The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
永観堂の紅葉の中の拝観
選挙も終わって、政治ニュースもセコイ話ばかりだ。例えば、国会議員報酬の中に、文書交通費があって、たった1日の国会召集に応じただけで100万円支給で大騒ぎだ。前職は当然として、新人や元職が不当だとの騒ぎだ。
議員の年間報酬は2~3千万円だという。真面目な活動をしている新人議員にとってはギリギリ赤字だという。古参議員は築き上げた人脈による献金で食っていけるらしい。人脈=利権だろう。なので古参議員は余裕があるから、余計に文書交通費の無条件支給は有難いというのが真相のようだ。
政治献金の少ない、特に新米議員がギリギリ赤字だというのは、どうやら選挙民の政治家へのタカリ体質に原因があるようだ。そういえば、あの“サクラを見る会”の問題の真因はそれではないかと思える。それが何だかセコイ話につながるのではないのか。要は、日本人の政治意識の後進性に大いに問題があるのではないかと、思われるのだ。これは実に情けないことではないか。
まぁこのままでは、やっぱり日本は後進国に転落したことが明確に意識されなければ、気付かない深刻な問題なのかもしれない。このまま転落して日本の貧民が中国に出稼ぎに出る日もやってくるのかも知れない。その時では遅いのだけれども。
政府の経済対策の規模が財政支出ベースで55.7兆円になり、その規模は、これまでは2020年4月に決定した緊急経済対策の48.4兆円を大きく上回り過去最大となる、との報道だ。
その財源が心配との声もあるが、どうやらその懸念は全く及ばない。実は笑止千万の内容らしい。菅政権で消化不良の30兆円を振り向けたものだという。そのように殆どが、予算費目の看板の付け替えだという。セコイ話ではないか。
東京の都議選中に無免許運転で人身事故を起こしていた女性都議の振舞が、全国ニュースになっている。そんな重大ニュースだろうか。その内容は確かに悪いことだか、あれほど何度も全国版で流すべき報道だろうか。タタキヤスイ人物を徹底的にたたく。なんだかイジメの精神構造と同根の臭いのような気がする。ここにも、セコイ報道の在り方が気になる。
そうだ!こんなセコイ話ばかりではなかった!COP26では、石炭火力発電について、“当初の合意文書案に含まれていた「段階的に廃止」から、「段階的削減」という表現にとどまった”として残念がる人々が多い。どうしてそんなに石炭火力を目の敵にするのか。その性急な発想はバランスを欠いていないか疑問なのだ。その性急な発想が良識の世界を一方的に覆っていることに懸念を強く感じるのだ。
再生可能エネルギーが一気に大量の電力を生まず、下手するとコストと手間がかかるエネルギー源なので、原子力以外の電源となると、当面は石炭火力であろう。ところが、それがダメだというのだ。じゃぁどうするのか?再生可能エネルギーの活用だと強弁する。
だが、わたしは溜池にぎっしり並べられたソーラーパネルが生態系を破壊している事実を見た。風力発電の風車が台風で根元から倒れている報道を見た。また発電に際して低騒音を発する事実もあるようだ。地熱発電が熱交換のためのパイプを短期間で詰まらせ、そのパイプが詰まらないようにメンテナンスする手間が膨大であることも聞いている。
私は、日本で最適の再生可能エネルギーは潮流発電だろうと思うのだが、これに熱は上がっていない。それは開発には多くの困難があるとある大手メーカーで聞いた。再生可能エネルギーを採算ベースに乗せる開発は容易ではない障害が多々あるのだ。再生可能エネルギーは日本の現状では使い難いエネルギーなのだ。
だが一方では、現代文明は電力を必須のエネルギーにした。“健康で文化的な最低限度の生活”を営むには電力は不可欠になっている。だが世界には電力を当たり前のように使えない人々も多数いる。そういう人々には、ある面石炭火力は手っ取り早いエネルギー源なのだ。ちょっと待て!それを使うな!と言える権利が誰にあるのだろうか。
さらに一方ではSDGsとか言って、“誰一人として、置き去りにしない”などとのスローガンを当たり前のように唱えている。こんな矛盾を抱えたまま、良い人ぶってどうするのか。御自分だけ現代文明の恩恵にあずかりながら、“未だに石炭火力に加担する企業には、即刻投融資を中止せよ!!”などという正義感はいかがなものか、と感じるのだ。
同じような印象を“予防原則”という発想に、私は危惧を持って感じるのだ。私は科学を金科玉条には考えていないが、そこまで科学的発想をないがしろにしていいのだろうか。特に、科学的発想をないがしろにしている日本においてでは・・・。
