The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“ひろさちやのいきいき人生・密教にまなぶ”を読んで
政治ニュースは、中国の動向が注目されている。特に、消息不明の女子テニス選手が話題だ。偶然に表に出たスキャンダルか、中国共産党内の権力闘争が表に出たのか。そこにIOC会長がわざわざ胡散臭く介在。人権より五輪開催が至上の行動原理。その五輪に日本は、どうかかわるのか。
それに、中国政府要人は愛人の数と質を競い合っているという噂もある。だから彼らにとって有名人女性は狙い目。これでは中国の女性の人権は既に滅茶苦茶。SDGsどころではない。どうしてそれが世界的な議論の対象にはならないのか。現に米国は米国在住の中国政府要人の愛人の動向を把握していて、いざとなれば人質にする計画もあり、現実に中国政府を脅迫する材料に使った実績もあるようだ。
現習政権の権力強化はどこまで続くのか。一旦始めたら、もう止められないという。止めれば反対派に逆襲される。何故ならば、反対派は既に追い詰められているからだ、という。止められない地獄なのだ。
“共同富裕”も反対派を追い詰めるためのもの。これで有力民営企業はほとんどが国営企業化されるか、国営企業に買収され、確実な共産党指導下に置かれるだろうとの予測もある。“社会主義市場経済”はどこまで社会主義化するのか。いずれにせよ、自由主義経済は中国では死ぬ運命にあるようだ。アリババの経営者は経営権を剥脱された。恒大も同じ運命と思われる。成功した民間企業はいずれも国営企業化するだろうと思われているのだ。
だがそれは、活力ある“市場経済”の死を意味することが、共産党首脳には理解されていないのではないか。活力ある“市場経済”の死は中国のこれまでの経済発展を急速に衰えさせるであろう。それは中国の国力を急速に削ぎ落すことになるはずだ。
そうなれば、中国の国際的横暴は終わり、我々はスッキリする。もう少しの辛抱ではないか。
だが、それがどの程度の日本経済の打撃になるのか、懸念はされる。だが、中国人と付き合うにはよほどの覚悟が必要だということを、理解せずやってきた日本人には当然の報いではなかろうか。ビジネスは自己責任なのだ。
この中国のダイナミズムに比べて、日本の社会は死んだかのようだ。旧態依然、世界は進化しているが日本はそれに追いついていない。
先週末には“みずほ”経営陣の馘首が伝えられた。旧態依然のアホな経営が祟ったようだ。このAIの時代に、コストダウンだと言ってシステム関係の従業員を60%に削ったという。しかもそのシステム部門のトップに人事担当者を就けたという。その後システム・トラブルが相次ぐのは当然の結果だろう。システム・トラブルが常態化しそれを問題と見るならば、人事強化し人員を増やし、そのトップには外部から専門の優秀人材を引き抜いてでも獲得するのが通例ではないのか。
“みずほ”は3行合併し、リーテル事業を重点化するはずだった。ところが経営陣トップは大企業相手だった興銀出身だったという。今世紀になって大企業は既に資金調達で銀行を相手にしなくなっていて、市場から直接調達するのが主流になっている。だから銀行は個人富裕層を相手とするリーテルへ特化するはずだったのだ。だからトップの出身は興銀でもリーテルを知っていて理解があれば問題ないのだが、果たして・・・そのトップは“お勉強”していたのか。アホな時代遅れでは問題外なのだ。
アホアホは元首相のオボッチャン・アホアホばかりではなく、アホノミクスに毒された財界にも十分浸透しているのか。
AIを専門にしている大学の先生が言っていたが、AIを使えばあらゆるビジネス機会があるはずだが、そういうチャレンジングな話が全く持ち込まれないので、呆れている由。日本社会は停滞しているのだ。若い人も新たな発想の芽を摘まれ、夢を抱く余裕なく人生に疲れてしまっているのだろうか。
日本がas No.1だった全盛期80年代の華やかな昔の気分のままで、今も居るのは御門違い、アナクロと思って間違いない。“お勉強”をサボってばかりで、今や日本は開発後進国なのだ。
さて、今週は読後感想に戻って、ひろさちやのいきいき人生シリーズの“密教にまなぶ”を紹介したい。ここ当分は“ひろさちや”本の紹介となろう。
