The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
ルソーの“孤独な散歩者の夢想”を一先ず読み終えて
新型ウィルスによるCOVID19の感染拡大が止まらない。当たり前だろう、政府がやたらGO TOキャンペーンの旗を降ろそうとしていないからだ。むしろ“延長する”と息巻く次第だ。“死ぬのは、財政負担主因の高齢者ばかりだ!この際、金のかかる年寄りはドンドン死んだ方が国のためだ!”と心底思っているかのようだ。そのように解説している報道もあると聞いた。観光業その他業界優先の利権政治の成れの果てか。都知事ものその圧力の前にGO TOキャンペーンを抑制できず、医療崩壊を目前に板挟み状態らしい。
前政権は利権まみれがバレるのが分かって、政権を投げ出したようだ。いよいよサクラで検察の手が伸びて来た。だが略式起訴で手打ちとの噂も。ところがその直後から新たに、タマゴの御食事券?汚職事件が明かになっている。今や次から次へと汚職の花盛り?袖の下やらなきゃソンソン!!
大阪の状態が良くないようで、12月3日にレッド・ステージを府知事が宣言。
具体的には、どうやら十三の市民病院を中等症専門病院化という乱暴な緊急対策が裏目に出て、逆に医療態勢の機能不全に陥っているようだ。病院長の発言によれば“6月ごろから、医師や看護師らが次々と辞めていった。10月までに医師4人、看護師14人を含む(非正規含めて)25人ほどの病院職員が病院を離れた。職員全体(350~60名)の7%を占めた。(同じ病院の医師も家に帰ると近隣住民から同じマンションのエレベータに乗るな、お前十三で働いているだろうと言われた)”という。さらに、“中等症専専門の十三市民病院にECMOはなく、人工呼吸器も2台しかない。重症化した場合、府の窓口を通じて重症者対応の病院への受け入れを打診するが、しばしば難航している。「第三波」による重傷者の急増が背景にあるという。西口院長は「うちには戦うすべがない。重症化して転院させられなければどうしようもない。一つの病院に負担をかけるにはおかしい。可能なら、専門病院の名前を外してほしい」と訴えた。”とのこと。
“病院を運営する地方独立行政法人大阪市民病院機構や市などは11月26日、市立総合医療センターなどから、看護師や医師を十三市民病院に派遣することを決めた。計画通り90人の受け入れを可能にするためだが、この影響で、同センターのがんなどを患うAYA思春期と若年成人)世代の専用病棟が一時閉鎖されることになった。”さらに“府は11月末、重症者を診る「大阪コロナ重症センター」を完成させたが、看護師の確保に苦戦。(必要な130人のうち50人程度しか確保できず)吉村洋文知事は全国知事会などに看護師の一時派遣を要請した。”
医療関係の人材は逼迫している。施設よりもどちらかと言えば人材が問題の焦点のようで、今頃になって慌てても、ネットでみても看護師急募のページは目立つので、既に遅いのではないか。
大阪は“維新の会”が静穏期の夏に“都構想住民投票”で頭が回らず、新型ウィルス対策を放置していたのではないか。その間、足下の医療体制は明かに劣化していたのだ。“維新の会”の政策はおおよそ、斬新で目新しさがあるが、乱暴で粗雑なので、後々大変なことになる傾向があるのではないか。大阪をこんな会派に任せておいてよいのだろうか。斬新な政策には丁寧さが不可欠なのだ。前後の見境ないことは、誰でもやる。それをやらないのではなく、後に悪い影響が出るから、やれない場合も大いにあるのだ。やっぱり“大阪市解体”が実現しなくて良かった!“何でもエエから、変えてくれ!”の思考停止はヤッパリダメなのだ!!
政府は医療人材を応急にでも増やす秘策を打つ必要があるはずだが、揃いもそろってGO TOキャンペーンで頭が一杯のようだ。がん首揃えても、利権墨守のロクなリーダーしか居ないのが悲劇だ。
筆者の居る兵庫県は尼崎、西宮で医療ひっ迫の報があるが、県全体では何とかなっているようにも見える。
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人材逼迫には待遇改善など当事者のやる気になるインセンティブが重要だ。阪神震災時、地元のガス会社が復旧に取った施策が、工事業者に“兎に角集まってくれ!来てくれれば日当は出す。”と言ったそうだ。すると、大勢の業者が集まって、ドンドン競争のように仕事をしたという。お蔭でガスは水道等のインフラよりかなり早い復旧を果たした。このガス会社の人によると、“これで日頃は分からなかったのだが、お蔭でどの業者が本当に優秀で使えるのか良く分った!”と言っていた。そういうものだ。こういうインセンティブを与えて、人に仕事をやらせるのがうまいのは歴史上では豊臣秀吉で、こういったエピソードに事欠かない。
医療関係者は日頃から尊敬される職業にしておくことも大切なことではないか。物心両面での支援が必要ではないのか。人のやる気を削ぐ政策では絶対に良い人は得られない。新型ウィルスの流行で逆に、暇になった個人医院も結構見受ける。それから医療機関のようでありながら、そうでないような予防医学協会は、この折に何をしているのだろうか、その奇妙な静かさは異様だ。その関係者や施設の活用はできないのか。そのような人材の動員もインセンティブによっては可能になるハズではないのか。知恵が回らないのはバカである。
何度も言いたい!今は“新型ウィルス対策が最大の経済対策である”そう考えて政策立案できないのならば、それもバカではないか。危機は好機のハズだ!
