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ニュースで見る“東京”に絡む日本の問題―石原都政の負の遺産

このところ、取り上げているテーマはニュースばかりで恐縮だが、今回もニュースからとしたい。それは“東京の問題”だが、そこには日本の重大な問題が潜んでいることに気付いたから、取り上げたいのだ。上手く解決しなければ、日本の将来に大きな禍根を残す可能性が見えてきたように思うのだ。

その一つは、東京の豊洲への市場移転に際して、建物下に盛土が省略された問題だ。これまで、敷地全体に盛土して地下の汚染物質が地表に影響しないようにするとPRしていたにもかかわらず、肝心の建物の下は盛土を除去して地下空間を作っていたということが明らかになっている。しかし、この建物直下に盛土除去して空間を設けることはいつ、誰の判断で為されるようになったのかが、未だにはっきり分かっていない。私は、これまで東京の問題なので、どなろうと知ったことでは無い、と思っていたが、どうやら日本の役所の組織マネジメントのあり方が、問題として浮かび上がって来た印象だ。
先週は、都庁自身がこの問題を明らかにするべく調査した結果を報告したが、“誰がいつ決定したのか特定できなかった、と結論付ける一方、部門間での連携不足などから情報共有が行われず、都議会や都民に実態と異なる説明が続けられたと分析”したことになった、という。要するに、建築と土木、建築物の使用者となる市場部門の連携、コミュニケーションが不足していたという結論も述べられているようだ。
どうやらこうした問題に対し、都職員の“自覚”を促すなどという問題を個人レベル矮小化、曖昧にして幕引きを図ろうとする気配が少し感じられるようになってきた。小池知事の歯切れが悪くなっているのは、やはりパフォーマンスの人なので周囲の風向きを微妙に感じ取り、今後の職務のあり方とを勘案して、幕引きを画策しているのかも知れない。とにかく、個人の“自覚”に解決策を見出すようであれば、この問題は抜本的解決を見ず、今後再発もあり得るであろう。これはISOマネジメントでも厳にいましめるところである。

こうした部門間にまたがる課題は、各部門から各エキスパートをメンバーにしてプロジェクト・チームを結成してそのチームの責任者が活動の責任を取る形で進めるのが、30年以上前から日本のビジネスでは常識のはずだ。つまり組織横断的な臨時のチーム結成は、組織マネジメントの初歩的常識なのだ。しかし、報道からはそうしたプロジェクト・チーム結成の形跡がうかがえないし、そうした解説も聞かれないのは、いかにも不思議なのである。プロジェクト・チームの結成がはっきりすれば、責任の所在が明確になるので不都合だからだろうか。
逆に、プロジェクト・チームの結成無しでこんな複雑で巨大な仕事が、いたるところで齟齬を来さず結構上手くやれているのが、私には異様に映るのだが、どう思われるだろうか。私の経験では、もっとはるかに小さな仕事でも組織横断的な課題に取り組む場合は、こうしたチームによってでなければ、ニッチもサッチも行かなかったものだった。
だが、こうした疑問も日曜夕の最新のテレビ情報では、新市場整備部といった組織があり、ここで事実上決定されたようだとして、ほぼ疑問は解消されつつあるようだ。だが当時の部長は取材拒否つまり証言を拒否して沈黙とのこと。

何が言いたいのか、はっきりさせよう。これは私の憶測・妄想であることを断っておくが、豊洲建設プロジェクト・チームはしっかりした体制で実行されたのは間違いない。そして、そのチームの幹部が時の都知事の意向をそのまま受けて、或いは忖度して、建物直下に盛土除去空間を設けることにしたと考えれば、多くの状況証拠から合理的説明がつくように思うがいかがだろうか。そういう点で、石原元都知事の関与の度合いを厳密に審査する必要がある。できれば裁判にしても良い程の問題と考えるのだが、いかがだろうか。日本には裁判で過去を検証するという慣習がないので、馴染み難いと思われるが、厳密な検証は必要だろう。そういった失敗の反省とその積み重ねと他分野への敷衍化がないのが残念で、日本社会が一向に進歩しない原因なのだ。
ここに、日本人特有の“忖度”という精神構造も浮かび上がるが、これが日本人の美徳なのか悪徳なのかは直ちには分からないが、これを権力者が悪用しないための組織論や制度論が、もっと活発に議論されなければならないと思う。しかし、これを組織論・制度論の大問題として日本の経営学は取上げる動きはなさそうだ。“空気”は日本を開戦に追い込み、ついに国家・民族存亡の危機に追いやった元凶である。それにもかかわらず、日本の経営学は米国文献の翻訳と学習に多忙で、そこまで成熟しきらず、余裕もないのだろうか。こういう状況を見る時、チョッと寂しくなる印象がある。
何度も言いたい。日本には失敗の反省とその積み重ねと他分野への敷衍化がないので、間抜けな歴史修正主義がはびこって、今やいつか来た道へ突き進みそうな“空気”が蔓延しているのではないか。