密教とは何か。改めて問われると戸惑うばかり。昨年は色々読んだつもりだったが、アホな話、結局は分からずじまい。阿字観とか、実際に修行しなければ分からない!そんなものかと愕然とし、諦めていたが、道元を解説してくれた、“ひろさちや”氏ならば教えてくれるだろうと読んだのがこの本だ。いわばリベンジの読書。そしてこの本を読み始めて仰天したのは、“まえがき” に次のように書いていたことだ。
“わたしは密教を―仏のまねをして生きる教え―と定義しています。”と簡単に言い放っている。これは、仏教は“仏(目覚めた人:Buddhaブッダ:仏陀)になるための教え”であり、“わたしたちはその「仏の教え」を学んで、わたしたち自身が「仏になること」を目指す”、“それが仏教の基本”であるが、“われわれ自身が仏になることはなかなか大変”であり、“ものすごい修行が必要”で、普通は“最低でも56億7千万年はかかる”。だが“まねをするだけであれば、あんがい簡単にできそう”。とにかく“とことんまねる”。“では、わたしたちはどのように仏のまねをすればよいのか”を本書で論じたと言っている。それを実生活でいかに仏のまねをするのかを書いた“ちょっと毛色の変わった―密教応用学―”であるとも言っている。それが“秘密の密教の本質?”とばかりに引き込まれてしまう。“密教というのは、簡単にいって―秘密仏教―”なのだが・・・。
改めて出版社による紹介文と本の構成・目次は次の通り。
“人生を見直すシリーズ4作目の本書は、仏の〈まね〉をし、平等なマンダラ世界に没入する密教の教えから、のんびり・ゆったりの生き方や、すべてを仏にまかせる〈大欲〉の生き方を推奨する。”
ここでは言われていないが、“大欲は無欲に通じる”とは良く聞く台詞だ。そんなものかと何となく納得できるので、これ以上はここでは特に触れない。
目次
1 密教とは何か?(小乗仏教・大乗仏教・密教;仏のまねをする密教;マンダラ大宇宙)
2 密教をどう生きるか?(あなたは仏の子ども;のんびり・ゆったりと;目盛りのない物差し;密教は自力か?他力か?;印相とほとけ顔;愛語を語ろう;大欲・大楽)
著者は密教の“秘密の謎”について、最初に明かしてくれている。それはむしろ“仏は堂々と、あっけらかんと(教えを)語って”いるが、“わたしたちに仏の言葉を理解する能力がないもので”それで秘密になっているのだ、という。
その“仏の言葉を理解する”ための修得法には、母語のと外国語の修得法があるが、“密教の学び方は母語の学び方”だという。親や周囲の人の言葉をまねて、学び、修得する方法である。
普通は、“釈迦は真理を悟り、その悟った真理をわたしたちに教えてくれた”と理解しており、それは小乗仏教の立場だが、実はそれは誤解で、“釈迦は「(真理を)悟った」のではなしに「(真理に)目覚めた」”のだ。その目覚めたことを言葉では説明できない。それは一杯の水を飲んでおいしいと感じた時の本当のおいしさを、言葉で伝えられないのと同じことなのだ、という。その水を飲んでおいしいと感じるためには、水を飲んでみないと分からない。
事実、“釈迦は悟りの境地に達したとき、伝道をためらっている”という。その“境地を言葉でもって伝えることはできない―と考えた”に違いない。そして、ほぼ1カ月の間“真理の世界を言語化せず、その中に浸っている状態:真理の中に溶け込んでいる(状態)”にあった。それを法悦というのであろうか。―自受法楽―法とは真理のこと。それは“小乗仏教の経典によって確かめることができる”という。
だがその後、釈迦は伝道に踏み切った。それは水のおいしさは伝えられないが、その水の飲み方は教えられると考えたからだというのだ。真理の世界に達するための古道・古径つまり道筋を教えようとした、とのこと。
その伝道の過程で、釈迦の話を直接聞けた直弟子は“シュラ―ヴァカ・声聞(しょうもん)”と呼ばれ、尊重された。その内、出家者が“声聞”と呼ばれるようになり、出家至上主義に発展したという。それが小乗仏教。
だが、それでは衆生(一般大衆)皆を救えない。そこで、菩薩(ぼさつ・ボーディサットヴァ)の精神が小乗仏教への対抗概念として、登場してきたという。“仏道を歩んでいる人は誰でも菩薩であって、出家・在家を問わない”、それが大乗仏教となった。