前政権のアホアホは今も変わらず引き継いでいる現政権なのか。それとも、自分だけは利権で賢く立ち回っているクロウニンだ!とでもお考えなのだろうか?これは“裸の王様”だ。まさしく日本は周囲に“お追従”ばかり侍る“裸の王様”の統治下にあるのではないか。
何より、知事達の自粛要請期間が何故か12月中旬までとなっている点で奇妙に一致しているのが不思議だ。自粛要請であって“命令”ではないのだが、12月中旬には収まる見通しがあるのか。それはどんな客観的根拠に基づくのだろうか。新型ウィルス対策の決定打となるはずのワクチンの接種開始ですら来年の春以降と見込まれている。これこそ、根拠なき楽観ではないのか。
中央政府の危機感が全くないのが不思議だ。オリンピック開催前に悪いイメージを醸したくないという意図ならば、バカげている。何故ならば、12月中旬には事態はもっと酷く悪くなっていることが、より確かな見通しと言えるのではないか。
このような状態の中、府知事がレッド・ステージ宣言した日、たまたま私は大阪市内の巨大病院の一つに予定されていた腹部超音波健診に出かけた。この病院にはこの6月にも来ていたが、その時よりも緊迫感は感じられず、全くの日常が現出している印象だった。
6月に見た病院前庭の駐車場の余地に設営されていたテントは最早無かった。替りに新型ウィルス患者の救急受け入れと思われる入口が正面玄関の脇に設けられていたが、閉じられていた。恐らく救急車の受け入れ時に開けられるのだろう。そしてその中の通路は衝立で隔てられ、レッド・ゾーンとして管理されているようだ。そのレッド・ゾーンは3階にまで及んでいるかのようで、3階も普通には入れないフロアがあった。
迂闊にも登院前その病院のホーム・ページを見ずに行ったのだが、手指消毒コーナーやテーブルは目立たなかった。薬剤の無駄な消耗を警戒しているかのようだ。また、ホーム・ページには自前で検温するよう要請があったが、百貨店等で見る自動検温装置も設置されていなかった。
この巨大病院ですら財政的に苦しい状態にあるのだろうか。政府当局者は一体どのように考えているのだろうか。自らの利権にのみ拘泥し、日本の基礎的医療インフラはガタガタになりかけているのかも知れない。今、とにかく新型ウィルス対策が経済的にも必要なことだ。何もしなければ事態は悪くなる一方なのだ!かつての先進国が劣化し開発途上国の一つになり下がる寸前の社会状態なのではないだろうか?
最近特に報道には登場しない担当御大臣様、週末日曜朝のNHK番組でようやく御尊顔を拝見できた。抜本的な施策を展開していないから、出席者の要求にオタオタとそのまま“オウム返し”に回答せざるを得ない。大阪府知事の自衛隊医官の派遣要請にも既に何日には何名を派遣すると決めているとは、明言しなかった。何もかもが遅い!呆れたのは、“早目早目の施策をお願いしたい”と言われると“早目早目に実施して行きたい。”と応答。危機感が本当にあるとは思えない雰囲気!ホンマに仕事してんのか?N高T大出のアホの証明にしかなっていなかった!!
さて、今回は偉大なる思想家ジャン・ジャック・ルソーについて“お勉強”したことを報告したい。解説本を読んだが、未だにその重要部分の片鱗すら把握できていないのだが、そんなことを言っていては何時まで経っても、紹介に至らない懸念もあるので、理解した範囲での紹介であることをお許しいただきたい。
一先ず、これまで読んだ本―たいして読んではいないのだが―を列記しよう。
①西研[著]“ルソー・エミール~自分のために生き、みんなにために生きる”NHK「100分de名著」ブックス
②福田歓一[著]“ルソー”(岩波現代文庫)
③ルソー[著], 青柳瑞穂[翻訳]“孤独な散歩者の夢想”(新潮文庫)
西研教授を私の哲学の師と定めて、読み継いで“ルソー・エミール”に至ったのだが、残念ながら知りたいこと、つまり“社会契約論”の概要と“一般意思”の真髄についてはほとんど触れられていなかった。そこで思い切って西欧政治思想史の泰斗・福田歓一のルソー解説本に嚙り付いたのだ。ルソーの生涯の概要は分かったが、肝腎の思想解説ではサッパリ理解できず浅学菲才を痛感するばかりで、目標に至らず自分なりの総括も不能となった。
そこで次の本を探索したのだが適当なのが見当たらず、ウロウロするばかり。そこで、目に入ったのがルソー本人の著作である“孤独な散歩者の夢想”が気になった。人類史に輝く大思想家のほぼ最晩年の書で、人生の何を語ったのか、非常に興味が湧いて来た。私は元来、古典・原典は読まないようにしている。それは浅学菲才がいきなり原典に当たったところで、解釈を誤り、それを引きずる恐れが大であり、それはアホには時間の無駄だ、と考えているからだ。だが、この際にはそのような思いよりも、大思想家が晩年に見た人生の光景はどんなものであり、本音が知りたい、それが今の自分に何か資するものが有るかも知れないと思ったのだ。そして一旦、興味が湧くと止まらず、一気に書店に突入して購入したのだ。
今回は、この“孤独な散歩者の夢想”の感想を中心に紹介したい。
