The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“鈴木敏夫とジブリ展”と平安神宮、“神坂雪佳展”
米連邦準備理事会(FRB)は15日の米連邦公開市場委員会(FOMC)で通常の3倍となる0.75%の利上げを決めた。
これによって、0.5%の利上げだと思っていたニューヨーク・ダウは急落し、“1年5カ月ぶり3万ドル割れ 利上げで景気後退に懸念”となり、市場は混乱している。
この利上げの影響を受けて、米ドルに対し大幅な円安が続いている。諸外国も金利を上げ始めている。しかし黒田日銀総裁は、先週末17日の金融政策決定会合後の記者会見で、“(日銀は)大規模な金融緩和策の維持を決めたが、その理由を「賃金の本格的な上昇を実現するために、金融緩和を粘り強く続けることで経済をサポートすることが必要だ」と説明した。足元で急速に進む円安について「企業による事業計画策定を困難にするなど経済にマイナスであり、望ましくない」と述べたが、円安是正を目的とした政策変更の可能性については否定した。”
要は、モノ不足で原油をはじめ諸物価が上昇し始めたので、金利を上げる必要があるが、日本は景気が低迷したままなので、金利を上げると不景気が一層低下するだけなので金利は上げられない、ということだ。
否、日本政府は絶対に金利は上げられないのだ。上げれば、国債の借り換えに膨大な利払いが発生し、いよいよ財政危機、ハイパーインフレへと一気に突入することになるからだ。そうなれば多くの国民は塗炭の経済苦境に陥るのだ。いや否、膨大な財政赤字の下、財務当局はそれを望んでいるのかも知れぬが・・・。
日本は不景気で金利を上げられないが、諸外国は景気の回復があり利上げに進んでおり、これによる金利差拡大によって、さらに円安となっているのだ。だから円安を止めるための手段として為替介入を考えるべきなのだが、日本の単独介入では支えきれないと言われており、米国をはじめG7諸国との為替への協調介入はあり得ない状況だと見られている。
諸国との金利差による円安はこのまま進展するものとおもわれ、歯止めはないものと思われる。現に、元外資系記入機関の社員に先週意見を求めたが、“打つ手なし”との見解だった。つまり、深刻な事態に立ち至っているハズなのだ。その認識はこの国には無いように見える。
円安に“打つ手なし”となると、金利が低い日本で金を借りてその円を売り、ドルを買い投資するという円キャリー・トレードが成立するのではないか。これをどんどんやれば、円はとめどもなく値下がりする。円が安くなったところで、逆にドルを売って円を買い戻す。上手くやれば、濡れ手で粟、となる絶好の金儲け。これを見逃すハゲタカ・ファンドは世界中にいるのではないか。空恐ろしいことではないか。
このように日本経済はいよいよ景気の悪いまま、悪いインフレ(コスト・プッシュ・インフレ)へ突入しようとしている。スタグフレーションそのもので、ニッチモサッチモ行かない状態になりつつあるのだ。結局、アベノミクスは“景気無策”が実態だった。景気回復には何も効果的な政策はなく、景気浮揚なく現在に至って、病気はさらに悪化の気配なのだ。極めて深刻な事態だが、政府以下、報道もまして経済界、経済学界、皆不思議なほど沈黙している。そして一般国民は物価だけを気にして、比較的ノンキのように見える。
日本の大企業は先行投資せず賃金も上げずに内部留保をひたすらガメッているが、“打つ手なし”の中でインフレが進行すれば、そのガメッた現金価値は低下するはだ。デフレ下ではそれでよかったが、インフレ下では現金は活用しなければ資産価値は目減りが進行するのだ。この点も日本経済全体へ悪影響として問題となるのではないか。
全く知らなかったことだが、IMFが6年前(2016年)に日本政府に次のような経済政策を提言したという。
①賃金引上げ努力義務・目標未達成→説明責任
②2%賃金増→税制優遇
③利益増・賃金増なし→罰則
これをやって、せめて賃金水準が上がっていれば、企業は労働生産性を上げていなければならず、そのための先行投資も必要だったはずだ。企業パフォーマンスが活発化していれば現在景気は良くなっていたはずで、現状のような事態にはならなかったハズなのだ。
何故こういうことをやらなかったのか。こういう国際機関からの提言があった、という報道も寡聞にして聞かなかったのではないか。
アホ安倍政権はヤッテル・フリ政権で、アホに騙された国民はもっとアホだったのだ。こんなアホアホ国家は財政赤字のまま、円安下でハーパーインフレに至り滅びの過程に入るのではあるまいか。今から企業体質の改善を言っても、時間は殆どないのだ。
最高裁が“原発事故、国の責任否定 「対策命じても防げず」”として、政府に被害者への賠償責任はないと判断した、という報道があった。
果たして、それが責任ある政府の対応だと胸を張って言えるのだろうか。驚くばかりだ!原発による電源開発は政府が主導してきた事業ではないのか。万一でもそれに問題があれば、又、国民に実害が及べば賠償責任を負うべきだというのは当然の判断であろう。だが、最高裁は政府に責任はないという。
この震災津波による災害リスクは、原発推進派の学者にも広く知られていた、と私は認識している。正にリスク研究の中で“(津波など)千年に一度の災害に莫大なコストをかけて対策をするのは愚かなことだ!”という判断を原発リスク研究者からしっかりとこの耳で聞いた覚えがある。だが、その時既に千年が経過していたのだから、リスクは極大化していたはずだ。“予見できなかった”というのは明らかなウソで、千年経過した時点でのリスク判断を誤っていたと考えるべきであろう。