そして法然の“念仏ができるように生きたらよい”となり、“ただ仏教的に生きることができればよい”になり肉食妻帯に発展して行く。(そこまではこの本には書いてないが・・・。)
釈迦は優等生意識(出家至上主義)を嫌い、中道の精神を説いた(孔子も「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と中庸を説いた。)“ゆっくりと仏に向かって歩む”ことを尊んだ。“この大乗仏教の考え方をもう一歩進めたのが密教”であるという。これを“方便の思想”と呼ぶ。
密教は“悟りを求める・得たいと願う心”を出発点とし、大悲・慈悲心・利他の心を持って、“方便”を究境(くぎょう)つまり究極・無上・絶対とする、という。この“方便”はサンスクリット語の“ウーパヤ”であり、“近付く”という意味。仏道は“悟りを得ること、そして仏になることを目標”にしているが、達成するには“無限といってよいほどの時間がかかる”。しかし、ゆっくりでも“歩むことが絶対”であり、“その歩み続ける姿勢のうちに、いわば仏がある”のだ。“これが密教の考え方”だという。ここでいう“方便”は“便宜的な手段”ではなく、“結果第一主義”ではないのだ。
“結果第一主義”では人生は“一切皆苦”(人生のすべては苦)なので、いつまでたっても苦を失くすことはできない。なので“じっくりと苦を味わいながら生きるべき”だというのだ。
話はここまではよく分かる。ここから“法身仏と色身仏”の話になり、宇宙仏、廬舎那仏へと話が極端に大きくなる。この非日常性が私の理解を手の届かないところに持って行ってしまう感がある。これは、著者のせいだとは直ちには言えないように思う。否、私の理解力のせいであろうか。
真理には何としても、普遍性がついてまわる。そのせいであろうか。
“色身仏”は“肉体を持った仏”のことであり、“インドの地に歴史的に実在した仏”つまり釈迦そのもののことであろうか。“それに対し「法身仏」とは「法(教え)そのものを身体とした仏」の意味で、時間と空間の上には存在しない、時間と空間を超越した仏”であるとする。“実在しない”と言うから分かり難くなる。端的に言えば、観念としての“仏”であり“真理”であろうか。従い、人間が勝手に作りだした“神”と言える。
そこから、「法身仏」は宇宙仏・廬舎那仏・大日如来へと変化して行くのである。“真理”であるから、普遍性がついてまわるのであり、久遠実成の宇宙仏となるのであろう。そこから“宇宙全体がこの仏の身体だといってもよい”にまで発展するとますます分からなくなる。
そして久遠実成の宇宙仏は釈迦に“わざわざ人間のすがたをとってこの世に出現してくださったと信ずべき”、といきなり言われると、これまた混乱するのだ。確かに“キリスト教徒が、神の子であるイエスが人間の姿をとって地上に現れたと信ずるのと同じ”と言われると、そうなのか、と思ってしまう。仏教もキリスト教と似たように考えるのかと。
そういった“御伽噺”を前提に“論理”が展開して行く。そうなるとついて行けない。この辺が、どうやら私の理解の障害になっているのだ。
こうした宇宙仏の宇宙に“身を任せる”、“飛び込んで行く”、それが“仏になる前提である”となると、もう頭の中のイメージの世界。そこに神秘の世界があるのか。“お話”は理解を超えるのだ。私にはその“想像力”はない。修行が足りないのか。だが今のこの私には修行はできない。
このあたりになると、私には道元の―心身脱落―の方が分かり易いような気がする。著者はそれを紹介してくれている。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(『正法眼蔵』現成公案)
―悟りの世界に目覚めさせられるということは、自己および他己(他なる自己。すなわち自己の内にある他人)を脱落させることである。
著者は言う。“道元の考え方はすごく密教的です。ここでも道元は、仏道を学ぶということは、大きな悟りの世界の中に自己を溶け込ませることだと言っています。”
身心脱落とは、“あらゆる自己意識を捨ててしまうこと”だという。何だか、近付きやすいではないか。
要するに今一“密教”について行けていないのだ。このあたりでこの本の分量の3分の1にも至っていない。そこでギブアップか?ザンネン!
