夏が戻ってきたみたいに蒸し暑い一日。おそらくはこれも台風のせいだから過ぎてしまえば涼しくもなるだろう、とは思うのですが、こうして丸一日暑さにさらされては、少々うんざりもしてきます。早く名実ともに爽やかな秋となってくれないものでしょうか。
さて、今日は1冊の本を読み終えたので、その感想でも記録しておきましょう。本の名前は「壊れる男たち 金子雅臣著(岩波新書)」です。先日、近所の古本屋さんにふらりと立ち寄った際に、なんとなく気になってもって帰ってきたものです。
その内容は、いわゆるセクハラを繰り返す男たちの実相とその問題点を著者の経験から切り出したもので、副題が「セクハラはなぜ繰り返されるのか」、帯には、「彼らは何故無自覚なのか」『「魔が差した」はウソ!』となかなか刺激的な書き方がされています。東京都で労働相談に従事する著者は、その仕事のなかで数多く出会ってきたセクハラ事件の加害者達のことばを通じて、その上っ面の言い訳の裏にある本質的な問題を探り出すことを試みています。
結局結論としては、セクハラの一因として、男の側に、女性に対する偏見と妄想というか幻想というか、通俗的かつ一方的な思い込みに起因する画一的な女性像が抜きがたく存在し、その幻想に基づいて女性の何気ないしぐさや特にメッセージがこめられているわけではない言葉を、あたかも自分に気がある、という風に誤解してしまうことにある、という風に読み取れました。また、セクハラを犯す男性は、特に相手の立場や気持ちを忖度する能力に欠け、一方的に自分の欲望を相手に投影して、相手の拒絶の態度すらも自分に都合よく解釈してしまうのだそうです。俗に、「いやよいやよも好きのうち」などという言葉がそういう男の無思慮無理解を象徴している言葉として上げられておりました。また、男性は公私の区別がとかくあいまいで、仕事中でも女性を仕事相手としてではなく、大なり小なり性的な異性として認識している、というところもある、という話もありました。
女性に対する画一的な認識、一方的な欲望の投影というのは、たとえば18禁のアニメ、コミックス、小説、ビデオ、ゲーム等、そんな内容ばかりじゃないかと思います。要するに、相手を一人の人間ではなく、一個の性的充足を得るための道具として認識しているような、ありていに言えば鬼畜なものの見方ですが、男性の18禁関連はすべからくそのような視点で一貫していると言って間違いないでしょう。著者はそういう媒体に対する評価は何も書いていないのでそのことをどう考えているのかはうかがい知れません。おそらく対象となる男性の大半が、我々の世代よりも一回り以上上の、50台以上の人たちばかりなために、そういうメディアへの依存度が低い人たちが多いのが、言及しない要因の一つになっているのではないかと想像しています。ですが、あとがきでジェンダーフリーを課題として取り上げているところを見ると、おそらくもし言葉にしたら否定的なコメントになるんじゃないか、と想像されます。私自身は、そういうメディアによって充足される妄想と現実とが明らかに異なったモノだろうと思っていたりするので、鬼畜なものを全否定しようとは思いませんが、男の側の精神面を物語る一つの指標として、その内容の変遷等には注目しておくのも無駄ではない、とは思います。特に、これから団塊の世代がリタイヤして仕事の現場からいなくなり、我々がその方々に取って代わって権力を手にするとき、きっとまだセクハラは依然大きな社会問題になっていることでしょうし、そのときはかつて児童ポルノの烙印を押された各種メディアが社会悪として抹殺されたみたいに、セクハラを助長する媒体として、これらアニメやコミックス等が焚書される日が来るかもしれません。我々としては、表現の自由という大義名分だけに頼ることなく、それらがセクハラ等人権侵害に影響しないものであることを証明するような手立てを考えないといけないのかもしれません。果たしてそんなことが可能かどうか、まずは自分の中の女性像を点検して見るのも一興かも知れませんね。
さて、今日は1冊の本を読み終えたので、その感想でも記録しておきましょう。本の名前は「壊れる男たち 金子雅臣著(岩波新書)」です。先日、近所の古本屋さんにふらりと立ち寄った際に、なんとなく気になってもって帰ってきたものです。
その内容は、いわゆるセクハラを繰り返す男たちの実相とその問題点を著者の経験から切り出したもので、副題が「セクハラはなぜ繰り返されるのか」、帯には、「彼らは何故無自覚なのか」『「魔が差した」はウソ!』となかなか刺激的な書き方がされています。東京都で労働相談に従事する著者は、その仕事のなかで数多く出会ってきたセクハラ事件の加害者達のことばを通じて、その上っ面の言い訳の裏にある本質的な問題を探り出すことを試みています。
結局結論としては、セクハラの一因として、男の側に、女性に対する偏見と妄想というか幻想というか、通俗的かつ一方的な思い込みに起因する画一的な女性像が抜きがたく存在し、その幻想に基づいて女性の何気ないしぐさや特にメッセージがこめられているわけではない言葉を、あたかも自分に気がある、という風に誤解してしまうことにある、という風に読み取れました。また、セクハラを犯す男性は、特に相手の立場や気持ちを忖度する能力に欠け、一方的に自分の欲望を相手に投影して、相手の拒絶の態度すらも自分に都合よく解釈してしまうのだそうです。俗に、「いやよいやよも好きのうち」などという言葉がそういう男の無思慮無理解を象徴している言葉として上げられておりました。また、男性は公私の区別がとかくあいまいで、仕事中でも女性を仕事相手としてではなく、大なり小なり性的な異性として認識している、というところもある、という話もありました。
女性に対する画一的な認識、一方的な欲望の投影というのは、たとえば18禁のアニメ、コミックス、小説、ビデオ、ゲーム等、そんな内容ばかりじゃないかと思います。要するに、相手を一人の人間ではなく、一個の性的充足を得るための道具として認識しているような、ありていに言えば鬼畜なものの見方ですが、男性の18禁関連はすべからくそのような視点で一貫していると言って間違いないでしょう。著者はそういう媒体に対する評価は何も書いていないのでそのことをどう考えているのかはうかがい知れません。おそらく対象となる男性の大半が、我々の世代よりも一回り以上上の、50台以上の人たちばかりなために、そういうメディアへの依存度が低い人たちが多いのが、言及しない要因の一つになっているのではないかと想像しています。ですが、あとがきでジェンダーフリーを課題として取り上げているところを見ると、おそらくもし言葉にしたら否定的なコメントになるんじゃないか、と想像されます。私自身は、そういうメディアによって充足される妄想と現実とが明らかに異なったモノだろうと思っていたりするので、鬼畜なものを全否定しようとは思いませんが、男の側の精神面を物語る一つの指標として、その内容の変遷等には注目しておくのも無駄ではない、とは思います。特に、これから団塊の世代がリタイヤして仕事の現場からいなくなり、我々がその方々に取って代わって権力を手にするとき、きっとまだセクハラは依然大きな社会問題になっていることでしょうし、そのときはかつて児童ポルノの烙印を押された各種メディアが社会悪として抹殺されたみたいに、セクハラを助長する媒体として、これらアニメやコミックス等が焚書される日が来るかもしれません。我々としては、表現の自由という大義名分だけに頼ることなく、それらがセクハラ等人権侵害に影響しないものであることを証明するような手立てを考えないといけないのかもしれません。果たしてそんなことが可能かどうか、まずは自分の中の女性像を点検して見るのも一興かも知れませんね。