ルソーは学界デビュー後ヴォルテールと親交を持ち一時期、『百科全書』に“政治経済論”を執筆・寄稿している。ところがその百科全書派の頭目であるヴォルテールから裏切りを受け、それをきっかけにその後は親交を持った友人にも猜疑心を持つようになり、どんどん孤独化し、晩年はほとんど友人の全面援助も無く過ごしたようだ。それを理解していれば、次のこの本の紹介文も理解できる。
“十八世紀以降の文学と哲学はルソーの影響を無視しては考えられない。しかし彼の晩年はまったく孤独であった。人生の長い路のはずれに来て、この孤独な散歩者は立ちどまる。彼はうしろを振返り、また目前にせまる暗闇のほうに眼をやる。そして左右にひらけている美しい夕暮れの景色に眺めいる。――自由な想念の世界で、自らの生涯を省みながら、断片的につづった十の哲学的な夢想。”
当初、薄い文庫本なので簡単に読破できると高をくくったのが大間違いだった。何故ならば、ルソーの異様なまでの自己愛に嫌悪を催し、意味不明のボヤキや他人への非難文が連綿として続き、遅々として読み進められないので、中途で何度も本書を投げ出したくなったものだった、からだ。周囲の友人への猜疑心の原因となったヴォルテールの裏切りが、いかにルソーにとって大きなダメージになっていたか分かる。しかしせめて、誰の何を具体的に非難しているのかが分かれば、イメージもしやすいのだろうが、公刊出版することも考慮したのか具体的なことは書かれていないのだ。当時の近親者には誰を論難しているのか容易に分かったのであろうか。具体的に論難したほうが良いのではないかと思うのだが、とにかく何のために書いたのか意味不明である。自らの精神の安定のためのみ書いたのであろうか。
アマゾン評では翻訳に難があるとの意見もあるが、この訳者は翻訳では有名な方で、訳すにあたってはかなり心血を注がれたようで、どうやらルソーの研究もされていたようだ。だから、私はあえてこの本を選んだのだった。むしろ原文に忠実に困難を乗り越えて訳されたのだろうと推察する。まぁ、それほどしんどい本だったのだ。
アマゾン評の中には“(10年前には理解できなかったが、)不惑(40歳)を迎えたとき、ひょんなことから、ふたたび本書を紐解く機会がやってきたのである。すると、どうしたことであろう。10年という培養期間によって己の感性が変化したのであろうか。私は本書に“古今東西の哲人・賢人が喝破してきた普遍的真理”を読み取ることができたのである。”と仰る方も居られるのには驚きである。私は40歳をはるかに超えているが、こんな感想には全く至らなかった。まだまだ未熟なのであろう。それとも10年後には理解できるのであろうか。とてもそんな内容とは思えないのだが・・・。
この本では、“第一の散歩”から“第十の散歩”の断想から成っている。それぞれの関連や構成をどのように考えたのかは私には読み取れないまま終わった。
だが、この内の“第七の散歩”だけは全体が何故か鮮明にイメージしやすい表現となっている。ルソーの多才は植物学にも晩年の“道楽・趣味”として及んでいる。その植物学者の自然愛の目を通しての当時の学界批判となっているのだ。未だ産業革命の全体像が不鮮明の18世紀のフランス社会にあって、まだまだ発展しようとしている科学技術文明に対して、批判的な目を持っていることを宣明していることに、驚嘆せざるを得ないことだった。21世紀の人間の感性にも摩滅してしまいそうな部分を痛烈に批判しているのだ。
ルソーの自然愛は温暖な地で育ったからだという評を中学生の時に聞いたような気がするので、南仏育ちだと思い込んでいたのだが、実際にはスイスのジュネーブで生まれ、その周辺で育ったのが事実なので、決して温暖な地では無かったことが分かる。彼の思想が、殺伐とした“万人の万人に対する闘争”から温和な“社会契約論”に変化させたのは、そうした温和な自然環境が影響しているという論評は誤りだったのではないか、と今になって考え込まざるを得ない。否、そもそもルソーの人民主権論がそんなに和やかなものと言えるのであろうかと思うべきだろう。
そして、“第十の散歩”はルソーの人生を決定させたママンと呼んで恋人でもあったワランス夫人への追慕となっている。やはり男の人生は振り返ると、そんなものなのだろうか。
読み始めて、異様なまでの自己愛に嫌悪を感じたものだが、終盤に至るとそれが純粋な感情からのものと理解できるようになった。ルソーは他人の喜ぶ表情や姿を見て、自らの悦びと感じる人のようだ。それを具体的にどんなものだったのか、分かる光景を提供してくれている。
そのような純粋な人物にとっては、繰り返すようだがヴォルテールの裏切りのダメージの大きさが計り知れないものだったのだ。ルソーは晩年に全ての友人に裏切られて居た訳ではない。晩年には英国のヒュームやプロシャの貴族からの援助の手もあったが、ルソーが一方的に猜疑の目を持ってしまったようだ。一旦、他人が信じられなくなると、こんな酷い事態に至ってしまうのだ。ルソーは結構若い時から貧困に耐え必死に生きて来た人なので、社会性が欠如しているとは言い難いが、その純粋性が孤独に追い込んだのであろう。
