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京都文博・特別展の“舞妓モダン”を見て

先週、尖閣海域での中国の膨張に対する日本の対応に懸念を表明してブログ投稿したが、その直後当日にNHKが特集番組で、日本側の対応実態を放映した。大変、驚いたのは尖閣海域での日本側の対応に米国沿岸警備隊United States Coast Guardが大変興味を持っていて、沿岸警備隊高官が日本の海保に出張して打合せをしていたことだ。その高官は“海保が大変興味ある情報を持っている。”という意味のコメントをして帰って行ったことだ。日本近海に米領沿岸は存在しないが、米沿岸警備隊が中国の出方には大変注目していることを示すものだった。米沿岸警備隊の背後には米海軍があり、日本の海保、海自との情報システムの共有をする態勢に入ったとのこと。
海保も中国海警船2隻の乱入に対しては、6隻で囲んで対峙したという。決して中国側の意のままにはさせていない処置をとっていることを伝えていた。
これは、もし海保巡視船に異常があれば、場合によっては米戦闘機が上空から援護することも有り得ることを示していた。これは考えようによっては、中国側への警告番組ではなかったろうか。
番組全体として非常に心強いもので、一安心したものだった。

そもそも米海軍の高官には、何故か日本びいきの人物が多いようだ。かなり以前だったが日高芳樹の“ワシントン・レポート”という番組で、米艦に同乗した様子を報道していたことがあったが、その時、第7艦隊の高官だったと思うが、“日本が中国に攻撃されたことが分かった瞬間に、中国本土のミサイル・サイト全てを空襲することにしている。中国のミサイル・サイトの場所は全て把握している。”と笑いながら言っていたことを覚えている。
その後、東北大震災の際には日本近海に居た空母の艦長が、独自判断で東北沿岸に駆け付け、“友達作戦”のきっかけを作ったので、それは本当なのだ、と思ったものだった。
日本政府も米海軍の信頼を失わないように注意するべきなのだろう。


東京オリンピックは、本当に開催する気なのだろうか。何だか、これが日本の財政危機への突破口になるような気がして来た。これを主催する東京都には都の「貯金」にあたる財政調整基金の2020年度残高見通しが807億円になっており、19年度残高に比べると9割減で、新型コロナウイルス対策に伴い、大幅に減っている、という。それでオリンピック開催が可能なのだろうか。国が肩代わりする?国も新型コロナウイルス対策で余裕はないハズ。そうなると、鵜の目鷹の目の世界中の投機家が、円売りに入るのではないか。
新型コロナウイルスで輸出が不調になると、日本経済を支えるためのエネルギー(原油)や食糧の輸入は継続しなければならないから、貿易赤字は増大する。そうなれば円安は加速し、待望のインフレが起きる。そうなれば、日本は経済恐慌に陥るのは明らかではないだろうか。
そう考えると、今の株式市場の動きが、如何にも暢気に見える。足下は極めて不安定な状態なのだ。東京オリンピックがそうしたことの切っ掛けにならないことを祈るばかりだ。

ところが新型ウィルス対策を担当する西村康稔大臣が、新型コロナウイルス感染拡大について“感染がどうなるかっていうのは、本当に神のみぞ知る……”と臆面もなくのたまわった。又、無能の露呈が始まった。情けない限りだ。これが本当に高学歴(N高T大)の御大臣様の発言だろうか。神に頼るのではなく、御自分で打開策を判断するべきこと、職務放棄にも等しい。
否、この夏はぬかっていた部分を補修する絶好の期間だったはずだが、事態はあまり変わっていなかったような印象すらある。医療従事者への負担軽減策はどうなっているのか。第三波は前回の波をはるかに越えそうである。そうなれば、医療崩壊も有り得るのではなかろうか。こんな時に専門家の提言も聞かずに、GO TOキャンパーンをのんべんだらりと継続している暢気さ。呆れるばかりだ。
バカな政策は日本の財政を消耗させるだけではないのだろうか。


さて、先週末の午後は、2カ月ごとの京都での審査員研修会だった。そこで例によって、午前中には京都を楽しみたいとの思いから、京都文化博物館を覗くことにした。
開催していた特別展は“京都文化力プロジェクト関連事業・舞妓モダン”だった。“舞妓はん”か?“今更、こんなん見てどないすんねん”という気分もあったが、まぁ兎に角、開催趣旨は次の通り。

舞妓。いまや京都を代表する文化の一つとして知られていますが、その歴史の詳細は意外にもわからないことばかりです。伝統文化の象徴のように思われる舞妓ですが、絵画に盛んに描かれるようになったのは近代以降のことです。明治5年、都をどりなどが始まると、芸舞妓が伝統都市・観光都市としての京都を象徴する存在として知られていきます。明治26年に黒田清輝が《舞妓》(東京国立博物館・重要文化財)、明治42年に竹内栖鳳が《アレ夕立に》(髙島屋史料館)を発表すると、大正期にかけて、舞妓が盛んに描かれるようになります。そこでの舞妓は、美しく、時に妖しく、画家によってさまざまに描かれ、昭和期に入っても舞妓は多くの芸術家を惹きつけました。
本展では、都をどりの始まりから、舞妓が近代京都において、古都を象徴するイメージとして成長していく過程を、絵画作品を中心に紹介します。可憐で艶やかな舞妓図の競演を京都文化博物館でお楽しみください!



