今朝の奈良市アメダスの最低気温は−1.3℃、最高気温は9.6℃、五條市アメダスの最低気温はー4℃、最高気温は10.2℃でした。今朝は実に寒かった! です。気温も、奈良市でも氷点下となり、五條市では−4℃と凍てつく寒さとなりました。県内のアメダスで最低気温はー5.5℃(大宇陀)でしたが、標高600m超の生駒山上でもー2.2℃でしたから、奈良盆地の冷え込み具合はまた格別だったように思います。この原因は、もちろん今来ている寒波のせいもありますが、今朝が風がなく雲ひとつ無く晴れ渡った空だったために強烈な放射冷却が起こったためだと思われます。そんな空模様でしたから、今日は一日中よく日差しが届き、昼の気温はそこそこ上がりました。明日も似たような天気になるようですので、朝夕の寒さに重々注意を払うと致しましょう。
さて、14日に放送されたAbemaTVの『AbemaPrime』という番組で、日本の「元号」が俎上に上げられ、その必要性について議論されました。出演者の一人元参院議員の田嶋陽子氏は「あってもいい」としながらも、「主権在民なのに、天皇家のものである元号が私たちの日常生活に出て来るのはおかしい」、「民主主義の観点からいうと元号に振り回されているというのはおかしい」、「不便だ」とほぼ不要論と見られる主張をしておられました。その要不要については人それぞれ主張もあるでしょうから大いに議論を賑わせれば良いと思うのですが、どうも田島氏には認識がおかしいように思われる点があるのが気になります。我が国の元号は昭和54年こと1979年に制定された元号法によって規定されており、第1項:元号は、政令で定める。第2項:元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。とあるだけで、別に天皇家のものというわけではありません。別に今の世の中、元号に振り回されているというような事も特段無いでしょうし、民主主義の観点云々は、どうも何の関係があるのか意味がよく判りません。わけの分からない屁理屈を並び立てるより、面倒で邪魔だからいらない、と単純明快に主張されたほうが、余程説得力があったのではないかと思われます。
ただ、「少なくとも官公庁では使うべきではない」、という主張にはある程度共感を覚えました。「元号法は、その使用を国民に義務付けるものではない」という政府答弁もあるように、その使う使わないはその人の自由なのですが、お役所の用紙は基本元号が表記されていたり、元号で記入するのが前提になっていたりします。もっとも、私などは所要で市役所などに行って家人の生年月日を記入する際には、西暦よりも元号の方がすんなり出てくるのでそのままで全く問題はないのですが、人によっては西暦で書きたい人も中にはいることでしょう。別に使うのは自由なのですから、使わない自由も尊重されるような形はとるべきではなかろうか、と思うのです。
それとは別の話で、我が国の歴史文化に根ざす元号の存在価値については、別に議論すれば良いと思います。現代・未来においても連綿と受け継いでいくのかどうか。せっかく元号が改まる時に居合わせるのですから、大いに公論を興し皆で違憲を出し合えばよいのではないでしょうか?
さて、14日に放送されたAbemaTVの『AbemaPrime』という番組で、日本の「元号」が俎上に上げられ、その必要性について議論されました。出演者の一人元参院議員の田嶋陽子氏は「あってもいい」としながらも、「主権在民なのに、天皇家のものである元号が私たちの日常生活に出て来るのはおかしい」、「民主主義の観点からいうと元号に振り回されているというのはおかしい」、「不便だ」とほぼ不要論と見られる主張をしておられました。その要不要については人それぞれ主張もあるでしょうから大いに議論を賑わせれば良いと思うのですが、どうも田島氏には認識がおかしいように思われる点があるのが気になります。我が国の元号は昭和54年こと1979年に制定された元号法によって規定されており、第1項:元号は、政令で定める。第2項:元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。とあるだけで、別に天皇家のものというわけではありません。別に今の世の中、元号に振り回されているというような事も特段無いでしょうし、民主主義の観点云々は、どうも何の関係があるのか意味がよく判りません。わけの分からない屁理屈を並び立てるより、面倒で邪魔だからいらない、と単純明快に主張されたほうが、余程説得力があったのではないかと思われます。
ただ、「少なくとも官公庁では使うべきではない」、という主張にはある程度共感を覚えました。「元号法は、その使用を国民に義務付けるものではない」という政府答弁もあるように、その使う使わないはその人の自由なのですが、お役所の用紙は基本元号が表記されていたり、元号で記入するのが前提になっていたりします。もっとも、私などは所要で市役所などに行って家人の生年月日を記入する際には、西暦よりも元号の方がすんなり出てくるのでそのままで全く問題はないのですが、人によっては西暦で書きたい人も中にはいることでしょう。別に使うのは自由なのですから、使わない自由も尊重されるような形はとるべきではなかろうか、と思うのです。
それとは別の話で、我が国の歴史文化に根ざす元号の存在価値については、別に議論すれば良いと思います。現代・未来においても連綿と受け継いでいくのかどうか。せっかく元号が改まる時に居合わせるのですから、大いに公論を興し皆で違憲を出し合えばよいのではないでしょうか?