負の側面なので言い忘れたが、ルソーにはパトロンのいない若い貧困時代に、教養のない女性テレーズとの間に5人の子供ができたとされる。ルソーは耐え切れずに、その子等全てを孤児院に預けた。福田歓一によれば、ルソーは後にその行方を必死に捜したが、ついにいずれも分からなかったという。フランス社会では少し有名人だったルソーには、この負の噂が結構流布されていたようだ。その源泉のひとつがヴォルテールであったようだ。ルソーはそうした噂にも大いに悩まされていたし、友人への猜猜疑心にも大いに影響を与えていたようだ。この“散歩者の夢想”でも人々の嫌味にゲンナリしていた様子がうかがえる。
しかし、言い訳は殆ど見られないが、たった1箇所でこう言っている。“子供たちにとって最も危険の少ない教育は、孤児院のそれだということを知っていたのである。それで僕は彼らをそこへ入れた。・・・僕は今でもやっぱり、それほどの危惧さえなくてそうするだろうと思う。・・・僕くらい子供らに親切だった父親はなかったろうと思う。”純粋なルソーは当時の孤児院運営者の良心を心から信頼していたのだろう。
西研教授の“ルソー・エミール”では、ルソーの考えの基本を次のように説明していた。“文明が発達した相互依存の社会のなかでは、人は自分を、名誉・権力・富・名声のような社会的評価でもって測るようになり、そしてまわりの評価にひきずりまわされる。それでは自由とはいえない。そうではなくて、自分の必要や幸福を自ら判断して「自分のために」生きられる人間こそが真に自由な人間だ。”西研節満開の感がある。“ルソーが『エミール』で課題としたのは、「自分のため」と「みんなのため」という、折り合いにくい二つを両立させた真に自由な人間をどうやって育てるか”であり、“彼なりの答えを示して”いる。ルソーの人間観察は透徹していると痛感したものだった。
次に、福田歓一[著]“ルソー”で知ったことを付け加えておきたい。幼稚園で習ったお遊戯を伴う“結んで開いて”はルソーの作曲なのだ。かすかに聞いていたような気がするのだが、この本ではっきりしたのだった。彼の作曲したオペラの一部で流された歌曲が原曲になっているとのこと。実に多才なのだ。ルソーは子供の頃、一時教会の合唱隊に居て、音楽教育を受けたということだ。それで貧困時代は写譜で糊口をつないでいたこともあった。この“散歩者の夢想”でもそうしたバイトの話がでてくる。
この福田歓一の本で、ルソーは一般意思の形成について、その政治体の規模を結構気にしていることも知った。考えてみれば、政治体が小さければ一般意思は形成され易い。その小さい政治体で有力なのが都市自治体である。それは恐らく西側諸国の欧米では学問的にも、常識でも当たり前の認識なのだろう。だから欧米では“都構想”のような都市自治体の解体などという発想はないのであろう。どうもこうした前例は海外では全くないようだ。
それから驚いたのは、一般意思を委任された権力は“絶対的に腐敗する”ことをルソーは既に認識していたことだ。今の学術会議の任用問題で政府側の見解を応援するかのような意見を示す日本人が多いようだが、民主主義政体の実態が未だなかった18世紀の思想家がこれを既に感得しているということを知って、今の日本人の頭が江戸時代以前に戻った封建化石のチョンマゲ人であると言わざるを得ない。日本の教育がおかしなことになっている、全く近代化出来ていないのではないか、と言わざるを得ない。そんな社会でデジタル化など容易なハズがない。化石脳では全く理解不能だろう。化石脳では“読み書き算盤”すら不可能ではないか。
“孤独な散歩者の夢想”の終わりに、訳者が“ルソーに関する断想”を書いて、そこで次のように指摘している。
“思うにジャン・ジャック・ルソーはベートーベン、ゲーテ、トルストイ、ニーチェなどの巨人と同列におかれるべき天才ではなかろうか。しかるに、日本においてルソーはこれら他の偉人ほど親炙されていないように思われるのはなぜであろうか。もとよりベートーベンは楽器とレコードの方法で文字の移植以上の好条件をもっている。また、十九世紀に居座っているゲーテ、トルストイは、われわれに理解されやすい表現をもっているかもしれない。しかし、ルソーこそ、ニーチェとともに最も現代性に富み、しかも、未来になお多くの未解決を残しているのではあるまいか。われわれはこの広大な地下水脈を発掘することによって、時代に貢献することができるだろうと思う。”
ルソーはその後の哲学者、ドイツ観念論の泰斗たるヘーゲルやカントたちにも絶大な影響を与えたという。私も訳者の指摘に全く同感するところだ。ルソーについては特に今一歩少し踏み込んで“お勉強”してみたいと思っている。そうすることで、今の日本に欠けているものが見えてくるのではないか、とも思うのだ。思わず長くなった。何だか私の文章もこの本の影響で、くどくどした表現に陥ったかのようだ。勿論、そのレベルは全く違うのだろうが・・・。
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前政権は利権まみれがバレるのが分かって、政権を投げ出したようだ。いよいよサクラで検察の手が伸びて来た。だが略式起訴で手打ちとの噂も。ところがその直後から新たに、タマゴの御食事券?汚職事件が明かになっている。今や次から次へと汚職の花盛り?袖の下やらなきゃソンソン!!