“舞妓に芸妓”、京都花街のこと、“一見さんお断り”等近付き難い印象があって、何とか潜り込めてもお金が続かない、ありきたりの小遣いでは間に合わない世界。貧乏人が近づく世界ではないとの、諦めが先に立つ。だから敬遠し続けて来ている世界だ。今更、その世界を知ったところで、どうにかなるものでもない。
そこで、wikipediaで改めて調べてみた。するとおおよそ次の通りだった。

舞妓(まいこ)は、京都の花街において、舞踊・御囃子などの芸で宴席に興(きょう)を添えることを仕事とする少女のこと。芸妓の見習い修行段階の者をいう。
舞妓・芸妓は、江戸中期に、京都の八坂神社(当時は祇園社)のある東山周辺の、神社仏閣へ参詣する人や街道を旅する人にお茶をふるまった水茶屋の茶立女(ちゃたておんな)に起源がある。水茶屋も初めはお茶や団子を提供していたものに、やがて酒や料理が加わり、その店で働く彼女達が、歌舞伎芝居を真似て三味線や舞踊を披露するようになった。現在も京都の祇園を中心とした花街で厳しいしきたりの下で活躍している。

古くは「舞子」と書き、かつては9~13歳でお座敷に上がり接客作法を学び、芸能など修業して一人前の芸妓に成長していた。現在では中学卒業後でないとなれない。
通例、半年から2年ほどの「仕込み」期間を経た後、1か月間「見習い」として、だらりの帯の半分の長さの「半だらり」の帯を締め、姐さん芸妓と共に茶屋で修行する。置屋の女将、茶屋組合よりの許しが出れば、晴れて舞妓として「見世出し」が可能となる。座敷や舞台に上がるときは芸妓も舞妓も白塗りの厚化粧をするが芸妓が通常鬘(かつら)を付けるのに対し、舞妓は自髪で日本髪を結い、四季の花などをあしらった華やかで可憐な花簪(長く垂れ下がった簪は一年目のみであり、以後は次第に花が大きくなる。)を挿す。
年齢が若いために見習いであるという建前から、衣装は必ず肩上げ、袖上げのされた裾を引いた振袖の着物を着る。ぽっくり(こっぽりとも、京都では「おこぼ(新米の舞妓には内側に鈴が付けられる)」)の下駄にだらりの帯、という派手な格好もあるせいで、現在ではむしろ芸妓(芸子)よりも舞妓のほうが上方花街の代表的存在であると言えるかも知れない。座敷では主に立方を務め、祇園甲部に限って京舞井上流、それ以外では若柳流などの舞踊を披露する。いずれの出身地にかかわりなく独特の京ことば(祇園ことば)を使うよう教育されるために、京都の象徴であるかのように扱われることも多い。
芸妓にしても、現代では料理屋(料亭)、待合茶屋に出入りして売春を行うことはない。

との説明ではあり、現在では歌舞音曲の磨き上げた“芸”は売るが、売春は非合法でありないのは当然だが、戦前のつい最近まで人身売買的要素もあった世界ではないのか。女の子が“綺麗なべべ着て、毎日、歌うて暮らせる”と憧れるのは、騙しの夢の世界。私にとっては、高価な怪しい世界のまま、とのネガティブな思いにつつまれる。
とは言え、これも観光京都の重要な要素、知っておいても良いではないかと、会場に入った。

まぁ文博の開催趣旨の通り、明治期以降の舞妓はんの絵画展である。本来はやはり、日本画の画材としての発展が端緒で、幸野楳嶺の細密な“妓女図”が代表格のようだ。そこへ黒田清輝の洋画家が参戦したことが画材として確かなものとなったきっかけのようだ。黒田は1893年(明治26年)帰国後、京都に屋敷を構え舞妓を画材としてとり上げ“舞妓”を描いたとのこと。
そこで様々な京都の人物像のデッサンも描き、超大作“昔語り”(完成作は焼失、下絵と画稿のみ残る)を仕上げたとあった。これは高倉天皇と小督の悲恋物語から着想を得て描いたもの。1898年(明治31年)に完成し住友家が購入したが、太平洋戦争中の空襲により焼失。中には、舞妓のデッサンも展示されていた。

確か第1回の“都をどり”の映像もあったが、舞台上の動きなどショウ的な感覚が未だ乏しく全体にぎこちなさが目立つ。日本人の体格も、少々頭の比率が大きい印象だ。
竹久夢二の絵もあったが、これはもう絵でしかない。デッサンの基本が滅茶苦茶。

女性画家の広田多津は、小さなころから絵を描くことが好きだった麻織物商の次女で、花街に連れて行かれることが多く舞妓には親しみがあったが、当初は画材としての興味が無かった、という。しかし、彼女らの人生を深く知るようになって、取り上げるようになった、という。中々、独特のタッチで面白い。
女性画家と言えば、上村松園も当然あった。
中村正義の“舞妓”は、モデルとなった本人さんが嫌がるような絵。まるでガマカエルを想起しふざけ過ぎ。下村良之介“たこやき”も奇妙だ。

昼食は近くの“三条堺町、明治38年創業の老舗蕎麦「そば処 大鶴」”で、“とろざる”を頂いた。
午後は研修会。議題はリモート審査をどうやるか、事務局の考え方・方向性の説明と、新型ウィルスへの対応法の専門家によるリモ-ト講演だったが、接続が上手く行かず、結構時間を空費した。リモート審査も良いが、送受信両側の慣れが最大の問題であることが分かった。1度、見知らぬ人々とZOOMが出来て安心していたが、どうやらもっと使い慣れる必要があるようだ。

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