さて、先週末は珍しくシーズンの紅葉を急に見に行きたくなり永観堂に赴いた。例によって、午後の京都での研修に合わせて午前に行ったのだ。“秋はもみじの永観堂”と言われるという。永観堂は通称で、正式には聖衆来迎山禅林寺という由。臨終に際しては、ここへ聖衆来迎されるのであろうか。ならばここで死ぬのが良いことになる。
実は、ここへは人に誘われて15年前にも連れられて来ていたが、細かいことは何故かほとんど覚えていない。連れられて来たので、覚えていないのだろう。かすかに水琴窟と勅使門のある庭くらいしか覚えていない。
水琴窟というものがあるのは、その時初めて知ったのだった。その後は、京都ではいろいろな場所で見ている。府立植物園にしつらえられているのには驚いたものだった。
Wikipediaによれば、永観堂の創建・来歴は次の通り。
空海(弘法大師)の高弟である真紹僧都が、都における真言宗の道場の建立を志し、毘盧遮那仏と四方四仏を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は853年(仁寿3年)、歌人・文人であった故・藤原関雄の山荘を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の863年(貞観5年)、清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。
当初真言宗の道場として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の永観(ようかん:呉音読み)律師(1033年~1111年)の時に念仏の寺へと変化を遂げる。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。
禅林寺12世の静遍僧都(1166年~1224年)は、もと真言宗の僧で、当初は法然を批判していたが後に法然に帰依して念仏門に入った。法然は禅林寺に住したことはないが、静遍は禅林寺11世を法然に譲り、自らは12世を称した。法然の高弟の証空(西山上人)も、静遍の後を嗣いで当寺に住持したと伝えられている。証空の門弟の浄音の時代に、禅林寺は浄土宗西山派(小坂流)の有力寺院となり、浄音が興した西谷(せいこく)流の拠点の一つとして光明寺とともに栄えた。
応仁の乱の戦火によって大きな被害を受けるが、1497年(明応6年)に後土御門天皇により再興をするようにとの命が出て、復興に着手された。1607年(慶長12年)には豊臣秀頼により、摂津国四天王寺の曼荼羅堂が移築されて阿弥陀堂とされている。
電車に乗って、神戸を離れてから愛用のコンパクトカメラを忘れたのに気付く。携帯も最近電池劣化で長持ちしない。カメラがなければ行っても、意味なし。そうだこの夏、支給されたタブレットがあった!!
例によって阪急・四条河原町から向かおうと、当初はタクシーにすることを考えたが、結局は市バスで向かうことにした。乗り換え時刻ソフトで、B乗り場とあったが、方向は真反対なので市バスのホームページで調べ直し、正しくはH乗り場と判明。これは四条河原町からは最も遠い。
実際に10時半に行って見ると、結構観光客の列がある。予定の10:37発のバスが“直ぐ来る”とのポケロケ表示があったが、定刻5分近く越えても中々来ない。やっと来たと思ったら、“満員で後から来るバスに乗れ” とのこと。コロナ禍が下火になって、京都観光も戻ってきている。しかも、中国人はいない!と思ったら、中国語らしい言葉が聞こえて来て驚く。
こうしてバス2台を見送って、程なくようやくお目当ての5系統のバスに乗れる。
バス停を下りて交差点を東へ歩いて、10分弱。永観堂総門に到着。手指消毒で体温計測は珍しい。境内中からは、赤い紅葉がちらほら見える。中門内、三々五々、人々はカメラを構えて紅葉の撮影。
履物を持って建物に入るポリ袋がわたされる。袋をくれた女性に写真撮影可か尋ねたら、ビックリしておどおど。庭は良いだろう?というと頷く。カメラとしては大きいタブレットを手に持つとシンドイ、メンドクサイ。
玄関に入って古方丈の庭に面したガラス戸で以前の記憶が一部戻った。昔のガラスで向こうが少し歪んで見える値打ちものだったのを思い出す。それから勅使門での紅葉も思い出す。
それから水琴窟。音を確認したが、かすかにしか聞こえない。他の水琴窟はこれほどに聞こえないものではなかった。
紅葉はやはり、自然の赤。だから嫌味がなく、すがすがしさがある。満開の桜とは違い、色の濃淡があり、場合によっては緑が混じる。色の対比やグラデュエーション等、色彩変化が面白い。
大玄関から古方丈、釈迦堂、御影堂、水琴窟、阿弥陀堂の順で拝観。各、建物内に書画、仏像が展示されているが、紅葉に気が行ってしまう。まぁ仕方ない。