大阪の状態が良くないようで、12月3日にレッド・ステージを府知事が宣言。
具体的には、どうやら十三の市民病院を中等症専門病院化という乱暴な緊急対策が裏目に出て、逆に医療態勢の機能不全に陥っているようだ。病院長の発言によれば“6月ごろから、医師や看護師らが次々と辞めていった。10月までに医師4人、看護師14人を含む(非正規含めて)25人ほどの病院職員が病院を離れた。職員全体(350~60名)の7%を占めた。(同じ病院の医師も家に帰ると近隣住民から同じマンションのエレベータに乗るな、お前十三で働いているだろうと言われた)”という。さらに、“中等症専専門の十三市民病院にECMOはなく、人工呼吸器も2台しかない。重症化した場合、府の窓口を通じて重症者対応の病院への受け入れを打診するが、しばしば難航している。「第三波」による重傷者の急増が背景にあるという。西口院長は「うちには戦うすべがない。重症化して転院させられなければどうしようもない。一つの病院に負担をかけるにはおかしい。可能なら、専門病院の名前を外してほしい」と訴えた。”とのこと。
“病院を運営する地方独立行政法人大阪市民病院機構や市などは11月26日、市立総合医療センターなどから、看護師や医師を十三市民病院に派遣することを決めた。計画通り90人の受け入れを可能にするためだが、この影響で、同センターのがんなどを患うAYA思春期と若年成人)世代の専用病棟が一時閉鎖されることになった。”さらに“府は11月末、重症者を診る「大阪コロナ重症センター」を完成させたが、看護師の確保に苦戦。(必要な130人のうち50人程度しか確保できず)吉村洋文知事は全国知事会などに看護師の一時派遣を要請した。”
医療関係の人材は逼迫している。施設よりもどちらかと言えば人材が問題の焦点のようで、今頃になって慌てても、ネットでみても看護師急募のページは目立つので、既に遅いのではないか。
大阪は“維新の会”が静穏期の夏に“都構想住民投票”で頭が回らず、新型ウィルス対策を放置していたのではないか。その間、足下の医療体制は明かに劣化していたのだ。“維新の会”の政策はおおよそ、斬新で目新しさがあるが、乱暴で粗雑なので、後々大変なことになる傾向があるのではないか。大阪をこんな会派に任せておいてよいのだろうか。斬新な政策には丁寧さが不可欠なのだ。前後の見境ないことは、誰でもやる。それをやらないのではなく、後に悪い影響が出るから、やれない場合も大いにあるのだ。やっぱり“大阪市解体”が実現しなくて良かった!“何でもエエから、変えてくれ!”の思考停止はヤッパリダメなのだ!!
政府は医療人材を応急にでも増やす秘策を打つ必要があるはずだが、揃いもそろってGO TOキャンペーンで頭が一杯のようだ。がん首揃えても、利権墨守のロクなリーダーしか居ないのが悲劇だ。
筆者の居る兵庫県は尼崎、西宮で医療ひっ迫の報があるが、県全体では何とかなっているようにも見える。
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人材逼迫には待遇改善など当事者のやる気になるインセンティブが重要だ。阪神震災時、地元のガス会社が復旧に取った施策が、工事業者に“兎に角集まってくれ!来てくれれば日当は出す。”と言ったそうだ。すると、大勢の業者が集まって、ドンドン競争のように仕事をしたという。お蔭でガスは水道等のインフラよりかなり早い復旧を果たした。このガス会社の人によると、“これで日頃は分からなかったのだが、お蔭でどの業者が本当に優秀で使えるのか良く分った!”と言っていた。そういうものだ。こういうインセンティブを与えて、人に仕事をやらせるのがうまいのは歴史上では豊臣秀吉で、こういったエピソードに事欠かない。
医療関係者は日頃から尊敬される職業にしておくことも大切なことではないか。物心両面での支援が必要ではないのか。人のやる気を削ぐ政策では絶対に良い人は得られない。新型ウィルスの流行で逆に、暇になった個人医院も結構見受ける。それから医療機関のようでありながら、そうでないような予防医学協会は、この折に何をしているのだろうか、その奇妙な静かさは異様だ。その関係者や施設の活用はできないのか。そのような人材の動員もインセンティブによっては可能になるハズではないのか。知恵が回らないのはバカである。
何度も言いたい!今は“新型ウィルス対策が最大の経済対策である”そう考えて政策立案できないのならば、それもバカではないか。危機は好機のハズだ!