さらに政府にはこうした一研究者の見解だけではなく、日本中の大勢の学者・研究者の見解を聞き、検討し、判断できる立場にあったはずだ。それをおろそかにした責任もあるのではないか。
いかにも政府寄りの愚かな判断だ。こうなれば何をやって失敗しても“想定外だった”と言って、政府は責任を回避できることになるのではないか。いかにも先の大戦の戦争責任を問わなかった、政府の司法部門のやりそうな判断ではないか。
政府高級官僚も安心して、適切ではない適当な政策を推進できることになる。かつて“無責任時代”や“テキトー”という言葉が流行ったことがあるが、それはこの国の政府の“誇りある伝統となった”のではないか。
厳しく政府責任を認定することが、政府の政策への責任感を保証する第一歩のはずだ。これまで政府の政策の正否を正しく検証し、その結果をそれからの政策に反映させたことはこの国であっただろうか。
このようなアホな司法判断を認めるべきだろうか。最高裁判所裁判官国民審査に向けて、忘れてしまいがちな御氏名を記載しておきたい。
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さて、先週は梅雨入りとなったが、半ばに雨の降らない時期があった。これを見逃さず、身体を動かす意味もあり、京都ミニミニ観光へと出かけた。京都文博で、“ジブリ展”があるのは知っていて、是非行って見たいと思っていた。京都での仕事のついでで見れると思っていたら、その機会無く、この19日で終了することになっていた。そこで、慌てて出かけたという方が正しいのかも知れない。
この行程、“ジブリ展”だけでは一日は潰れない。折角の京都、早く帰ってしまうのはいかにももったいない。そこで調べると平安神宮の神苑の花菖蒲が見頃だと知って行ってみたくなった。これまで京都観光で平安神宮はベタな印象なのと、江戸期以前の古い文化財ではないので敬遠していたのだが、少なくとも外人観光客のいない内に見ておこうという気持ちもあって、この際、見に行くこととした。
平安神宮へ行くなら、ついでに近所のラ・ヴァチュールというタルトタタンが名物のカフェにも寄って、さらに細見美術館にも立ち寄ることにした。行程は下図の通りで、実際もこの通りとなった。
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正午前に阪急・烏丸駅に着いて、徒歩で京都文博に赴く。実際に会場に着いて、観覧者の多さに驚く。文博でこのような人出を見たのは初めてだった。この混雑では、予定がどうなるか、時間不足になるのではと不安。
これまでの文博・特別展では、原則写真撮影不可であっても、部分的に撮影可能な箇所があったりしたが、今回は全く全面不可。アトリウムに“千と千尋の神隠し”の一シーンの大きなカットが飾られてあり、これを撮影しようとしたが、“撮影不可”とあり、残念だが断念。そこでブログで報告・掲載できる写真はナシ!
それに“ジブリ展”で何を展示するのかと思いきや、プロデューサー・鈴木敏夫氏のこれまで生涯の“展示”であった。成程、正確な特別展の呼称は“鈴木敏夫とジブリ展”で、この前半をすっかり見落としていたのだ。多くの人々も同じだったのではないかと思う。それが証拠に、結構会場の人の捌け具合は悪くなく、その後のタイム・スケジュールは狂わなかった。
鈴木敏夫氏の来歴は、Wikipediaをベースにして、概ね次の通り。(このジブリ展で知った事項を織り交ぜて若干筆者によって取捨編集している。括弧内が追加部分。)
名古屋市生まれ。東海中学校・高等学校を経て、慶應義塾大学文学部社会・心理・教育学科社会学専攻。(大学在学中は60年安保闘争の時代で学生運動にかかわるが、オルグに会って政治活動に疑問を抱き、その後は)多くのアルバイト(に専念し種々多数)を経験した。
大学卒業後、徳間書店入社。『週刊アサヒ芸能』企画部へ配属される。1973年、成人向け劇画雑誌『コミック&コミック』編集部を経て、自ら希望して『テレビランド』担当の児童少年編集部へ異動。
1978年、同編集部よりアニメ雑誌『アニメージュ』が創刊、発行される。80-81年、富野由悠季の連載「イデオン・ライナーノート」の担当編集者、「イデオン」特集も手がけた。(当時、編集部内では原作のないモノは採用しないという原則があったが、「ならば私が原作を書こう」といって宮崎駿が手がけたものを)1982年に宮崎執筆の漫画『風の谷のナウシカ』連載開始に尽力する。後に同作の映画化が決定すると、宮崎の意を受け、プロデューサーを引き受けるよう(嫌がる)高畑勲を説得し、以降は高畑とともに『風の谷のナウシカ』の製作を支えた。
その後、『アニメージュ』初代編集長の尾形英夫が児童少年編集部全体の統括を担うと、実質的に『アニメージュ』の編集実務を担当し、後に尾形の後任として、正式に2代目編集長に就任した。
1989年10月にスタジオジブリ*へ移籍して以降は、同スタジオのほとんどの作品で映画プロデューサーを務めている。移籍した当時、『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』・『火垂るの墓』等の興行成績は振るわず、『魔女の宅急便』が最後だと言われる状況であった。そこで、日本テレビと提携することで、『魔女の宅急便』をヒットさせ、後のスタジオジブリ作品の興行的成功とブランド確立につなげた。
*株式会社スタジオジブリ( STUDIO GHIBLI INC.): アニメ制作会社。通称は「ジブリ」。長編アニメーション映画の制作を主力事業としている。(これも、このジブリ展で知った事項を織り交ぜて若干筆者によって編集している。)
