午後11時50分を少し過ぎた辺りで、榊は30秒前に見たばかりの腕時計に再び目をやった。なめらかに動く秒針がさっきと180度反対方向に向き、長針がほんの僅か、12時の方へ動いた他は何も変わりはない。文字通り一秒も休むことなく律儀に時を刻む愛用の時計であったが、今の榊にとっては、苛立ちを募らせる数多くの一つに過ぎなかった。続けて榊は、手元の通信機を取り、この一時間というもの何度繰り返したか知れない一言をまた口にした。
「何か異常はないか?」
間髪を入れず、『異常なし!』の応答が、要所に付いた部下達から返ってくる。度重なる問い合わせにも関わらず、その声音にうんざりしたような色は微塵も感じない。いや、むしろ予告の午前〇時が迫るにつれ、まるで豪雨下の堤防のように、急速に緊張の度合いを高めているようだ。上野公園は今、国立博物館を中心に、決壊寸前の厳戒態勢下に置かれていた。相手はただ一人。警視庁では怪盗二四一号と呼称する、盗みの常習犯である。だが巷間には、無味乾燥な番号よりも、愛称の方がよほど良く知られているだろう。正体不明、手口も不明。狙った獲物は一〇〇%必ず盗み出し、いずことも知れず消える怪盗。その名も夢見小僧という令名である。
夢見小僧には、確かに怪盗と呼ばれるに相応しい所行が目に付く。
まず狙ってくる獲物が、単なる金銭的価値によって計ることの難しいものが多い。確かに高級な宝石や骨董品は多いのだが、中にはなんでそんなものを? と首を傾げるような物が狙われることがある。今回もまさにそれで、歴史的価値はともかく、金銭的にはほとんど無価値に近い。中国の始皇帝陵から発掘されたという古い枕を欲しがるような好事家が、一体世界に何人いるだろう? しかもそれは、かの方士徐福が始皇帝に取り入るために献上した、邯鄲の夢枕、という怪しげな曰くつきの代物だ。中国の歴史的価値と言う点からすればそれなりに価値もありそうだが、少なくともお金に換算できるような代物ではない。
それから、必ず犯行を予告するメッセージを送りつけ、今日の上野公園のように一〇〇名を超える厳戒警備を強要するところも、怪盗の名に相応しい。しかも、絶対侵入不可能な密室にも難なく滑り込み、誰にも気づかれることなく目的の宝物を盗み出してしまうのだから、もはや言うこと無しだ。夢見小僧が犯行を成功させるたび、推理作家や犯罪研究家がその手口を解明すべく頭をひねったが、これまで、誰一人としてその謎を解き得た者はいない。散々考えあぐねたあげく、「これは魔法としかいいようがない!」と両手を上げた者もいたが、「いや、きっと何かトリックがあるはずだ!」と頑張る者達でさえ、内心では正直に降参した者の言葉に納得していた。そう。床下、天井裏、各種配管、それも到底人が通り抜けられない小さな所まで徹底的に洗い出し、侵入路を潰した密室の中央で、二〇名の警官が取り囲み、じっと焦点を合わせ続けていた宝石が、誰一人として気づかぬ内に、あっと思う間もなく忽然と姿を消したら皆はどう思うであろうか。時間を止めたか、宝石を瞬間移動させたか、とにかく警備当事者にとっては魔法としか思えない手口で犯行が実施されてしまうのだ。警視庁の敏腕警部、榊真一郎でさえ、一再ならずそんな狐に化かされたような目に遭ってきた。それでも未だに彼が夢見小僧の事件で指揮を任されるのは、過去に二度だけ、夢見小僧の犯行を阻止し得たからに他ならない。警視庁広しと言えども、夢見小僧の野望を挫くことに成功したのは、ただ榊一人あるのみなのだ。「人智を超えた怪奇不可思議な事件は榊警部」と言う、本人には苦笑するしかない定評も、そう言った実績に裏打ちされているからこその事なのである。もっともその実績の裏に、実は真打ちが潜んでいることを知る者は、極めてごく少数だった。今宵いつになく榊が苛立っているのも、そんな絶大なる信頼を寄せる「お守り」が、今夜に限って傍らに居ないせいなのである。
「榊警部、少し落ち着きなさい。さっきから時計ばかり見ていますよ」
知性溢れる落ち着いた声が、榊の右鼓膜を軽く震えさせた。反射的に振り向いた先に、鋭角的に整った顔立ちが微笑んでいる。榊は、そんな場違いな雰囲気に包まれた端正な顔を睨み付けた。
「鬼童君、君こそもう少し警戒したらどうなんだ。そんなにリラックスしていたら、肝心なときを見逃してしまうぞ」
「ご心配なく。僕は早く夢見小僧に会いたくて、うずうずしているんですから」
額にかかった髪を軽やかに右手で掻き上げ、輝く白い歯を見せながら鬼童は言った。
