「それはわしも考えた。だが、わしはもう秀衡殿の手を借りる必要が無くなったのだ。わしにはまだ充分遣いでのあるもののふ共が待っている」
「何と仰います? 情けなき事ながら、今殿のお側にお仕えいたすはこの公綱ただ一人。確かに我は殿のためなら百人、千人分の働きをいたす覚悟なれど、その公綱さえ殿は暇をとらすと仰る。それで一体どこに殿の力となる味方が居るというのです?」
すると、智盛の手がすっと上がった。右手人差し指がまっすぐに伸び、公綱の背後の海岸を指し示す。
「あそこに、我ら平氏の軍勢が居る」
「あ、あの篝火が味方だと仰るので?」
「そうだ。あそこに忠綱や、景高等が軍勢を揃えて我の到着を待っている」
忠綱に景高だと? 公綱は智盛の口から出た名前に自分の耳を疑った。平氏方で忠綱と言えば上総太夫判官藤原忠綱、同じく景高は飛騨太夫判官藤原景高に相違ない。どちらも父祖代々の平氏家人であり、一人当千の強者として知られる剛の者である。だがその二人とも、過ぐる寿永二年(1183年)夏、北国討伐の途上で木曽義仲の奇襲に会い、越中国倶利伽羅峠で無念の最期を遂げたと聞いた。その二人が実は生き残っており、今また兵を集めて智盛様を待っているというのか?
疑い深げに岸を見る公綱に、智盛は言った。
「心配いたすな、公綱。我を信じよ」
そう言って智盛はじっと近づいてくる岸を眺めた。公綱は、そんな智盛が急に遠く離れてしまったように感じて、思わず覚える寒気に身を震わせた。
こうして東の空がほのかに白み始めた頃、舟は砂浜へと乗り上げた。あちこちに焚かれたかがり火のもと、うごめく人影は、ざっと百人はくだらない。
公綱は、万一相手が敵方だったときは、残る力を振り絞って智盛だけでも逃がすことを考えた。真っ先に飛び降り、刀の柄に手をかける。智盛と二人万全の体勢なら、この程度の人数、蹴散らすことはたやすい。だが、幾日ともしれずろくに飲食もままならぬまま波に揺られた身では、たとえ相手が童どもだったとしても危ういかもしれなかった。そう思うと気が気ではない公綱だったが、今回だけはそれは杞憂だった。
「おお、そこにいるのは公綱ではないか!」
聞き覚えのある野太い声が耳に届いた。と同時に、よく見知ったひげ面が、暗闇から浮き上がるように現れた。
「景高殿?」
公綱は緊張の構えのまま、平氏侍大将藤原景高の姿を凝視した。
「何? 公綱だと?」
その隣から、また別の声が上がる。かがり火に照らされ浮かんだ顔は、確かに忠綱の姿をしていた。その懐かしい顔が、一斉に跪いた。かがり火の周りにたむろする人影も、歩調を合わせて皆拝跪する。
「久しいな。皆、息災であったか?」
智盛が降りてきたのだ。公綱は腑に落ちぬ思いを抱きながらも、自身少し脇に下がって智盛のために道をあけた。
「はっ! 一同智盛様のお越しを一日千秋の思いで待ち望んでおりました。どうか今度こそ我らに下知を賜り、鎌倉の田舎武士どもに目にもの見せてくれましょうぞ」
景高の力強い言葉に、智盛の両目が妖しく光を放った。
「殊勝なり景高。皆の者! 見事頼朝が首を上げし者は、いかなる者であれ望みの一国を授けようぞ。皆、この智盛に力を貸せ!」
「おおぉう!」
地鳴りのような鬨の声が、殷賑と海岸に鳴り響いた。