1990年代中期以降は、短編アニメーションの制作および実写映画の企画、日本国外のアニメーションの公開やDVDの販売、小冊子『熱風』の発行を行う出版事業や音楽事業、加えて三鷹の森ジブリ美術館への展示物定期制作など、関連事業は多岐にわたる。また、他社テレビ作品の動画グロスも請け負っている。
「スタジオジブリ」の名称は、サハラ砂漠に吹く熱風(Ghibli)に由来しており、第二次世界大戦中のイタリアのカプローニの偵察爆撃機の名前(Caproni Ca309 Ghibli)でもある。宮崎駿の思い込みから「ジブリ」となったが、「ギブリ」の方が原語に近い発音である。
これ以降の経歴は、ほぼスタジオジブリをベースに活動しており、一般的に知られている経歴だ。こういう“成功者”の来歴を知って、いつも思うのだがつくづく“運のいい人”だという感想だ。武田信玄が“運のいい”家臣を重用したというが、納得できる。
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お土産売店でも特に買いたいものはなく、そのまま昼食へ向かった。本来は平安神宮へ向かうべきで市バスの適当なルートは見当たらず、地下鉄で烏丸御池~東山コースが適切のようだ。一方、時間的に昼食時を過ぎかけている。ならば、烏丸御池付近での昼食が適切。蕎麦屋を探すと、老舗の本家尾張屋が文博の北、御池通の北にあるのが分かり、そこで食べることにした。
本家尾張屋さんのウェブサイトには次の紹介文がある。(一部を勝手に抜粋)
【室町時代、尾張国から京の都にやってきた菓子屋が、そば餅の「本家尾張屋」になりました。】
本家尾張屋には菓子屋と蕎麦屋、ふたつの大切な柱があります。“やんごとなき御方より召されて”と文献に残るように、室町時代に京都にのぼった尾張屋は、以来菓子屋として550年以上もの長きにわたり、家業を守り、育ててきました。(別のウェブサイトには、次のようにある。“本家・尾張屋は、室町時代後期にあたる寛正六(1465年)*、公家の招聘により尾張の国から京都に移り、御所出入りの菓子司として創業した。”)
*室町時代の尾張と言えば織田信長(1534–82)だが、信長の初上洛は、足利義昭の求めに応じて永禄11年(1568)9月7日に兵を挙げ岐阜を出立し、途上で近江の大名六角氏を退けると、その年の9月26日には東寺に入った、とある。本家尾張屋はそのはるか以前に尾張から招聘されたことになる。そこには一体何が?
【江戸時代、禅宗のお寺に求められて京都の蕎麦は広まっていきました。】
江戸では町民に親しまれた印象の強い蕎麦ですが、京都では点心のひとつとして、寺院の食文化に深く根づいていました。特に禅宗では心身を健全に養う食べ物として、瞑想や修行をする際に、ひと握りの蕎麦粉を携行したといわれています。
古くはお寺で製粉と製麺を行っていましたが、次第に「練る・伸ばす・切る」の技術を持っていた菓子屋がそれを請け負うようになったといわれています。尾張屋も菓子屋として御所や禅宗のお寺から蕎麦の注文をたくさんいただく中、江戸時代中頃、1702年に初代が菓子屋とともに蕎麦屋を開業し、その後、御所を出入りする『御用蕎麦司』(宮内庁御用達)となりました。
まごうことなき京都の老舗。当然、京名物・百味会のメンバーである。“とろろせいろ”を食べ、テイク・アウトに“そば餅”と“蕎麦ぼうる”を買って出た。店の前には小さな庭があったが、残念ながら写真を撮るのを忘れてしまった。
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地下鉄・烏丸御池駅に向かい、東山駅で降りる。
ここから、白川沿いに北上し岡崎公園に向かう。白川は確か比叡山からの花崗岩が分解され、白い石英が川床に残ったため、白川と呼ばれるようになったと、“ブラタモリ”で聞いたように思う。さすがに京都、この辺りにも歴史がある。冷却器の輸入が明治初期に既に為され、その後付近でその機械メーカーがあったようだ。
例によって、巨大鳥居を見て、左手に近代美術館、右手に京セラ美術館(旧市立美術館)を見つつ、さらに北上。すぐに赤い大きな応天門が見える。
平安神宮は“平安神宮は平安遷都1100年を記念して、明治28年に遷都のおや神様である第50代桓武天皇をご祭神として創建され”たという。また、“平安神宮の社殿は、桓武天皇が開かれた当時の平安京の正庁、朝堂院が約8分の5の規模で再現されています。大極殿(だいごくでん・外拝殿)・応天門(おうてんもん・神門)・蒼龍楼(そうりゅうろう)・白虎楼(びゃっころう)・歩廊・龍尾壇(りゅうびだん)などは明治28年(西暦1895年)の創建当時に造営されたもの”だという。
応天門をくぐろうとすると、中央にわら束のようなもので大きな輪が作られ、これを作法に則ってくぐれ、という意味の指示掲示があった。調べると、わらではなく、茅束とある。本来は、「水無月の夏越の祓いする人は千年の命のぶといふなり」唱えつつ、一旦くぐって左側に出て、もう一度くぐり直して右側に出、もう一度くぐって左側に出てくぐり直すべきようだが、詳しく知らぬまま唱えることはせず、指示通りには3度くぐった。
これは“古来より夏越の大祓に茅の輪をくぐって厄をのがれる習わし”があり、“この茅の輪をくぐって罪・穢れを祓い、心身の清浄・無病息災を祈る”もののようだ。
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いよいよ境内に入り、日本の神社としては珍しく広々した境内である。
