんなに頑張っても報われない」というやるせない思いを抱くのは、何も労働者だけの特権ではない。同じような切なさを胸に日々を過ごしている中小企業の経営者や個人事業主は多数いる。
雇用問題が語られる場合には、「労働者=弱者」「経営者=強者」という単純な図式が当てはめられがちだが、「強者」と呼べるような大企業の経営者は完全な少数派。ほとんどの経営者は、吹けば飛ぶような中小企業の社長か、自営している個人事業主というのが日本の実情だ。
さて、この議論 何か変だと思いませんか?
本当の「ワーキングプア」の人以外は なかなかこの議論の 奇妙さに気付かないだろうと思います。
“全ての人は 生まれながらに自由で平等である” ことを 前提にしなければ このような議論は成り立たたないことに気付くべきです。現実は 様々な人々は 様々な ハンディキャップを生まれながらに背負っているものです。そういうハンディキャップを 前提に議論しないから このような論理が まかり通るのだと思うのです。
現実の世の中には、“完璧な「自由・平等」はあり得ない”、ことを 前提に 福祉政策は議論されるべきです。そうでないと とんでもないことになります。つまり、福祉政策は “お慈悲”でなりたつ慈善事業だという論理に刷り返られてしまい、“経済的には全く無意味な 不経済政策だ”、という議論になると思うのです。
社会福祉政策というのは 人々の個別のハンディキャップを 社会的に負担し、取り除く政策であり、どのような階層からでも社会に参加可能な 機会平等を実現し、その結果 生じる多様性が その社会を 自由で本当に人間的で 強い社会にしていくのだ、という考えが背景にあるのです。それを肝に銘じるべきです。
考えてみれば 私の幼い頃は 単純な競争原理の考え方を吹き込まれ、“だから 頑張れ” と言われていたような気がしますが、成長するにつれ、世の中は 実はそう単純ではなく、様々な社会的障害は 否応無くあるものだ、と教えられ わずかながらではあっても身をもって それを経験したような気がします。
頭が悪くて、顔もダメ、おまけに短足、三重苦。その上、頑丈でない身体。こんなハンディに悩まされる生涯。
そこへ来ると 木村氏は 頭が良くて 東大経卒、日銀出身、エリート人生。こんな 人にはハンディなんて分からぬ話。
日本の“選良”、言うに事欠き 単純発想、なさけなや。
今の日本社会には 様々なハンディある人々への 想像力が 大いに欠如しているように思うのです。
木村氏のような“選良”ですら こういう 子供じみた議論をなさるような時代なのです。
思慮が 浅すぎます。単純すぎる発想です。大いなる 想像力の欠如でしょう。
今の日本には もっともっと 社会的な “やさしさ” 本当の “癒やし系” が 求められます。
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