とは言え、著者の分かり易い表現は、その不理解を超えてそのまま引き続いて読めてしまう。理解できまいが、出来ようがお構いなしに、字面をよめてしまう。マジックだ。だからひろさちや氏の本は止められない。
引き続く密教の心の説明。ブッダをまねれば、それがすなわちブッダなのだ、と冒頭の説明がここに登場する。
“私たちは毎朝目を覚まします。それは、ある意味では、毎朝、ブッダになるのです。そしてそうであれば、その一日をブッダらしく生きればよい。ブッダのまねをして生きればよいではないか。”分かったような気にさせてくれる。
その先は、どのようにまねるか、の方法論。そして曼荼羅の世界の説明となっている。印相の説明もある。
面白いのは、“密教は自力か?他力か?”である。
密教には三力があるという。自力の功徳力(行者自身が功徳を積むことで得られる力)、他力の加持力(大日如来が慈悲によって衆生を守護する力)と法界力(マンダラ大宇宙の力:功徳を積むと、大日如来は勿論、全世界からの無形の力が加わる)がある。したがって、密教に自力か?他力か?問うことはおかしい、と言っている。
これ以上はこの本の全てを説明するのは余計なことだろう。余裕もないので、ここらで終わりたい。
それに、中国政府要人は愛人の数と質を競い合っているという噂もある。だから彼らにとって有名人女性は狙い目。これでは中国の女性の人権は既に滅茶苦茶。SDGsどころではない。どうしてそれが世界的な議論の対象にはならないのか。現に米国は米国在住の中国政府要人の愛人の動向を把握していて、いざとなれば人質にする計画もあり、現実に中国政府を脅迫する材料に使った実績もあるようだ。
現習政権の権力強化はどこまで続くのか。一旦始めたら、もう止められないという。止めれば反対派に逆襲される。何故ならば、反対派は既に追い詰められているからだ、という。止められない地獄なのだ。
“共同富裕”も反対派を追い詰めるためのもの。これで有力民営企業はほとんどが国営企業化されるか、国営企業に買収され、確実な共産党指導下に置かれるだろうとの予測もある。“社会主義市場経済”はどこまで社会主義化するのか。いずれにせよ、自由主義経済は中国では死ぬ運命にあるようだ。アリババの経営者は経営権を剥脱された。恒大も同じ運命と思われる。成功した民間企業はいずれも国営企業化するだろうと思われているのだ。
だがそれは、活力ある“市場経済”の死を意味することが、共産党首脳には理解されていないのではないか。活力ある“市場経済”の死は中国のこれまでの経済発展を急速に衰えさせるであろう。それは中国の国力を急速に削ぎ落すことになるはずだ。
そうなれば、中国の国際的横暴は終わり、我々はスッキリする。もう少しの辛抱ではないか。
だが、それがどの程度の日本経済の打撃になるのか、懸念はされる。だが、中国人と付き合うにはよほどの覚悟が必要だということを、理解せずやってきた日本人には当然の報いではなかろうか。ビジネスは自己責任なのだ。
この中国のダイナミズムに比べて、日本の社会は死んだかのようだ。旧態依然、世界は進化しているが日本はそれに追いついていない。
先週末には“みずほ”経営陣の馘首が伝えられた。旧態依然のアホな経営が祟ったようだ。このAIの時代に、コストダウンだと言ってシステム関係の従業員を60%に削ったという。しかもそのシステム部門のトップに人事担当者を就けたという。その後システム・トラブルが相次ぐのは当然の結果だろう。システム・トラブルが常態化しそれを問題と見るならば、人事強化し人員を増やし、そのトップには外部から専門の優秀人材を引き抜いてでも獲得するのが通例ではないのか。