参拝後、西側の神苑入口に向かう。入ってしばらくすると、せせらぎがあるのが分かる。久しぶりの森林浴だ。Wikipediaによれば、“池泉回遊式の近代日本庭園。平安神宮の大極殿背後の周囲三方に配された南神苑、西神苑、中神苑、東神苑で構成される。面積は33,000平米、作庭は小川治兵衛、1975年(昭和50年)に国の名勝に指定されている”とある。ここは、明治以降にできた琵琶湖疎水の京都側出口域であり、白川もあって水は特に豊富だ。
日本庭園特有の“枯山水”は“水の少ない地域で考えられた作庭様式だ”という説をもっともらしく唱える向きもあるが、これは真っ赤な偽説だ。京都で水のない場所はほとんどなく、盆地で地下水は特に豊富だ。その地下水の流れる先に伏見があり、そこでは銘酒が醸造されている。枯山水石庭で有名な竜安寺も実は水は豊富で、背景の山からは泉がこんこんと湧き、石庭の下を通って南側に大きな池がある。
少し南下すると、いきなり路面電車の展示があった。“日本最古の電車” との表示があった。どうやら伏見と京都を結んでいたようだ。
どんどん“順路”の掲示に従って進んで行くと、大きな池に出くわし、そこの向こう岸にようやく花菖蒲の群落を見ることができた。中々壮観ではある。壮観にするための最小限の大きさかもしれない。
この後は、本殿の北側をめぐって、東側の池に出る。手前に池に大きくはみ出た松の枝が池からの支柱に支えられている。これも中々の手入れである。向こう岸に茶屋のようなしつらえがあり、風情を感じる。ここから南へ向かうとまた大きな池がある。向こう岸には建物が重なって見える。その内の一つが泰平閣(橋殿)であり、池を渡して東岸から西岸に行って、まもなく神苑の出口となる。
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平安神宮を出て、休憩のため予定通り近所のカフェ“ラ・ヴァチュール”に向かう。
実は、未だサラリーマンとして現役だった頃、ここが日本では珍しいタルトタタンを出しているカフェだとの評を聞いてやって来たことがある。私はリンゴの焼き菓子に何故か目が無い。だからパイナップルは好きだが、タルトタタンもあるとは知らなかった。当時、この店のお婆さんが本場フランスでレシピを学んで、この店で提供していたと記憶する。また、こうしたことは未だ一般に知られていなかったためか、客は私一人だったとも覚えている。ところが、最近はネットでも評判になったようで、未だ観光地が人で溢れている訳ではないが、この店は行列ができるほどではないが来客は引きも切らずのようだ。
その後、岡崎まで足を延ばす機会が乏しく来る機会がなかったのだ。それからかなりの時間が過ぎてしまっている。店の奥で、アイスコーヒーとタルトタタンを注文、色の黒さには驚くが、しつこくない甘さが良い。満足して出た。
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次は、細見美術館。ここでは“つながる琳派スピリット 神坂雪佳”の特集展覧会をやっていた。神坂雪佳とは全く知らない人物。ウェッブサイトに次のように紹介がある。“近代京都において図案家・画家として活躍した神坂雪佳(1866~1942)は、光悦や光琳ら琳派の活動や作風に共感し、これを新しい時代にふさわしいデザインに昇華させました。雪佳の活動は絵画にとどまらず、染織、陶芸、漆芸、室内装飾や庭園に至る実に多彩なものでした。”
図案とは、“形・色などを美的に配合し、装飾その他に利用するため図に表わすこと。また、その図の柄や模様。美術工芸品および一般工作物の製作のために、意匠や考案を表現した図。”とあるが、思うに“自然物の形象をその本質を語る表象を抽出して(見抜いて)単純化した図形”だと思う。だから対象物への深い造詣がなければ、単純な形象に図案化することはできない、と考えるのだ。相当な教養“お勉強”が欠かせない。だから、図案作家は尊敬おく能わざる人々だと思うのだ。だから、“光悦や光琳らは凄い!”となる。 だが、神坂雪佳という図案家が居たことを知らなかった、その不明を大いに恥じなければならない。展示されているデザインはさすがと思えるものばかりだった。
彼を知らなかったことは、私一人の問題ではない、世の中の評価が不当に低いのだ。だが、見る人は少数でも居て、このように展覧会を開いているのだ。何故、“世の中の評価が不当に低い”のかは、知るべきことだ。その点はイタリアに学ぶべきかも知れない。
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細見美術館はこれで2度目。前回は珍しい“春画展”で、盛況だったが、今回は“世の中の評価が不当に低い作家の展覧会なので、落ち着いて鑑賞可だった。
細見美術館の建物は外観は3階建てのようだが、展示会場は1階から下へ地下2階までだった。地下深くすることで耐震性を向上させたのであろうか。帰りは、地下2階の底から地上まで吹き抜けの階段で上るようになっている。また階段はの脇にカフェが併設されていて、吹き抜けが開放感たっぷりである。“ラ・ヴァチュール”に寄ったばかりなので、失礼した。
バス停・岡崎美術館前に向かう。ネットの乗換案内で目指すバスには20分の余裕あり、と見込んでいたが、そこに掲載されていないバスが直ぐにやって来た。お蔭で、20分のゲイン!バス停・四条烏丸で降りるのは間違いで、手前の高倉のバス停が正解。このバス停の四条通の向いが、百貨店。ここで京都土産の漬物を買って帰るのが、クセになっている。