さて、豊洲市場の問題は東京という一都市行政の問題で、そこに日本の組織の普遍的問題を見たが、もっと大きな問題に東京は直面している。これは、中央政府も関わる問題であり、安倍首相はむしろ積極的にかかわろうとしている。それは、東京五輪だ。
当初、東京五輪はコンパクトに開催するので、投資総額や経費は少なくて済む、と喧伝していた。7000億円程度で済むと言っていたが、先週“開催費用について、外部有識者からなる東京都の調査チームが、1次報告書を公表し、総費用が「3兆円を超す可能性がある」と指摘した。調査チームの推計だが、これまで五輪開催の総経費は示されていなかった。”という発表があった。
これについて“識者”は、当初の費用7000億円程度が独り歩きした観があるがこれは、設備建設のみの投資予算であり、IOCは申請に必要な数字として、それだけを要求しているのでザックリとした概算を出しただけのもの。本当は開催のための人件費などの経費も含めて必要で、その数字を今回は出したのであり、設備建設費の3~4倍程度になるのは当然で、その内容の大きなものは警備費が突出したのではないかと、したり顔で言って見せている。そんなものかとは思うが、聞き間違いかどうかは確たる記憶はないが招致の当初、“沈滞した暗い日本にお祭りを企画して一儲けできれば、良いではないか。”という台詞も聞こえたように思うのだ。そして、最近テレビでも、そういった声があったという人が居たので、私だけの空耳ではなかったようだ。 予算としてかさむのだが、“儲かる!”というのなら、どうぞご勝手に、いくらでもやって下さい、と言えるのだが果たして、そうなのだろうか。

安倍首相は“世界一の五輪としたい”と言っていたが、“世界一金を掛けた五輪としたい”と言いたかったのであろうか。五輪はあくまでも“東京”主催なので東京が主体で費用支出が行われるべきだと思うのだが、経費で突出する警備費は、 “国家予算だ” と先の専門家も言っていたので、“何じゃソリャぁ!” と言いたい気分になる。
社会インフラの整備が既に十分な先進国では、社会資本の充実化の投資効果が少なく、投資乗数は大きくならないので、その後の社会発展に大きくは寄与しないのだ。だから下手すると、主催者の財政赤字だけが膨らんで終わることになる懸念は大きく、最近の開催国の財政はその赤字解消に苦労する傾向にあるという。だからこそ、開催予算は膨らまないように工夫・努力するべきなのだ。

また、ここでも東京都とJOCと組織委員会さらに国の誰が予算の主導権を握り、開催責任は誰が取るのか不明のまま開催に向けて進捗している印象だ。組織委員会の森会長の“東京都の下請けでやっている訳ではない。ボランティアでやっている。”という意味不明の発言に、無責任の構造を見るのは私だけだろうか。東京側の“計画が困難”という悲鳴を引き取って、IOC等と調整するのが森会長の仕事そのものだと思うのだが、“ボランティアでやっているからそんなことはできない”と言いたいのだろうか。同氏には、どうも放漫経営を目指している雰囲気があるし、その結果の赤字の責任は国や都に被せるのが仕事と思い込んでいるようだ、と思うのは私ばかりだろうか。いい加減に甘い汁だけを吸うのを止めて、本当の仕事をしてはどうか。

赤字が大いに気懸りなので、何より私がひっかかるのは“五輪は儲かる”という当初聞かれた台詞だ。儲かるのなら、どんどんやれば日本も明るくなり結構なことではないか。少し昔“民活”という言葉があった。もし、“儲かる”というのなら五輪開催のSPC(特別目的会社)を設置し、先ずは株式を発行し、金融機関から借入れし、債券を発行して都や国の予算を当てにせず、やりくりすれば済むのではなかったか。巨額の3兆円が必要なら、貸出先が無くて困っている銀行に借りれば良い。否、こういう公共性の高い投資にはPFI*という手法があったのではないか。にもかかわらず、どうして直ぐに国家や都の財政を当てにするのか、不思議なのだ。

*PFI(Private Finance Initiative):公共施設等の建設、維持管理、運営等を民間の資金、経営能力及び技術的能力を活用して事業を起こす手法。

先の外部有識者からなる東京都の調査チームの見込みでは、入場料等の収入が5000億円と見込まれているらしい。3兆円の費用に対し5000億円の収入では、真っ赤っかである。要は、2兆5000億円の赤字が残ると見込まれているのである。ならば、既に計画段階でSPCは持続可能性なく、PFIという手法も成立しない。つまり資本金に出資する民間人もなく、金を貸してくれる金融機関もなく、債券を発行しても誰も買ってくれないことになるのだ。だから、都や国家の財政を頭から当てにしているのだ。
財政赤字の国に在って、こんな赤字プロジェクトを“世界一”にすると放漫宣言したのだ。バカの極みではないか。これを言いだしたのは、確か石原元都知事ではないか。しかも、その赤字プロジェクトの恩恵は、社会資本の充実となって東京に投下され、その他の全国民には国家的財政負担として負わされるハメになるのだ。それで、良いのか。
ここでも石原氏は日本沈没の引き金を引いている。常に、日本の国益を阻害しているのだ。この御仁、人をののしる時に使う言葉は“売国奴”だ。そういう言葉は、得てして自分自身の本質を指す言葉であることが多い、というのは実に的を得ているような気がする。

国費の浪費ばかりしているが、東北の復興はどうなったのか。九州や最近の水害復興予算は十分なのか。人口減少の中で、女性の社会進出のためのインフラ整備は十分なのか。国民一人一人を一騎当千にするための教育予算は十分と言えるのか。日々迫っている南海トラフ地震対策は十分か。それにもかかわらず東京一極集中投資をしていないか。日本に迫る冬の時代に、あたかも暢気なキリギリス国家になって無理やり浮かれて過ごそうとしていないか。その割には増税のたくらみは着々と進められ、一般国民の生活は悪くなるばかりだ。それにアベノミクスの恩恵を受けていると言う中小企業家を私は聞いたことが無い。日本の破綻は近いような気がするが、杞憂だろうか。

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