「お待ちくだされ殿! まさかこの人数で鎌倉を攻撃する、と仰せか?」
あわてて公綱が呼びかけると、智盛に変わって忠綱が答えた。
「心配いたすな。今、源氏の主力はまだ西国の彼方じゃ。鎌倉に残るはいくらもあるまい」
「だが、ここは北陸のどこかであろう? それならこれから鎌倉までは加賀、越中、信濃、甲斐と幾つもの国を超えて行かねばならぬはずじゃ。しかもそれは険しき山道ばかり。一体幾日かかるか考えておるのか? それまでに我らの動きを知られれば、たちまちに鎌倉には関八州の軍勢が集まってくるぞ。それをこの人数で攻めるなど・・・」
「安心いたせい。木曽義仲が滅んでこの方、ここから鎌倉までは束ねる者を失った烏合の衆共ばかりじゃ。それらを糾合しつつ進めば良い。それにここにいるのは智盛様をお迎えに参上した一部の者じゃ。ちゃんと万余の軍勢が別に控えておるわ」
万を超える大軍だと? 公綱は目を丸くして言葉を失った。平氏がそんな人数を動員したのはただ一回。木曽義仲討伐のための北陸遠征軍だけではないか。しかもその大半は倶利伽羅峠で全滅したはず。いや、この者達だって、伝え聞くところによると確かに戦死している。そのために都に残された老親達がいかに嘆き悲しみ、相次いで儚く世を去っていったことか。確かに戦いでは、戦死する者よりも逃げ散る者の方が遙かに多い。それらをまた集め得たとするなら万の軍勢も夢ではなかろう。だが、天下の大勢が決した今、遙かに平氏が求心力を持ち得た二年前にすら逃げ散った者共が、いかに名将智盛を頭にいただくとはいえ、はたして帰ってくるだろうか? 考えれば考えるほど、それは絶望的にしか見えない。そんな公綱に対し、景高は言った。
「まあ先のことはともかく、今は取りあえず飯にせぬか? 智盛様もお疲れであろうし、お主も腹一杯喰って疲れを癒せば、我らの言うことも少しは納得できようて」
結局何より智盛の身を案じる公綱は、景高の一言で黙るしか無かった。
「ささ、こちらへ」
景高、忠綱が先導して智盛を誘った。公綱は鷹揚に頷いて付いていく智盛に従い、黙然と向こうの篝火に照らされる、幔幕の方へと歩いていった。
「何と仰います? 情けなき事ながら、今殿のお側にお仕えいたすはこの公綱ただ一人。確かに我は殿のためなら百人、千人分の働きをいたす覚悟なれど、その公綱さえ殿は暇をとらすと仰る。それで一体どこに殿の力となる味方が居るというのです?」
すると、智盛の手がすっと上がった。右手人差し指がまっすぐに伸び、公綱の背後の海岸を指し示す。
「あそこに、我ら平氏の軍勢が居る」
「あ、あの篝火が味方だと仰るので?」
「そうだ。あそこに忠綱や、景高等が軍勢を揃えて我の到着を待っている」
忠綱に景高だと? 公綱は智盛の口から出た名前に自分の耳を疑った。平氏方で忠綱と言えば上総太夫判官藤原忠綱、同じく景高は飛騨太夫判官藤原景高に相違ない。どちらも父祖代々の平氏家人であり、一人当千の強者として知られる剛の者である。だがその二人とも、過ぐる寿永二年(1183年)夏、北国討伐の途上で木曽義仲の奇襲に会い、越中国倶利伽羅峠で無念の最期を遂げたと聞いた。その二人が実は生き残っており、今また兵を集めて智盛様を待っているというのか?