前政権のアホアホは今も変わらず引き継いでいる現政権なのか。それとも、自分だけは利権で賢く立ち回っているクロウニンだ!とでもお考えなのだろうか?これは“裸の王様”だ。まさしく日本は周囲に“お追従”ばかり侍る“裸の王様”の統治下にあるのではないか。
何より、知事達の自粛要請期間が何故か12月中旬までとなっている点で奇妙に一致しているのが不思議だ。自粛要請であって“命令”ではないのだが、12月中旬には収まる見通しがあるのか。それはどんな客観的根拠に基づくのだろうか。新型ウィルス対策の決定打となるはずのワクチンの接種開始ですら来年の春以降と見込まれている。これこそ、根拠なき楽観ではないのか。
中央政府の危機感が全くないのが不思議だ。オリンピック開催前に悪いイメージを醸したくないという意図ならば、バカげている。何故ならば、12月中旬には事態はもっと酷く悪くなっていることが、より確かな見通しと言えるのではないか。
このような状態の中、府知事がレッド・ステージ宣言した日、たまたま私は大阪市内の巨大病院の一つに予定されていた腹部超音波健診に出かけた。この病院にはこの6月にも来ていたが、その時よりも緊迫感は感じられず、全くの日常が現出している印象だった。
6月に見た病院前庭の駐車場の余地に設営されていたテントは最早無かった。替りに新型ウィルス患者の救急受け入れと思われる入口が正面玄関の脇に設けられていたが、閉じられていた。恐らく救急車の受け入れ時に開けられるのだろう。そしてその中の通路は衝立で隔てられ、レッド・ゾーンとして管理されているようだ。そのレッド・ゾーンは3階にまで及んでいるかのようで、3階も普通には入れないフロアがあった。
迂闊にも登院前その病院のホーム・ページを見ずに行ったのだが、手指消毒コーナーやテーブルは目立たなかった。薬剤の無駄な消耗を警戒しているかのようだ。また、ホーム・ページには自前で検温するよう要請があったが、百貨店等で見る自動検温装置も設置されていなかった。
この巨大病院ですら財政的に苦しい状態にあるのだろうか。政府当局者は一体どのように考えているのだろうか。自らの利権にのみ拘泥し、日本の基礎的医療インフラはガタガタになりかけているのかも知れない。今、とにかく新型ウィルス対策が経済的にも必要なことだ。何もしなければ事態は悪くなる一方なのだ!かつての先進国が劣化し開発途上国の一つになり下がる寸前の社会状態なのではないだろうか?
最近特に報道には登場しない担当御大臣様、週末日曜朝のNHK番組でようやく御尊顔を拝見できた。抜本的な施策を展開していないから、出席者の要求にオタオタとそのまま“オウム返し”に回答せざるを得ない。大阪府知事の自衛隊医官の派遣要請にも既に何日には何名を派遣すると決めているとは、明言しなかった。何もかもが遅い!呆れたのは、“早目早目の施策をお願いしたい”と言われると“早目早目に実施して行きたい。”と応答。危機感が本当にあるとは思えない雰囲気!ホンマに仕事してんのか?N高T大出のアホの証明にしかなっていなかった!!
さて、今回は偉大なる思想家ジャン・ジャック・ルソーについて“お勉強”したことを報告したい。解説本を読んだが、未だにその重要部分の片鱗すら把握できていないのだが、そんなことを言っていては何時まで経っても、紹介に至らない懸念もあるので、理解した範囲での紹介であることをお許しいただきたい。
一先ず、これまで読んだ本―たいして読んではいないのだが―を列記しよう。
①西研[著]“ルソー・エミール~自分のために生き、みんなにために生きる”NHK「100分de名著」ブックス
②福田歓一[著]“ルソー”(岩波現代文庫)
③ルソー[著], 青柳瑞穂[翻訳]“孤独な散歩者の夢想”(新潮文庫)
西研教授を私の哲学の師と定めて、読み継いで“ルソー・エミール”に至ったのだが、残念ながら知りたいこと、つまり“社会契約論”の概要と“一般意思”の真髄についてはほとんど触れられていなかった。そこで思い切って西欧政治思想史の泰斗・福田歓一のルソー解説本に嚙り付いたのだ。ルソーの生涯の概要は分かったが、肝腎の思想解説ではサッパリ理解できず浅学菲才を痛感するばかりで、目標に至らず自分なりの総括も不能となった。
そこで次の本を探索したのだが適当なのが見当たらず、ウロウロするばかり。そこで、目に入ったのがルソー本人の著作である“孤独な散歩者の夢想”が気になった。人類史に輝く大思想家のほぼ最晩年の書で、人生の何を語ったのか、非常に興味が湧いて来た。私は元来、古典・原典は読まないようにしている。それは浅学菲才がいきなり原典に当たったところで、解釈を誤り、それを引きずる恐れが大であり、それはアホには時間の無駄だ、と考えているからだ。だが、この際にはそのような思いよりも、大思想家が晩年に見た人生の光景はどんなものであり、本音が知りたい、それが今の自分に何か資するものが有るかも知れないと思ったのだ。そして一旦、興味が湧くと止まらず、一気に書店に突入して購入したのだ。
今回は、この“孤独な散歩者の夢想”の感想を中心に紹介したい。