最後の阿弥陀堂だったと思うが、本尊として「みかえり阿弥陀」が安置されている。これは前回見た記憶は何故か全くない。阿弥陀様が右側に振り返ったところに、窓が設けられていて、御尊顔、否御姿全体がが拝めるようになっている。正面からみるより、この脇から拝見するのがよい。
この「みかえり阿弥陀」は先のWikipediaによれば、次の通り。
禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については次のような伝承がある。1082年(永保2年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。
この「みかえり阿弥陀」は、頭部を左(向かって右)に向けた特異な姿の像である。像高77.6センチと、三尺像形式の中では小さい方である。作風、構造等の特色から、平安時代末期、12世紀後半の作と見るのが妥当である。左方を向くという特殊な姿勢によって、像体の正面から見るとほとんど真横を向いてしまうため、頭部右側をやや大きく、左側を小さくする事で頭部の印象が損なわれないよう工夫を払っている。この種の「みかえり阿弥陀」の作例は、日本では本像が最も古いが、中国には北宋時代に遡る例があり(四川省安岳円覚洞16号窟)、鎌倉時代以降には山形県堂森善光寺像など若干の作例が知られている。また本像は予め知らないと気づかないほど僅かだが、左足膝を軽く曲げ足先も少し前へ踏み出した歩行の所作をしており、初期の阿弥陀行像としても重要である。これらの「見返り」と「歩行」の動作は、来迎時に浄土へ戻る際、往生者を見守るために振り返るのだと考えられる。1999年、重要文化財に指定。
阿弥陀堂を出れば、いよいよお庭拝見。方生池(ほうじょういけ)は藤原関雄の山荘だった名残であろうか。この御池に出るまで下り坂で、遠景に20m以上はあろうかとおもえる銀杏の木が見えた。それだけが全体黄色く色付いていた。
池之端にいたり、池の向こうの遠景がすぐそばの東山連峰となっていて、多宝塔をはじめ伽藍が見えて程よい眺めだった。
拝観後は市バスで四条河原町経由、四条高倉下車。烏丸の大丸横の一休庵で山掛け蕎麦で昼食。午後の研修会に備えた。
議員の年間報酬は2~3千万円だという。真面目な活動をしている新人議員にとってはギリギリ赤字だという。古参議員は築き上げた人脈による献金で食っていけるらしい。人脈=利権だろう。なので古参議員は余裕があるから、余計に文書交通費の無条件支給は有難いというのが真相のようだ。
政治献金の少ない、特に新米議員がギリギリ赤字だというのは、どうやら選挙民の政治家へのタカリ体質に原因があるようだ。そういえば、あの“サクラを見る会”の問題の真因はそれではないかと思える。それが何だかセコイ話につながるのではないのか。要は、日本人の政治意識の後進性に大いに問題があるのではないかと、思われるのだ。これは実に情けないことではないか。
まぁこのままでは、やっぱり日本は後進国に転落したことが明確に意識されなければ、気付かない深刻な問題なのかもしれない。このまま転落して日本の貧民が中国に出稼ぎに出る日もやってくるのかも知れない。その時では遅いのだけれども。
政府の経済対策の規模が財政支出ベースで55.7兆円になり、その規模は、これまでは2020年4月に決定した緊急経済対策の48.4兆円を大きく上回り過去最大となる、との報道だ。
その財源が心配との声もあるが、どうやらその懸念は全く及ばない。実は笑止千万の内容らしい。菅政権で消化不良の30兆円を振り向けたものだという。そのように殆どが、予算費目の看板の付け替えだという。セコイ話ではないか。
東京の都議選中に無免許運転で人身事故を起こしていた女性都議の振舞が、全国ニュースになっている。そんな重大ニュースだろうか。その内容は確かに悪いことだか、あれほど何度も全国版で流すべき報道だろうか。タタキヤスイ人物を徹底的にたたく。なんだかイジメの精神構造と同根の臭いのような気がする。ここにも、セコイ報道の在り方が気になる。
そうだ!こんなセコイ話ばかりではなかった!COP26では、石炭火力発電について、“当初の合意文書案に含まれていた「段階的に廃止」から、「段階的削減」という表現にとどまった”として残念がる人々が多い。どうしてそんなに石炭火力を目の敵にするのか。その性急な発想はバランスを欠いていないか疑問なのだ。その性急な発想が良識の世界を一方的に覆っていることに懸念を強く感じるのだ。
再生可能エネルギーが一気に大量の電力を生まず、下手するとコストと手間がかかるエネルギー源なので、原子力以外の電源となると、当面は石炭火力であろう。ところが、それがダメだというのだ。じゃぁどうするのか?再生可能エネルギーの活用だと強弁する。