そして、いつものように阪急で帰神。
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これによって、0.5%の利上げだと思っていたニューヨーク・ダウは急落し、“1年5カ月ぶり3万ドル割れ 利上げで景気後退に懸念”となり、市場は混乱している。
この利上げの影響を受けて、米ドルに対し大幅な円安が続いている。諸外国も金利を上げ始めている。しかし黒田日銀総裁は、先週末17日の金融政策決定会合後の記者会見で、“(日銀は)大規模な金融緩和策の維持を決めたが、その理由を「賃金の本格的な上昇を実現するために、金融緩和を粘り強く続けることで経済をサポートすることが必要だ」と説明した。足元で急速に進む円安について「企業による事業計画策定を困難にするなど経済にマイナスであり、望ましくない」と述べたが、円安是正を目的とした政策変更の可能性については否定した。”
要は、モノ不足で原油をはじめ諸物価が上昇し始めたので、金利を上げる必要があるが、日本は景気が低迷したままなので、金利を上げると不景気が一層低下するだけなので金利は上げられない、ということだ。
否、日本政府は絶対に金利は上げられないのだ。上げれば、国債の借り換えに膨大な利払いが発生し、いよいよ財政危機、ハイパーインフレへと一気に突入することになるからだ。そうなれば多くの国民は塗炭の経済苦境に陥るのだ。いや否、膨大な財政赤字の下、財務当局はそれを望んでいるのかも知れぬが・・・。
日本は不景気で金利を上げられないが、諸外国は景気の回復があり利上げに進んでおり、これによる金利差拡大によって、さらに円安となっているのだ。だから円安を止めるための手段として為替介入を考えるべきなのだが、日本の単独介入では支えきれないと言われており、米国をはじめG7諸国との為替への協調介入はあり得ない状況だと見られている。
諸国との金利差による円安はこのまま進展するものとおもわれ、歯止めはないものと思われる。現に、元外資系記入機関の社員に先週意見を求めたが、“打つ手なし”との見解だった。つまり、深刻な事態に立ち至っているハズなのだ。その認識はこの国には無いように見える。
円安に“打つ手なし”となると、金利が低い日本で金を借りてその円を売り、ドルを買い投資するという円キャリー・トレードが成立するのではないか。これをどんどんやれば、円はとめどもなく値下がりする。円が安くなったところで、逆にドルを売って円を買い戻す。上手くやれば、濡れ手で粟、となる絶好の金儲け。これを見逃すハゲタカ・ファンドは世界中にいるのではないか。空恐ろしいことではないか。
このように日本経済はいよいよ景気の悪いまま、悪いインフレ(コスト・プッシュ・インフレ)へ突入しようとしている。スタグフレーションそのもので、ニッチモサッチモ行かない状態になりつつあるのだ。結局、アベノミクスは“景気無策”が実態だった。景気回復には何も効果的な政策はなく、景気浮揚なく現在に至って、病気はさらに悪化の気配なのだ。極めて深刻な事態だが、政府以下、報道もまして経済界、経済学界、皆不思議なほど沈黙している。そして一般国民は物価だけを気にして、比較的ノンキのように見える。
日本の大企業は先行投資せず賃金も上げずに内部留保をひたすらガメッているが、“打つ手なし”の中でインフレが進行すれば、そのガメッた現金価値は低下するはだ。デフレ下ではそれでよかったが、インフレ下では現金は活用しなければ資産価値は目減りが進行するのだ。この点も日本経済全体へ悪影響として問題となるのではないか。
全く知らなかったことだが、IMFが6年前(2016年)に日本政府に次のような経済政策を提言したという。
①賃金引上げ努力義務・目標未達成→説明責任
②2%賃金増→税制優遇
③利益増・賃金増なし→罰則
これをやって、せめて賃金水準が上がっていれば、企業は労働生産性を上げていなければならず、そのための先行投資も必要だったはずだ。企業パフォーマンスが活発化していれば現在景気は良くなっていたはずで、現状のような事態にはならなかったハズなのだ。
何故こういうことをやらなかったのか。こういう国際機関からの提言があった、という報道も寡聞にして聞かなかったのではないか。
アホ安倍政権はヤッテル・フリ政権で、アホに騙された国民はもっとアホだったのだ。こんなアホアホ国家は財政赤字のまま、円安下でハーパーインフレに至り滅びの過程に入るのではあるまいか。今から企業体質の改善を言っても、時間は殆どないのだ。
最高裁が“原発事故、国の責任否定 「対策命じても防げず」”として、政府に被害者への賠償責任はないと判断した、という報道があった。
果たして、それが責任ある政府の対応だと胸を張って言えるのだろうか。驚くばかりだ!原発による電源開発は政府が主導してきた事業ではないのか。万一でもそれに問題があれば、又、国民に実害が及べば賠償責任を負うべきだというのは当然の判断であろう。だが、最高裁は政府に責任はないという。
この震災津波による災害リスクは、原発推進派の学者にも広く知られていた、と私は認識している。正にリスク研究の中で“(津波など)千年に一度の災害に莫大なコストをかけて対策をするのは愚かなことだ!”という判断を原発リスク研究者からしっかりとこの耳で聞いた覚えがある。だが、その時既に千年が経過していたのだから、リスクは極大化していたはずだ。“予見できなかった”というのは明らかなウソで、千年経過した時点でのリスク判断を誤っていたと考えるべきであろう。
さらに政府にはこうした一研究者の見解だけではなく、日本中の大勢の学者・研究者の見解を聞き、検討し、判断できる立場にあったはずだ。それをおろそかにした責任もあるのではないか。
