「また明日ね~っ!」
「バイバーイ!」
はつらつとした可愛らしい別れの挨拶が、ひとしきり通称学校通りと呼ばれる住宅街に流れた。午後五時。友人と名残惜しげに笑顔で手を振りあった美奈は、まだ皮の臭いも真新しい学生カバンを持ち直し、自宅の方へ向きを変えた。
ルンルン、と鼻歌の一つも飛び出しそうなくらい、今の美奈は毎日が楽しくて仕方がない。永い病院生活に終止符を打ったあの「夢魔の女王」の一件は、内気で消極的な美奈の日常を根本的に変えてしまった。かけがえのない友人達と力を合わせて勝ち取った命がけの闘いは、美奈の心に「やれば出来る!」という太い心柱を生み出したのである。あの事件からリハビリも急速に進み、今の美奈は、車椅子がなければどこにも行けなかったかつての陰影は微塵もない。こうして学校生活に戻った美奈は、周囲の心配をよそにすっかりクラスにも溶け込み、弓道部の新入部員として新たな友人達と共に、充実した毎日を送っていたのだった。
(今夜は久しぶりに麗夢さんに会いに行こうかな。アルファ、ベータにも会いたいし・・・)
昼の生活の充実に反比例して、かつては日課であった「夜の散歩」はすっかりご無沙汰になっていった。もちろんあの力ー他人の夢の中を渡り歩く能力ーを失ったわけではない。ただ今は、夜の夢が美奈の唯一の楽しみで無くなっただけのこと。それでも、夢の中でアルファやベータと転げ回り、自分よりも遙かに強い力を持つお姉さん、綾小路麗夢とお話しするのは、新生活に勝るとも劣らない楽しみと言えた。そのためには、まずさっさと宿題を片付け、充分な睡眠時間を確保しなければならない。美奈は、よし! と握り拳を作って気合いを入れると、元気よく自宅への道を急いだ。
こうして、あの角を左に曲がれば程なく自宅が見えてくる、という所まで来た時だった。
その角に、腕組みしてこちらを向いている背の高い男がいた。美奈は、男の視線が自分に注がれているような気がして、何故か軽い不安を覚えた。ひょっとして、最近巷間を騒がす変質者の一人だろうか? だが、あの角を曲がらずには家にたどり着けない。日は落ちつつあるが、まだ外灯が点くほど暗くもなく、あたりには、近所の公園で遊ぶ子供達の歓声や、買い物に急ぐ人達もちらほらと見受けられる。何よりすぐ近くには交番もあって、通りかかると必ず挨拶を交わすなじみのお巡りさんもいる。美奈はそんな周囲の状況を改めて確認すると、漠然とした不安を押し殺して、その男の脇を素早く通り抜けた。思わず駆け足になりそうなところをぐっと堪え、後ろの様子をそれとなくうかがう。が、どうやらなんでもなかったらしい。美奈が自分の自意識過剰に軽く苦笑したその時。
「君、ちょっと待って!」
ドキッとした美奈は、身を固くして立ち止まった。思わず悲鳴を上げそうになった口を慌ててつぐむ。恐る恐る振り向いた美奈の目に、さっきの背の高い男がゆっくり近づいてくるのが映った。
「な、何か用ですか?」
気丈にも返事を返したが、声の固さは隠しようもない。男も緊張した美奈の警戒ぶりに気づいたのであろう。細面のやや険のある顔に精一杯笑みを浮かべ、美奈に言った。
「君、私の顔に見覚えはないかね?」
「?」
怪訝な顔をして、美奈は改めて相手の顔を見た。そう言われれば、どこかで見た気がする。でも一体どこで? 少なくとも、病院や学校で会ったことはない。
「判らないか・・・。もう四ヶ月にはなるからな。ほら、夜中に私の顔を見ただろう? 思い出せないかね?」
四ヶ月前? 美奈は小首を傾げた。四ヶ月前ならまだ病院のベットにいた頃だ。そんな時分の夜中に会うなんて、当直の看護婦さん以外に一体誰と会うというのだろう? だが、程なく美奈は、確かにこの男の顔を見たことがあると気がついた。
夢だ。
「夜の散歩」の最中に、偶然この男の夢を覗き、その顔を見たことが確かにあった。すっかり忘れていたのだが、男の姿に漠然とした不安を抱いた時点で、美奈は無意識に思い出していたのであろう。
「し、知りません。おじさんと会った事なんて無いです」
美奈は警戒の鎧を一段とそばだてて半歩足を引いた。
「いや、その顔は思い出した顔だ。私の夢を、そして、私が君の視線に気づいた事もね」
さっと美奈の顔色が変わった。まさに男の言葉は、美奈の予測した最悪の答えを返してきたのだ。美奈は否応なくその時垣間見た夢を思い出していた。あの、恐ろしい光景を・・・。