だが、わたしは溜池にぎっしり並べられたソーラーパネルが生態系を破壊している事実を見た。風力発電の風車が台風で根元から倒れている報道を見た。また発電に際して低騒音を発する事実もあるようだ。地熱発電が熱交換のためのパイプを短期間で詰まらせ、そのパイプが詰まらないようにメンテナンスする手間が膨大であることも聞いている。
私は、日本で最適の再生可能エネルギーは潮流発電だろうと思うのだが、これに熱は上がっていない。それは開発には多くの困難があるとある大手メーカーで聞いた。再生可能エネルギーを採算ベースに乗せる開発は容易ではない障害が多々あるのだ。再生可能エネルギーは日本の現状では使い難いエネルギーなのだ。
だが一方では、現代文明は電力を必須のエネルギーにした。“健康で文化的な最低限度の生活”を営むには電力は不可欠になっている。だが世界には電力を当たり前のように使えない人々も多数いる。そういう人々には、ある面石炭火力は手っ取り早いエネルギー源なのだ。ちょっと待て!それを使うな!と言える権利が誰にあるのだろうか。
さらに一方ではSDGsとか言って、“誰一人として、置き去りにしない”などとのスローガンを当たり前のように唱えている。こんな矛盾を抱えたまま、良い人ぶってどうするのか。御自分だけ現代文明の恩恵にあずかりながら、“未だに石炭火力に加担する企業には、即刻投融資を中止せよ!!”などという正義感はいかがなものか、と感じるのだ。
同じような印象を“予防原則”という発想に、私は危惧を持って感じるのだ。私は科学を金科玉条には考えていないが、そこまで科学的発想をないがしろにしていいのだろうか。特に、科学的発想をないがしろにしている日本においてでは・・・。
さて、先週末は珍しくシーズンの紅葉を急に見に行きたくなり永観堂に赴いた。例によって、午後の京都での研修に合わせて午前に行ったのだ。“秋はもみじの永観堂”と言われるという。永観堂は通称で、正式には聖衆来迎山禅林寺という由。臨終に際しては、ここへ聖衆来迎されるのであろうか。ならばここで死ぬのが良いことになる。
実は、ここへは人に誘われて15年前にも連れられて来ていたが、細かいことは何故かほとんど覚えていない。連れられて来たので、覚えていないのだろう。かすかに水琴窟と勅使門のある庭くらいしか覚えていない。
水琴窟というものがあるのは、その時初めて知ったのだった。その後は、京都ではいろいろな場所で見ている。府立植物園にしつらえられているのには驚いたものだった。
Wikipediaによれば、永観堂の創建・来歴は次の通り。
空海(弘法大師)の高弟である真紹僧都が、都における真言宗の道場の建立を志し、毘盧遮那仏と四方四仏を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は853年(仁寿3年)、歌人・文人であった故・藤原関雄の山荘を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の863年(貞観5年)、清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。
当初真言宗の道場として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の永観(ようかん:呉音読み)律師(1033年~1111年)の時に念仏の寺へと変化を遂げる。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。
禅林寺12世の静遍僧都(1166年~1224年)は、もと真言宗の僧で、当初は法然を批判していたが後に法然に帰依して念仏門に入った。法然は禅林寺に住したことはないが、静遍は禅林寺11世を法然に譲り、自らは12世を称した。法然の高弟の証空(西山上人)も、静遍の後を嗣いで当寺に住持したと伝えられている。証空の門弟の浄音の時代に、禅林寺は浄土宗西山派(小坂流)の有力寺院となり、浄音が興した西谷(せいこく)流の拠点の一つとして光明寺とともに栄えた。
応仁の乱の戦火によって大きな被害を受けるが、1497年(明応6年)に後土御門天皇により再興をするようにとの命が出て、復興に着手された。1607年(慶長12年)には豊臣秀頼により、摂津国四天王寺の曼荼羅堂が移築されて阿弥陀堂とされている。
電車に乗って、神戸を離れてから愛用のコンパクトカメラを忘れたのに気付く。携帯も最近電池劣化で長持ちしない。カメラがなければ行っても、意味なし。そうだこの夏、支給されたタブレットがあった!!