いかにも政府寄りの愚かな判断だ。こうなれば何をやって失敗しても“想定外だった”と言って、政府は責任を回避できることになるのではないか。いかにも先の大戦の戦争責任を問わなかった、政府の司法部門のやりそうな判断ではないか。
政府高級官僚も安心して、適切ではない適当な政策を推進できることになる。かつて“無責任時代”や“テキトー”という言葉が流行ったことがあるが、それはこの国の政府の“誇りある伝統となった”のではないか。
厳しく政府責任を認定することが、政府の政策への責任感を保証する第一歩のはずだ。これまで政府の政策の正否を正しく検証し、その結果をそれからの政策に反映させたことはこの国であっただろうか。
このようなアホな司法判断を認めるべきだろうか。最高裁判所裁判官国民審査に向けて、忘れてしまいがちな御氏名を記載しておきたい。
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さて、先週は梅雨入りとなったが、半ばに雨の降らない時期があった。これを見逃さず、身体を動かす意味もあり、京都ミニミニ観光へと出かけた。京都文博で、“ジブリ展”があるのは知っていて、是非行って見たいと思っていた。京都での仕事のついでで見れると思っていたら、その機会無く、この19日で終了することになっていた。そこで、慌てて出かけたという方が正しいのかも知れない。
この行程、“ジブリ展”だけでは一日は潰れない。折角の京都、早く帰ってしまうのはいかにももったいない。そこで調べると平安神宮の神苑の花菖蒲が見頃だと知って行ってみたくなった。これまで京都観光で平安神宮はベタな印象なのと、江戸期以前の古い文化財ではないので敬遠していたのだが、少なくとも外人観光客のいない内に見ておこうという気持ちもあって、この際、見に行くこととした。
平安神宮へ行くなら、ついでに近所のラ・ヴァチュールというタルトタタンが名物のカフェにも寄って、さらに細見美術館にも立ち寄ることにした。行程は下図の通りで、実際もこの通りとなった。
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正午前に阪急・烏丸駅に着いて、徒歩で京都文博に赴く。実際に会場に着いて、観覧者の多さに驚く。文博でこのような人出を見たのは初めてだった。この混雑では、予定がどうなるか、時間不足になるのではと不安。
これまでの文博・特別展では、原則写真撮影不可であっても、部分的に撮影可能な箇所があったりしたが、今回は全く全面不可。アトリウムに“千と千尋の神隠し”の一シーンの大きなカットが飾られてあり、これを撮影しようとしたが、“撮影不可”とあり、残念だが断念。そこでブログで報告・掲載できる写真はナシ!
それに“ジブリ展”で何を展示するのかと思いきや、プロデューサー・鈴木敏夫氏のこれまで生涯の“展示”であった。成程、正確な特別展の呼称は“鈴木敏夫とジブリ展”で、この前半をすっかり見落としていたのだ。多くの人々も同じだったのではないかと思う。それが証拠に、結構会場の人の捌け具合は悪くなく、その後のタイム・スケジュールは狂わなかった。
鈴木敏夫氏の来歴は、Wikipediaをベースにして、概ね次の通り。(このジブリ展で知った事項を織り交ぜて若干筆者によって取捨編集している。括弧内が追加部分。)
名古屋市生まれ。東海中学校・高等学校を経て、慶應義塾大学文学部社会・心理・教育学科社会学専攻。(大学在学中は60年安保闘争の時代で学生運動にかかわるが、オルグに会って政治活動に疑問を抱き、その後は)多くのアルバイト(に専念し種々多数)を経験した。
大学卒業後、徳間書店入社。『週刊アサヒ芸能』企画部へ配属される。1973年、成人向け劇画雑誌『コミック&コミック』編集部を経て、自ら希望して『テレビランド』担当の児童少年編集部へ異動。
1978年、同編集部よりアニメ雑誌『アニメージュ』が創刊、発行される。80-81年、富野由悠季の連載「イデオン・ライナーノート」の担当編集者、「イデオン」特集も手がけた。(当時、編集部内では原作のないモノは採用しないという原則があったが、「ならば私が原作を書こう」といって宮崎駿が手がけたものを)1982年に宮崎執筆の漫画『風の谷のナウシカ』連載開始に尽力する。後に同作の映画化が決定すると、宮崎の意を受け、プロデューサーを引き受けるよう(嫌がる)高畑勲を説得し、以降は高畑とともに『風の谷のナウシカ』の製作を支えた。
その後、『アニメージュ』初代編集長の尾形英夫が児童少年編集部全体の統括を担うと、実質的に『アニメージュ』の編集実務を担当し、後に尾形の後任として、正式に2代目編集長に就任した。
1989年10月にスタジオジブリ*へ移籍して以降は、同スタジオのほとんどの作品で映画プロデューサーを務めている。移籍した当時、『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』・『火垂るの墓』等の興行成績は振るわず、『魔女の宅急便』が最後だと言われる状況であった。そこで、日本テレビと提携することで、『魔女の宅急便』をヒットさせ、後のスタジオジブリ作品の興行的成功とブランド確立につなげた。
*株式会社スタジオジブリ( STUDIO GHIBLI INC.): アニメ制作会社。通称は「ジブリ」。長編アニメーション映画の制作を主力事業としている。(これも、このジブリ展で知った事項を織り交ぜて若干筆者によって編集している。)