疑い深げに岸を見る公綱に、智盛は言った。
「心配いたすな、公綱。我を信じよ」
そう言って智盛はじっと近づいてくる岸を眺めた。公綱は、そんな智盛が急に遠く離れてしまったように感じて、思わず覚える寒気に身を震わせた。
こうして東の空がほのかに白み始めた頃、舟は砂浜へと乗り上げた。あちこちに焚かれたかがり火のもと、うごめく人影は、ざっと百人はくだらない。
公綱は、万一相手が敵方だったときは、残る力を振り絞って智盛だけでも逃がすことを考えた。真っ先に飛び降り、刀の柄に手をかける。智盛と二人万全の体勢なら、この程度の人数、蹴散らすことはたやすい。だが、幾日ともしれずろくに飲食もままならぬまま波に揺られた身では、たとえ相手が童どもだったとしても危ういかもしれなかった。そう思うと気が気ではない公綱だったが、今回だけはそれは杞憂だった。
「おお、そこにいるのは公綱ではないか!」
聞き覚えのある野太い声が耳に届いた。と同時に、よく見知ったひげ面が、暗闇から浮き上がるように現れた。
「景高殿?」
公綱は緊張の構えのまま、平氏侍大将藤原景高の姿を凝視した。
「何? 公綱だと?」
その隣から、また別の声が上がる。かがり火に照らされ浮かんだ顔は、確かに忠綱の姿をしていた。その懐かしい顔が、一斉に跪いた。かがり火の周りにたむろする人影も、歩調を合わせて皆拝跪する。
「久しいな。皆、息災であったか?」
智盛が降りてきたのだ。公綱は腑に落ちぬ思いを抱きながらも、自身少し脇に下がって智盛のために道をあけた。
「はっ! 一同智盛様のお越しを一日千秋の思いで待ち望んでおりました。どうか今度こそ我らに下知を賜り、鎌倉の田舎武士どもに目にもの見せてくれましょうぞ」
景高の力強い言葉に、智盛の両目が妖しく光を放った。
「殊勝なり景高。皆の者! 見事頼朝が首を上げし者は、いかなる者であれ望みの一国を授けようぞ。皆、この智盛に力を貸せ!」
「おおぉう!」
地鳴りのような鬨の声が、殷賑と海岸に鳴り響いた。
「お待ちくだされ殿! まさかこの人数で鎌倉を攻撃する、と仰せか?」
あわてて公綱が呼びかけると、智盛に変わって忠綱が答えた。
「心配いたすな。今、源氏の主力はまだ西国の彼方じゃ。鎌倉に残るはいくらもあるまい」
「だが、ここは北陸のどこかであろう? それならこれから鎌倉までは加賀、越中、信濃、甲斐と幾つもの国を超えて行かねばならぬはずじゃ。しかもそれは険しき山道ばかり。一体幾日かかるか考えておるのか? それまでに我らの動きを知られれば、たちまちに鎌倉には関八州の軍勢が集まってくるぞ。それをこの人数で攻めるなど・・・」
「安心いたせい。木曽義仲が滅んでこの方、ここから鎌倉までは束ねる者を失った烏合の衆共ばかりじゃ。それらを糾合しつつ進めば良い。それにここにいるのは智盛様をお迎えに参上した一部の者じゃ。ちゃんと万余の軍勢が別に控えておるわ」
万を超える大軍だと? 公綱は目を丸くして言葉を失った。平氏がそんな人数を動員したのはただ一回。木曽義仲討伐のための北陸遠征軍だけではないか。しかもその大半は倶利伽羅峠で全滅したはず。いや、この者達だって、伝え聞くところによると確かに戦死している。そのために都に残された老親達がいかに嘆き悲しみ、相次いで儚く世を去っていったことか。確かに戦いでは、戦死する者よりも逃げ散る者の方が遙かに多い。それらをまた集め得たとするなら万の軍勢も夢ではなかろう。だが、天下の大勢が決した今、遙かに平氏が求心力を持ち得た二年前にすら逃げ散った者共が、いかに名将智盛を頭にいただくとはいえ、はたして帰ってくるだろうか? 考えれば考えるほど、それは絶望的にしか見えない。そんな公綱に対し、景高は言った。
「まあ先のことはともかく、今は取りあえず飯にせぬか? 智盛様もお疲れであろうし、お主も腹一杯喰って疲れを癒せば、我らの言うことも少しは納得できようて」
結局何より智盛の身を案じる公綱は、景高の一言で黙るしか無かった。
「ささ、こちらへ」
景高、忠綱が先導して智盛を誘った。公綱は鷹揚に頷いて付いていく智盛に従い、黙然と向こうの篝火に照らされる、幔幕の方へと歩いていった。
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