“みずほ”は3行合併し、リーテル事業を重点化するはずだった。ところが経営陣トップは大企業相手だった興銀出身だったという。今世紀になって大企業は既に資金調達で銀行を相手にしなくなっていて、市場から直接調達するのが主流になっている。だから銀行は個人富裕層を相手とするリーテルへ特化するはずだったのだ。だからトップの出身は興銀でもリーテルを知っていて理解があれば問題ないのだが、果たして・・・そのトップは“お勉強”していたのか。アホな時代遅れでは問題外なのだ。
アホアホは元首相のオボッチャン・アホアホばかりではなく、アホノミクスに毒された財界にも十分浸透しているのか。
AIを専門にしている大学の先生が言っていたが、AIを使えばあらゆるビジネス機会があるはずだが、そういうチャレンジングな話が全く持ち込まれないので、呆れている由。日本社会は停滞しているのだ。若い人も新たな発想の芽を摘まれ、夢を抱く余裕なく人生に疲れてしまっているのだろうか。
日本がas No.1だった全盛期80年代の華やかな昔の気分のままで、今も居るのは御門違い、アナクロと思って間違いない。“お勉強”をサボってばかりで、今や日本は開発後進国なのだ。
さて、今週は読後感想に戻って、ひろさちやのいきいき人生シリーズの“密教にまなぶ”を紹介したい。ここ当分は“ひろさちや”本の紹介となろう。
密教とは何か。改めて問われると戸惑うばかり。昨年は色々読んだつもりだったが、アホな話、結局は分からずじまい。阿字観とか、実際に修行しなければ分からない!そんなものかと愕然とし、諦めていたが、道元を解説してくれた、“ひろさちや”氏ならば教えてくれるだろうと読んだのがこの本だ。いわばリベンジの読書。そしてこの本を読み始めて仰天したのは、“まえがき” に次のように書いていたことだ。
“わたしは密教を―仏のまねをして生きる教え―と定義しています。”と簡単に言い放っている。これは、仏教は“仏(目覚めた人:Buddhaブッダ:仏陀)になるための教え”であり、“わたしたちはその「仏の教え」を学んで、わたしたち自身が「仏になること」を目指す”、“それが仏教の基本”であるが、“われわれ自身が仏になることはなかなか大変”であり、“ものすごい修行が必要”で、普通は“最低でも56億7千万年はかかる”。だが“まねをするだけであれば、あんがい簡単にできそう”。とにかく“とことんまねる”。“では、わたしたちはどのように仏のまねをすればよいのか”を本書で論じたと言っている。それを実生活でいかに仏のまねをするのかを書いた“ちょっと毛色の変わった―密教応用学―”であるとも言っている。それが“秘密の密教の本質?”とばかりに引き込まれてしまう。“密教というのは、簡単にいって―秘密仏教―”なのだが・・・。
改めて出版社による紹介文と本の構成・目次は次の通り。
“人生を見直すシリーズ4作目の本書は、仏の〈まね〉をし、平等なマンダラ世界に没入する密教の教えから、のんびり・ゆったりの生き方や、すべてを仏にまかせる〈大欲〉の生き方を推奨する。”
ここでは言われていないが、“大欲は無欲に通じる”とは良く聞く台詞だ。そんなものかと何となく納得できるので、これ以上はここでは特に触れない。
目次
1 密教とは何か?(小乗仏教・大乗仏教・密教;仏のまねをする密教;マンダラ大宇宙)
2 密教をどう生きるか?(あなたは仏の子ども;のんびり・ゆったりと;目盛りのない物差し;密教は自力か?他力か?;印相とほとけ顔;愛語を語ろう;大欲・大楽)
著者は密教の“秘密の謎”について、最初に明かしてくれている。それはむしろ“仏は堂々と、あっけらかんと(教えを)語って”いるが、“わたしたちに仏の言葉を理解する能力がないもので”それで秘密になっているのだ、という。