1990年代中期以降は、短編アニメーションの制作および実写映画の企画、日本国外のアニメーションの公開やDVDの販売、小冊子『熱風』の発行を行う出版事業や音楽事業、加えて三鷹の森ジブリ美術館への展示物定期制作など、関連事業は多岐にわたる。また、他社テレビ作品の動画グロスも請け負っている。
「スタジオジブリ」の名称は、サハラ砂漠に吹く熱風(Ghibli)に由来しており、第二次世界大戦中のイタリアのカプローニの偵察爆撃機の名前(Caproni Ca309 Ghibli)でもある。宮崎駿の思い込みから「ジブリ」となったが、「ギブリ」の方が原語に近い発音である。
これ以降の経歴は、ほぼスタジオジブリをベースに活動しており、一般的に知られている経歴だ。こういう“成功者”の来歴を知って、いつも思うのだがつくづく“運のいい人”だという感想だ。武田信玄が“運のいい”家臣を重用したというが、納得できる。
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お土産売店でも特に買いたいものはなく、そのまま昼食へ向かった。本来は平安神宮へ向かうべきで市バスの適当なルートは見当たらず、地下鉄で烏丸御池~東山コースが適切のようだ。一方、時間的に昼食時を過ぎかけている。ならば、烏丸御池付近での昼食が適切。蕎麦屋を探すと、老舗の本家尾張屋が文博の北、御池通の北にあるのが分かり、そこで食べることにした。
本家尾張屋さんのウェブサイトには次の紹介文がある。(一部を勝手に抜粋)
【室町時代、尾張国から京の都にやってきた菓子屋が、そば餅の「本家尾張屋」になりました。】
本家尾張屋には菓子屋と蕎麦屋、ふたつの大切な柱があります。“やんごとなき御方より召されて”と文献に残るように、室町時代に京都にのぼった尾張屋は、以来菓子屋として550年以上もの長きにわたり、家業を守り、育ててきました。(別のウェブサイトには、次のようにある。“本家・尾張屋は、室町時代後期にあたる寛正六(1465年)*、公家の招聘により尾張の国から京都に移り、御所出入りの菓子司として創業した。”)
*室町時代の尾張と言えば織田信長(1534–82)だが、信長の初上洛は、足利義昭の求めに応じて永禄11年(1568)9月7日に兵を挙げ岐阜を出立し、途上で近江の大名六角氏を退けると、その年の9月26日には東寺に入った、とある。本家尾張屋はそのはるか以前に尾張から招聘されたことになる。そこには一体何が?
【江戸時代、禅宗のお寺に求められて京都の蕎麦は広まっていきました。】
江戸では町民に親しまれた印象の強い蕎麦ですが、京都では点心のひとつとして、寺院の食文化に深く根づいていました。特に禅宗では心身を健全に養う食べ物として、瞑想や修行をする際に、ひと握りの蕎麦粉を携行したといわれています。
古くはお寺で製粉と製麺を行っていましたが、次第に「練る・伸ばす・切る」の技術を持っていた菓子屋がそれを請け負うようになったといわれています。尾張屋も菓子屋として御所や禅宗のお寺から蕎麦の注文をたくさんいただく中、江戸時代中頃、1702年に初代が菓子屋とともに蕎麦屋を開業し、その後、御所を出入りする『御用蕎麦司』(宮内庁御用達)となりました。
まごうことなき京都の老舗。当然、京名物・百味会のメンバーである。“とろろせいろ”を食べ、テイク・アウトに“そば餅”と“蕎麦ぼうる”を買って出た。店の前には小さな庭があったが、残念ながら写真を撮るのを忘れてしまった。
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地下鉄・烏丸御池駅に向かい、東山駅で降りる。
ここから、白川沿いに北上し岡崎公園に向かう。白川は確か比叡山からの花崗岩が分解され、白い石英が川床に残ったため、白川と呼ばれるようになったと、“ブラタモリ”で聞いたように思う。さすがに京都、この辺りにも歴史がある。冷却器の輸入が明治初期に既に為され、その後付近でその機械メーカーがあったようだ。
例によって、巨大鳥居を見て、左手に近代美術館、右手に京セラ美術館(旧市立美術館)を見つつ、さらに北上。すぐに赤い大きな応天門が見える。
平安神宮は“平安神宮は平安遷都1100年を記念して、明治28年に遷都のおや神様である第50代桓武天皇をご祭神として創建され”たという。また、“平安神宮の社殿は、桓武天皇が開かれた当時の平安京の正庁、朝堂院が約8分の5の規模で再現されています。大極殿(だいごくでん・外拝殿)・応天門(おうてんもん・神門)・蒼龍楼(そうりゅうろう)・白虎楼(びゃっころう)・歩廊・龍尾壇(りゅうびだん)などは明治28年(西暦1895年)の創建当時に造営されたもの”だという。
応天門をくぐろうとすると、中央にわら束のようなもので大きな輪が作られ、これを作法に則ってくぐれ、という意味の指示掲示があった。調べると、わらではなく、茅束とある。本来は、「水無月の夏越の祓いする人は千年の命のぶといふなり」唱えつつ、一旦くぐって左側に出て、もう一度くぐり直して右側に出、もう一度くぐって左側に出てくぐり直すべきようだが、詳しく知らぬまま唱えることはせず、指示通りには3度くぐった。
これは“古来より夏越の大祓に茅の輪をくぐって厄をのがれる習わし”があり、“この茅の輪をくぐって罪・穢れを祓い、心身の清浄・無病息災を祈る”もののようだ。
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いよいよ境内に入り、日本の神社としては珍しく広々した境内である。