「バイバーイ!」
はつらつとした可愛らしい別れの挨拶が、ひとしきり通称学校通りと呼ばれる住宅街に流れた。午後五時。友人と名残惜しげに笑顔で手を振りあった美奈は、まだ皮の臭いも真新しい学生カバンを持ち直し、自宅の方へ向きを変えた。
ルンルン、と鼻歌の一つも飛び出しそうなくらい、今の美奈は毎日が楽しくて仕方がない。永い病院生活に終止符を打ったあの「夢魔の女王」の一件は、内気で消極的な美奈の日常を根本的に変えてしまった。かけがえのない友人達と力を合わせて勝ち取った命がけの闘いは、美奈の心に「やれば出来る!」という太い心柱を生み出したのである。あの事件からリハビリも急速に進み、今の美奈は、車椅子がなければどこにも行けなかったかつての陰影は微塵もない。こうして学校生活に戻った美奈は、周囲の心配をよそにすっかりクラスにも溶け込み、弓道部の新入部員として新たな友人達と共に、充実した毎日を送っていたのだった。
(今夜は久しぶりに麗夢さんに会いに行こうかな。アルファ、ベータにも会いたいし・・・)
昼の生活の充実に反比例して、かつては日課であった「夜の散歩」はすっかりご無沙汰になっていった。もちろんあの力ー他人の夢の中を渡り歩く能力ーを失ったわけではない。ただ今は、夜の夢が美奈の唯一の楽しみで無くなっただけのこと。それでも、夢の中でアルファやベータと転げ回り、自分よりも遙かに強い力を持つお姉さん、綾小路麗夢とお話しするのは、新生活に勝るとも劣らない楽しみと言えた。そのためには、まずさっさと宿題を片付け、充分な睡眠時間を確保しなければならない。美奈は、よし! と握り拳を作って気合いを入れると、元気よく自宅への道を急いだ。
こうして、あの角を左に曲がれば程なく自宅が見えてくる、という所まで来た時だった。
その角に、腕組みしてこちらを向いている背の高い男がいた。美奈は、男の視線が自分に注がれているような気がして、何故か軽い不安を覚えた。ひょっとして、最近巷間を騒がす変質者の一人だろうか? だが、あの角を曲がらずには家にたどり着けない。日は落ちつつあるが、まだ外灯が点くほど暗くもなく、あたりには、近所の公園で遊ぶ子供達の歓声や、買い物に急ぐ人達もちらほらと見受けられる。何よりすぐ近くには交番もあって、通りかかると必ず挨拶を交わすなじみのお巡りさんもいる。美奈はそんな周囲の状況を改めて確認すると、漠然とした不安を押し殺して、その男の脇を素早く通り抜けた。思わず駆け足になりそうなところをぐっと堪え、後ろの様子をそれとなくうかがう。が、どうやらなんでもなかったらしい。美奈が自分の自意識過剰に軽く苦笑したその時。
「君、ちょっと待って!」
ドキッとした美奈は、身を固くして立ち止まった。思わず悲鳴を上げそうになった口を慌ててつぐむ。恐る恐る振り向いた美奈の目に、さっきの背の高い男がゆっくり近づいてくるのが映った。
「な、何か用ですか?」
気丈にも返事を返したが、声の固さは隠しようもない。男も緊張した美奈の警戒ぶりに気づいたのであろう。細面のやや険のある顔に精一杯笑みを浮かべ、美奈に言った。
「君、私の顔に見覚えはないかね?」
「?」
怪訝な顔をして、美奈は改めて相手の顔を見た。そう言われれば、どこかで見た気がする。でも一体どこで? 少なくとも、病院や学校で会ったことはない。
「判らないか・・・。もう四ヶ月にはなるからな。ほら、夜中に私の顔を見ただろう? 思い出せないかね?」
四ヶ月前? 美奈は小首を傾げた。四ヶ月前ならまだ病院のベットにいた頃だ。そんな時分の夜中に会うなんて、当直の看護婦さん以外に一体誰と会うというのだろう? だが、程なく美奈は、確かにこの男の顔を見たことがあると気がついた。
夢だ。
「夜の散歩」の最中に、偶然この男の夢を覗き、その顔を見たことが確かにあった。すっかり忘れていたのだが、男の姿に漠然とした不安を抱いた時点で、美奈は無意識に思い出していたのであろう。
「し、知りません。おじさんと会った事なんて無いです」
美奈は警戒の鎧を一段とそばだてて半歩足を引いた。
「いや、その顔は思い出した顔だ。私の夢を、そして、私が君の視線に気づいた事もね」
さっと美奈の顔色が変わった。まさに男の言葉は、美奈の予測した最悪の答えを返してきたのだ。美奈は否応なくその時垣間見た夢を思い出していた。あの、恐ろしい光景を・・・。