その“仏の言葉を理解する”ための修得法には、母語のと外国語の修得法があるが、“密教の学び方は母語の学び方”だという。親や周囲の人の言葉をまねて、学び、修得する方法である。
普通は、“釈迦は真理を悟り、その悟った真理をわたしたちに教えてくれた”と理解しており、それは小乗仏教の立場だが、実はそれは誤解で、“釈迦は「(真理を)悟った」のではなしに「(真理に)目覚めた」”のだ。その目覚めたことを言葉では説明できない。それは一杯の水を飲んでおいしいと感じた時の本当のおいしさを、言葉で伝えられないのと同じことなのだ、という。その水を飲んでおいしいと感じるためには、水を飲んでみないと分からない。
事実、“釈迦は悟りの境地に達したとき、伝道をためらっている”という。その“境地を言葉でもって伝えることはできない―と考えた”に違いない。そして、ほぼ1カ月の間“真理の世界を言語化せず、その中に浸っている状態:真理の中に溶け込んでいる(状態)”にあった。それを法悦というのであろうか。―自受法楽―法とは真理のこと。それは“小乗仏教の経典によって確かめることができる”という。
だがその後、釈迦は伝道に踏み切った。それは水のおいしさは伝えられないが、その水の飲み方は教えられると考えたからだというのだ。真理の世界に達するための古道・古径つまり道筋を教えようとした、とのこと。
その伝道の過程で、釈迦の話を直接聞けた直弟子は“シュラ―ヴァカ・声聞(しょうもん)”と呼ばれ、尊重された。その内、出家者が“声聞”と呼ばれるようになり、出家至上主義に発展したという。それが小乗仏教。
だが、それでは衆生(一般大衆)皆を救えない。そこで、菩薩(ぼさつ・ボーディサットヴァ)の精神が小乗仏教への対抗概念として、登場してきたという。“仏道を歩んでいる人は誰でも菩薩であって、出家・在家を問わない”、それが大乗仏教となった。
そして法然の“念仏ができるように生きたらよい”となり、“ただ仏教的に生きることができればよい”になり肉食妻帯に発展して行く。(そこまではこの本には書いてないが・・・。)
釈迦は優等生意識(出家至上主義)を嫌い、中道の精神を説いた(孔子も「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と中庸を説いた。)“ゆっくりと仏に向かって歩む”ことを尊んだ。“この大乗仏教の考え方をもう一歩進めたのが密教”であるという。これを“方便の思想”と呼ぶ。
密教は“悟りを求める・得たいと願う心”を出発点とし、大悲・慈悲心・利他の心を持って、“方便”を究境(くぎょう)つまり究極・無上・絶対とする、という。この“方便”はサンスクリット語の“ウーパヤ”であり、“近付く”という意味。仏道は“悟りを得ること、そして仏になることを目標”にしているが、達成するには“無限といってよいほどの時間がかかる”。しかし、ゆっくりでも“歩むことが絶対”であり、“その歩み続ける姿勢のうちに、いわば仏がある”のだ。“これが密教の考え方”だという。ここでいう“方便”は“便宜的な手段”ではなく、“結果第一主義”ではないのだ。
“結果第一主義”では人生は“一切皆苦”(人生のすべては苦)なので、いつまでたっても苦を失くすことはできない。なので“じっくりと苦を味わいながら生きるべき”だというのだ。
話はここまではよく分かる。ここから“法身仏と色身仏”の話になり、宇宙仏、廬舎那仏へと話が極端に大きくなる。この非日常性が私の理解を手の届かないところに持って行ってしまう感がある。これは、著者のせいだとは直ちには言えないように思う。否、私の理解力のせいであろうか。
真理には何としても、普遍性がついてまわる。そのせいであろうか。