参拝後、西側の神苑入口に向かう。入ってしばらくすると、せせらぎがあるのが分かる。久しぶりの森林浴だ。Wikipediaによれば、“池泉回遊式の近代日本庭園。平安神宮の大極殿背後の周囲三方に配された南神苑、西神苑、中神苑、東神苑で構成される。面積は33,000平米、作庭は小川治兵衛、1975年(昭和50年)に国の名勝に指定されている”とある。ここは、明治以降にできた琵琶湖疎水の京都側出口域であり、白川もあって水は特に豊富だ。
日本庭園特有の“枯山水”は“水の少ない地域で考えられた作庭様式だ”という説をもっともらしく唱える向きもあるが、これは真っ赤な偽説だ。京都で水のない場所はほとんどなく、盆地で地下水は特に豊富だ。その地下水の流れる先に伏見があり、そこでは銘酒が醸造されている。枯山水石庭で有名な竜安寺も実は水は豊富で、背景の山からは泉がこんこんと湧き、石庭の下を通って南側に大きな池がある。
少し南下すると、いきなり路面電車の展示があった。“日本最古の電車” との表示があった。どうやら伏見と京都を結んでいたようだ。
どんどん“順路”の掲示に従って進んで行くと、大きな池に出くわし、そこの向こう岸にようやく花菖蒲の群落を見ることができた。中々壮観ではある。壮観にするための最小限の大きさかもしれない。
この後は、本殿の北側をめぐって、東側の池に出る。手前に池に大きくはみ出た松の枝が池からの支柱に支えられている。これも中々の手入れである。向こう岸に茶屋のようなしつらえがあり、風情を感じる。ここから南へ向かうとまた大きな池がある。向こう岸には建物が重なって見える。その内の一つが泰平閣(橋殿)であり、池を渡して東岸から西岸に行って、まもなく神苑の出口となる。
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平安神宮を出て、休憩のため予定通り近所のカフェ“ラ・ヴァチュール”に向かう。
実は、未だサラリーマンとして現役だった頃、ここが日本では珍しいタルトタタンを出しているカフェだとの評を聞いてやって来たことがある。私はリンゴの焼き菓子に何故か目が無い。だからパイナップルは好きだが、タルトタタンもあるとは知らなかった。当時、この店のお婆さんが本場フランスでレシピを学んで、この店で提供していたと記憶する。また、こうしたことは未だ一般に知られていなかったためか、客は私一人だったとも覚えている。ところが、最近はネットでも評判になったようで、未だ観光地が人で溢れている訳ではないが、この店は行列ができるほどではないが来客は引きも切らずのようだ。
その後、岡崎まで足を延ばす機会が乏しく来る機会がなかったのだ。それからかなりの時間が過ぎてしまっている。店の奥で、アイスコーヒーとタルトタタンを注文、色の黒さには驚くが、しつこくない甘さが良い。満足して出た。
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次は、細見美術館。ここでは“つながる琳派スピリット 神坂雪佳”の特集展覧会をやっていた。神坂雪佳とは全く知らない人物。ウェッブサイトに次のように紹介がある。“近代京都において図案家・画家として活躍した神坂雪佳(1866~1942)は、光悦や光琳ら琳派の活動や作風に共感し、これを新しい時代にふさわしいデザインに昇華させました。雪佳の活動は絵画にとどまらず、染織、陶芸、漆芸、室内装飾や庭園に至る実に多彩なものでした。”
図案とは、“形・色などを美的に配合し、装飾その他に利用するため図に表わすこと。また、その図の柄や模様。美術工芸品および一般工作物の製作のために、意匠や考案を表現した図。”とあるが、思うに“自然物の形象をその本質を語る表象を抽出して(見抜いて)単純化した図形”だと思う。だから対象物への深い造詣がなければ、単純な形象に図案化することはできない、と考えるのだ。相当な教養“お勉強”が欠かせない。だから、図案作家は尊敬おく能わざる人々だと思うのだ。だから、“光悦や光琳らは凄い!”となる。 だが、神坂雪佳という図案家が居たことを知らなかった、その不明を大いに恥じなければならない。展示されているデザインはさすがと思えるものばかりだった。
彼を知らなかったことは、私一人の問題ではない、世の中の評価が不当に低いのだ。だが、見る人は少数でも居て、このように展覧会を開いているのだ。何故、“世の中の評価が不当に低い”のかは、知るべきことだ。その点はイタリアに学ぶべきかも知れない。
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細見美術館はこれで2度目。前回は珍しい“春画展”で、盛況だったが、今回は“世の中の評価が不当に低い作家の展覧会なので、落ち着いて鑑賞可だった。
細見美術館の建物は外観は3階建てのようだが、展示会場は1階から下へ地下2階までだった。地下深くすることで耐震性を向上させたのであろうか。帰りは、地下2階の底から地上まで吹き抜けの階段で上るようになっている。また階段はの脇にカフェが併設されていて、吹き抜けが開放感たっぷりである。“ラ・ヴァチュール”に寄ったばかりなので、失礼した。
バス停・岡崎美術館前に向かう。ネットの乗換案内で目指すバスには20分の余裕あり、と見込んでいたが、そこに掲載されていないバスが直ぐにやって来た。お蔭で、20分のゲイン!バス停・四条烏丸で降りるのは間違いで、手前の高倉のバス停が正解。このバス停の四条通の向いが、百貨店。ここで京都土産の漬物を買って帰るのが、クセになっている。
そして、いつものように阪急で帰神。
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