「ワクワクするのは判るがね。約束は忘れんでくれよ。わざわざ部外者の君を特別に入れたのはそのためなんだからな」
「大丈夫ですよ警部。自分の責任はちゃんと果たします」
自信たっぷりにそう言われては、榊も黙って向こうを向くしかない。
「何か異常はないか?」
間髪を入れず、『異常なし!』の応答が、要所に付いた部下達から返ってくる。度重なる問い合わせにも関わらず、その声音にうんざりしたような色は微塵も感じない。いや、むしろ予告の午前〇時が迫るにつれ、まるで豪雨下の堤防のように、急速に緊張の度合いを高めているようだ。上野公園は今、国立博物館を中心に、決壊寸前の厳戒態勢下に置かれていた。相手はただ一人。警視庁では怪盗二四一号と呼称する、盗みの常習犯である。だが巷間には、無味乾燥な番号よりも、愛称の方がよほど良く知られているだろう。正体不明、手口も不明。狙った獲物は一〇〇%必ず盗み出し、いずことも知れず消える怪盗。その名も夢見小僧という令名である。
夢見小僧には、確かに怪盗と呼ばれるに相応しい所行が目に付く。
まず狙ってくる獲物が、単なる金銭的価値によって計ることの難しいものが多い。確かに高級な宝石や骨董品は多いのだが、中にはなんでそんなものを? と首を傾げるような物が狙われることがある。今回もまさにそれで、歴史的価値はともかく、金銭的にはほとんど無価値に近い。中国の始皇帝陵から発掘されたという古い枕を欲しがるような好事家が、一体世界に何人いるだろう? しかもそれは、かの方士徐福が始皇帝に取り入るために献上した、邯鄲の夢枕、という怪しげな曰くつきの代物だ。中国の歴史的価値と言う点からすればそれなりに価値もありそうだが、少なくともお金に換算できるような代物ではない。
それから、必ず犯行を予告するメッセージを送りつけ、今日の上野公園のように一〇〇名を超える厳戒警備を強要するところも、怪盗の名に相応しい。しかも、絶対侵入不可能な密室にも難なく滑り込み、誰にも気づかれることなく目的の宝物を盗み出してしまうのだから、もはや言うこと無しだ。夢見小僧が犯行を成功させるたび、推理作家や犯罪研究家がその手口を解明すべく頭をひねったが、これまで、誰一人としてその謎を解き得た者はいない。散々考えあぐねたあげく、「これは魔法としかいいようがない!」と両手を上げた者もいたが、「いや、きっと何かトリックがあるはずだ!」と頑張る者達でさえ、内心では正直に降参した者の言葉に納得していた。そう。床下、天井裏、各種配管、それも到底人が通り抜けられない小さな所まで徹底的に洗い出し、侵入路を潰した密室の中央で、二〇名の警官が取り囲み、じっと焦点を合わせ続けていた宝石が、誰一人として気づかぬ内に、あっと思う間もなく忽然と姿を消したら皆はどう思うであろうか。時間を止めたか、宝石を瞬間移動させたか、とにかく警備当事者にとっては魔法としか思えない手口で犯行が実施されてしまうのだ。警視庁の敏腕警部、榊真一郎でさえ、一再ならずそんな狐に化かされたような目に遭ってきた。それでも未だに彼が夢見小僧の事件で指揮を任されるのは、過去に二度だけ、夢見小僧の犯行を阻止し得たからに他ならない。警視庁広しと言えども、夢見小僧の野望を挫くことに成功したのは、ただ榊一人あるのみなのだ。「人智を超えた怪奇不可思議な事件は榊警部」と言う、本人には苦笑するしかない定評も、そう言った実績に裏打ちされているからこその事なのである。もっともその実績の裏に、実は真打ちが潜んでいることを知る者は、極めてごく少数だった。今宵いつになく榊が苛立っているのも、そんな絶大なる信頼を寄せる「お守り」が、今夜に限って傍らに居ないせいなのである。
「榊警部、少し落ち着きなさい。さっきから時計ばかり見ていますよ」
知性溢れる落ち着いた声が、榊の右鼓膜を軽く震えさせた。反射的に振り向いた先に、鋭角的に整った顔立ちが微笑んでいる。榊は、そんな場違いな雰囲気に包まれた端正な顔を睨み付けた。
「鬼童君、君こそもう少し警戒したらどうなんだ。そんなにリラックスしていたら、肝心なときを見逃してしまうぞ」
「ご心配なく。僕は早く夢見小僧に会いたくて、うずうずしているんですから」
額にかかった髪を軽やかに右手で掻き上げ、輝く白い歯を見せながら鬼童は言った。
「ワクワクするのは判るがね。約束は忘れんでくれよ。わざわざ部外者の君を特別に入れたのはそのためなんだからな」
「大丈夫ですよ警部。自分の責任はちゃんと果たします」
自信たっぷりにそう言われては、榊も黙って向こうを向くしかない。