例によって阪急・四条河原町から向かおうと、当初はタクシーにすることを考えたが、結局は市バスで向かうことにした。乗り換え時刻ソフトで、B乗り場とあったが、方向は真反対なので市バスのホームページで調べ直し、正しくはH乗り場と判明。これは四条河原町からは最も遠い。
実際に10時半に行って見ると、結構観光客の列がある。予定の10:37発のバスが“直ぐ来る”とのポケロケ表示があったが、定刻5分近く越えても中々来ない。やっと来たと思ったら、“満員で後から来るバスに乗れ” とのこと。コロナ禍が下火になって、京都観光も戻ってきている。しかも、中国人はいない!と思ったら、中国語らしい言葉が聞こえて来て驚く。
こうしてバス2台を見送って、程なくようやくお目当ての5系統のバスに乗れる。
バス停を下りて交差点を東へ歩いて、10分弱。永観堂総門に到着。手指消毒で体温計測は珍しい。境内中からは、赤い紅葉がちらほら見える。中門内、三々五々、人々はカメラを構えて紅葉の撮影。
履物を持って建物に入るポリ袋がわたされる。袋をくれた女性に写真撮影可か尋ねたら、ビックリしておどおど。庭は良いだろう?というと頷く。カメラとしては大きいタブレットを手に持つとシンドイ、メンドクサイ。
玄関に入って古方丈の庭に面したガラス戸で以前の記憶が一部戻った。昔のガラスで向こうが少し歪んで見える値打ちものだったのを思い出す。それから勅使門での紅葉も思い出す。
それから水琴窟。音を確認したが、かすかにしか聞こえない。他の水琴窟はこれほどに聞こえないものではなかった。
紅葉はやはり、自然の赤。だから嫌味がなく、すがすがしさがある。満開の桜とは違い、色の濃淡があり、場合によっては緑が混じる。色の対比やグラデュエーション等、色彩変化が面白い。
大玄関から古方丈、釈迦堂、御影堂、水琴窟、阿弥陀堂の順で拝観。各、建物内に書画、仏像が展示されているが、紅葉に気が行ってしまう。まぁ仕方ない。
最後の阿弥陀堂だったと思うが、本尊として「みかえり阿弥陀」が安置されている。これは前回見た記憶は何故か全くない。阿弥陀様が右側に振り返ったところに、窓が設けられていて、御尊顔、否御姿全体がが拝めるようになっている。正面からみるより、この脇から拝見するのがよい。
この「みかえり阿弥陀」は先のWikipediaによれば、次の通り。
禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については次のような伝承がある。1082年(永保2年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。
この「みかえり阿弥陀」は、頭部を左(向かって右)に向けた特異な姿の像である。像高77.6センチと、三尺像形式の中では小さい方である。作風、構造等の特色から、平安時代末期、12世紀後半の作と見るのが妥当である。左方を向くという特殊な姿勢によって、像体の正面から見るとほとんど真横を向いてしまうため、頭部右側をやや大きく、左側を小さくする事で頭部の印象が損なわれないよう工夫を払っている。この種の「みかえり阿弥陀」の作例は、日本では本像が最も古いが、中国には北宋時代に遡る例があり(四川省安岳円覚洞16号窟)、鎌倉時代以降には山形県堂森善光寺像など若干の作例が知られている。また本像は予め知らないと気づかないほど僅かだが、左足膝を軽く曲げ足先も少し前へ踏み出した歩行の所作をしており、初期の阿弥陀行像としても重要である。これらの「見返り」と「歩行」の動作は、来迎時に浄土へ戻る際、往生者を見守るために振り返るのだと考えられる。1999年、重要文化財に指定。
阿弥陀堂を出れば、いよいよお庭拝見。方生池(ほうじょういけ)は藤原関雄の山荘だった名残であろうか。この御池に出るまで下り坂で、遠景に20m以上はあろうかとおもえる銀杏の木が見えた。それだけが全体黄色く色付いていた。
池之端にいたり、池の向こうの遠景がすぐそばの東山連峰となっていて、多宝塔をはじめ伽藍が見えて程よい眺めだった。
拝観後は市バスで四条河原町経由、四条高倉下車。烏丸の大丸横の一休庵で山掛け蕎麦で昼食。午後の研修会に備えた。
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