“色身仏”は“肉体を持った仏”のことであり、“インドの地に歴史的に実在した仏”つまり釈迦そのもののことであろうか。“それに対し「法身仏」とは「法(教え)そのものを身体とした仏」の意味で、時間と空間の上には存在しない、時間と空間を超越した仏”であるとする。“実在しない”と言うから分かり難くなる。端的に言えば、観念としての“仏”であり“真理”であろうか。従い、人間が勝手に作りだした“神”と言える。
そこから、「法身仏」は宇宙仏・廬舎那仏・大日如来へと変化して行くのである。“真理”であるから、普遍性がついてまわるのであり、久遠実成の宇宙仏となるのであろう。そこから“宇宙全体がこの仏の身体だといってもよい”にまで発展するとますます分からなくなる。
そして久遠実成の宇宙仏は釈迦に“わざわざ人間のすがたをとってこの世に出現してくださったと信ずべき”、といきなり言われると、これまた混乱するのだ。確かに“キリスト教徒が、神の子であるイエスが人間の姿をとって地上に現れたと信ずるのと同じ”と言われると、そうなのか、と思ってしまう。仏教もキリスト教と似たように考えるのかと。
そういった“御伽噺”を前提に“論理”が展開して行く。そうなるとついて行けない。この辺が、どうやら私の理解の障害になっているのだ。
こうした宇宙仏の宇宙に“身を任せる”、“飛び込んで行く”、それが“仏になる前提である”となると、もう頭の中のイメージの世界。そこに神秘の世界があるのか。“お話”は理解を超えるのだ。私にはその“想像力”はない。修行が足りないのか。だが今のこの私には修行はできない。
このあたりになると、私には道元の―心身脱落―の方が分かり易いような気がする。著者はそれを紹介してくれている。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(『正法眼蔵』現成公案)
―悟りの世界に目覚めさせられるということは、自己および他己(他なる自己。すなわち自己の内にある他人)を脱落させることである。
著者は言う。“道元の考え方はすごく密教的です。ここでも道元は、仏道を学ぶということは、大きな悟りの世界の中に自己を溶け込ませることだと言っています。”
身心脱落とは、“あらゆる自己意識を捨ててしまうこと”だという。何だか、近付きやすいではないか。
要するに今一“密教”について行けていないのだ。このあたりでこの本の分量の3分の1にも至っていない。そこでギブアップか?ザンネン!
とは言え、著者の分かり易い表現は、その不理解を超えてそのまま引き続いて読めてしまう。理解できまいが、出来ようがお構いなしに、字面をよめてしまう。マジックだ。だからひろさちや氏の本は止められない。
引き続く密教の心の説明。ブッダをまねれば、それがすなわちブッダなのだ、と冒頭の説明がここに登場する。
“私たちは毎朝目を覚まします。それは、ある意味では、毎朝、ブッダになるのです。そしてそうであれば、その一日をブッダらしく生きればよい。ブッダのまねをして生きればよいではないか。”分かったような気にさせてくれる。
その先は、どのようにまねるか、の方法論。そして曼荼羅の世界の説明となっている。印相の説明もある。
面白いのは、“密教は自力か?他力か?”である。
密教には三力があるという。自力の功徳力(行者自身が功徳を積むことで得られる力)、他力の加持力(大日如来が慈悲によって衆生を守護する力)と法界力(マンダラ大宇宙の力:功徳を積むと、大日如来は勿論、全世界からの無形の力が加わる)がある。したがって、密教に自力か?他力か?問うことはおかしい、と言っている。
これ以上はこの本の全てを説明するのは余計なことだろう。余裕もないので、ここらで終わりたい。
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