ルソーは学界デビュー後ヴォルテールと親交を持ち一時期、『百科全書』に“政治経済論”を執筆・寄稿している。ところがその百科全書派の頭目であるヴォルテールから裏切りを受け、それをきっかけにその後は親交を持った友人にも猜疑心を持つようになり、どんどん孤独化し、晩年はほとんど友人の全面援助も無く過ごしたようだ。それを理解していれば、次のこの本の紹介文も理解できる。
“十八世紀以降の文学と哲学はルソーの影響を無視しては考えられない。しかし彼の晩年はまったく孤独であった。人生の長い路のはずれに来て、この孤独な散歩者は立ちどまる。彼はうしろを振返り、また目前にせまる暗闇のほうに眼をやる。そして左右にひらけている美しい夕暮れの景色に眺めいる。――自由な想念の世界で、自らの生涯を省みながら、断片的につづった十の哲学的な夢想。”
当初、薄い文庫本なので簡単に読破できると高をくくったのが大間違いだった。何故ならば、ルソーの異様なまでの自己愛に嫌悪を催し、意味不明のボヤキや他人への非難文が連綿として続き、遅々として読み進められないので、中途で何度も本書を投げ出したくなったものだった、からだ。周囲の友人への猜疑心の原因となったヴォルテールの裏切りが、いかにルソーにとって大きなダメージになっていたか分かる。しかしせめて、誰の何を具体的に非難しているのかが分かれば、イメージもしやすいのだろうが、公刊出版することも考慮したのか具体的なことは書かれていないのだ。当時の近親者には誰を論難しているのか容易に分かったのであろうか。具体的に論難したほうが良いのではないかと思うのだが、とにかく何のために書いたのか意味不明である。自らの精神の安定のためのみ書いたのであろうか。
アマゾン評では翻訳に難があるとの意見もあるが、この訳者は翻訳では有名な方で、訳すにあたってはかなり心血を注がれたようで、どうやらルソーの研究もされていたようだ。だから、私はあえてこの本を選んだのだった。むしろ原文に忠実に困難を乗り越えて訳されたのだろうと推察する。まぁ、それほどしんどい本だったのだ。
アマゾン評の中には“(10年前には理解できなかったが、)不惑(40歳)を迎えたとき、ひょんなことから、ふたたび本書を紐解く機会がやってきたのである。すると、どうしたことであろう。10年という培養期間によって己の感性が変化したのであろうか。私は本書に“古今東西の哲人・賢人が喝破してきた普遍的真理”を読み取ることができたのである。”と仰る方も居られるのには驚きである。私は40歳をはるかに超えているが、こんな感想には全く至らなかった。まだまだ未熟なのであろう。それとも10年後には理解できるのであろうか。とてもそんな内容とは思えないのだが・・・。
この本では、“第一の散歩”から“第十の散歩”の断想から成っている。それぞれの関連や構成をどのように考えたのかは私には読み取れないまま終わった。
だが、この内の“第七の散歩”だけは全体が何故か鮮明にイメージしやすい表現となっている。ルソーの多才は植物学にも晩年の“道楽・趣味”として及んでいる。その植物学者の自然愛の目を通しての当時の学界批判となっているのだ。未だ産業革命の全体像が不鮮明の18世紀のフランス社会にあって、まだまだ発展しようとしている科学技術文明に対して、批判的な目を持っていることを宣明していることに、驚嘆せざるを得ないことだった。21世紀の人間の感性にも摩滅してしまいそうな部分を痛烈に批判しているのだ。
ルソーの自然愛は温暖な地で育ったからだという評を中学生の時に聞いたような気がするので、南仏育ちだと思い込んでいたのだが、実際にはスイスのジュネーブで生まれ、その周辺で育ったのが事実なので、決して温暖な地では無かったことが分かる。彼の思想が、殺伐とした“万人の万人に対する闘争”から温和な“社会契約論”に変化させたのは、そうした温和な自然環境が影響しているという論評は誤りだったのではないか、と今になって考え込まざるを得ない。否、そもそもルソーの人民主権論がそんなに和やかなものと言えるのであろうかと思うべきだろう。
そして、“第十の散歩”はルソーの人生を決定させたママンと呼んで恋人でもあったワランス夫人への追慕となっている。やはり男の人生は振り返ると、そんなものなのだろうか。
読み始めて、異様なまでの自己愛に嫌悪を感じたものだが、終盤に至るとそれが純粋な感情からのものと理解できるようになった。ルソーは他人の喜ぶ表情や姿を見て、自らの悦びと感じる人のようだ。それを具体的にどんなものだったのか、分かる光景を提供してくれている。
そのような純粋な人物にとっては、繰り返すようだがヴォルテールの裏切りのダメージの大きさが計り知れないものだったのだ。ルソーは晩年に全ての友人に裏切られて居た訳ではない。晩年には英国のヒュームやプロシャの貴族からの援助の手もあったが、ルソーが一方的に猜疑の目を持ってしまったようだ。一旦、他人が信じられなくなると、こんな酷い事態に至ってしまうのだ。ルソーは結構若い時から貧困に耐え必死に生きて来た人なので、社会性が欠如しているとは言い難いが、その純粋性が孤独に追い込んだのであろう。
負の側面なので言い忘れたが、ルソーにはパトロンのいない若い貧困時代に、教養のない女性テレーズとの間に5人の子供ができたとされる。ルソーは耐え切れずに、その子等全てを孤児院に預けた。福田歓一によれば、ルソーは後にその行方を必死に捜したが、ついにいずれも分からなかったという。フランス社会では少し有名人だったルソーには、この負の噂が結構流布されていたようだ。その源泉のひとつがヴォルテールであったようだ。ルソーはそうした噂にも大いに悩まされていたし、友人への猜猜疑心にも大いに影響を与えていたようだ。この“散歩者の夢想”でも人々の嫌味にゲンナリしていた様子がうかがえる。
しかし、言い訳は殆ど見られないが、たった1箇所でこう言っている。“子供たちにとって最も危険の少ない教育は、孤児院のそれだということを知っていたのである。それで僕は彼らをそこへ入れた。・・・僕は今でもやっぱり、それほどの危惧さえなくてそうするだろうと思う。・・・僕くらい子供らに親切だった父親はなかったろうと思う。”純粋なルソーは当時の孤児院運営者の良心を心から信頼していたのだろう。
西研教授の“ルソー・エミール”では、ルソーの考えの基本を次のように説明していた。“文明が発達した相互依存の社会のなかでは、人は自分を、名誉・権力・富・名声のような社会的評価でもって測るようになり、そしてまわりの評価にひきずりまわされる。それでは自由とはいえない。そうではなくて、自分の必要や幸福を自ら判断して「自分のために」生きられる人間こそが真に自由な人間だ。”西研節満開の感がある。“ルソーが『エミール』で課題としたのは、「自分のため」と「みんなのため」という、折り合いにくい二つを両立させた真に自由な人間をどうやって育てるか”であり、“彼なりの答えを示して”いる。ルソーの人間観察は透徹していると痛感したものだった。
次に、福田歓一[著]“ルソー”で知ったことを付け加えておきたい。幼稚園で習ったお遊戯を伴う“結んで開いて”はルソーの作曲なのだ。かすかに聞いていたような気がするのだが、この本ではっきりしたのだった。彼の作曲したオペラの一部で流された歌曲が原曲になっているとのこと。実に多才なのだ。ルソーは子供の頃、一時教会の合唱隊に居て、音楽教育を受けたということだ。それで貧困時代は写譜で糊口をつないでいたこともあった。この“散歩者の夢想”でもそうしたバイトの話がでてくる。
この福田歓一の本で、ルソーは一般意思の形成について、その政治体の規模を結構気にしていることも知った。考えてみれば、政治体が小さければ一般意思は形成され易い。その小さい政治体で有力なのが都市自治体である。それは恐らく西側諸国の欧米では学問的にも、常識でも当たり前の認識なのだろう。だから欧米では“都構想”のような都市自治体の解体などという発想はないのであろう。どうもこうした前例は海外では全くないようだ。
それから驚いたのは、一般意思を委任された権力は“絶対的に腐敗する”ことをルソーは既に認識していたことだ。今の学術会議の任用問題で政府側の見解を応援するかのような意見を示す日本人が多いようだが、民主主義政体の実態が未だなかった18世紀の思想家がこれを既に感得しているということを知って、今の日本人の頭が江戸時代以前に戻った封建化石のチョンマゲ人であると言わざるを得ない。日本の教育がおかしなことになっている、全く近代化出来ていないのではないか、と言わざるを得ない。そんな社会でデジタル化など容易なハズがない。化石脳では全く理解不能だろう。化石脳では“読み書き算盤”すら不可能ではないか。
“孤独な散歩者の夢想”の終わりに、訳者が“ルソーに関する断想”を書いて、そこで次のように指摘している。
“思うにジャン・ジャック・ルソーはベートーベン、ゲーテ、トルストイ、ニーチェなどの巨人と同列におかれるべき天才ではなかろうか。しかるに、日本においてルソーはこれら他の偉人ほど親炙されていないように思われるのはなぜであろうか。もとよりベートーベンは楽器とレコードの方法で文字の移植以上の好条件をもっている。また、十九世紀に居座っているゲーテ、トルストイは、われわれに理解されやすい表現をもっているかもしれない。しかし、ルソーこそ、ニーチェとともに最も現代性に富み、しかも、未来になお多くの未解決を残しているのではあるまいか。われわれはこの広大な地下水脈を発掘することによって、時代に貢献することができるだろうと思う。”
ルソーはその後の哲学者、ドイツ観念論の泰斗たるヘーゲルやカントたちにも絶大な影響を与えたという。私も訳者の指摘に全く同感するところだ。ルソーについては特に今一歩少し踏み込んで“お勉強”してみたいと思っている。そうすることで、今の日本に欠けているものが見えてくるのではないか、とも思うのだ。思わず長くなった。何だか私の文章もこの本の影響で、くどくどした表現に陥ったかのようだ。勿論、そのレベルは全く違うのだろうが・・・。
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