今朝の奈良市の最低気温は12℃、昼の最高気温は23.8℃、五條市の今朝の最低気温は10℃、昼の最高気温は22.7℃でした。今日は朝のうちこそ日差しがありましたが、下り坂の天候を意識させるかのように雲が広がって程なく日差しが届かなくなりました。その後も徐々に雲が厚く、空が暗くなっていく様子が伺えましたが、その歩みは遅々として進まず、四国沖から南東に向けて次々雨雲が流れてきて紀伊半島に進んできてますが、雨になっているのはせいぜい五條市あたりまでで、更に20キロほど北の橿原市までは雨雲が届いていません。天気予報も昨日と違い、明日は曇りに変わっていました。どうやら雨は降らないか、降っても大したこと無く上がりそうな感じです。
さて、平安時代末期の源平争乱で焼け落ちた奈良・東大寺の東塔の高さが、ほぼ確定できたという発表が、奈良文化財研究所から出されました。奈良時代、創建当時の東塔は豪壮な七重塔で、その高さについてこれまで100m説と70m説がありました。その塔が焼け落ちたのが治承4年(1180年)の年末に起こった、平智盛、ではなく平清盛の五男、三位中将平重衡による南都焼討ちでのこと。大仏殿他東大寺の堂宇ことごとくを焼き尽くした中に東塔も含まれていたわけですが、その後鎌倉時代に再建されたものの今度は落雷によって消失、以後再建されること無く現代に至っています。奈良文化財研究所では平成30年から東大寺の委託を受け本格的に調査研究を開始、100m説の根拠となった平安時代の書物「朝野群載」の写本に当たり、江戸時代後期の国学者である伴信友が、もともと23丈(約68m)と記されていた箇所を33丈(約100m)に書き直していたことを突き止めました。これが決定打となり、従来の100m説が誤りで、70m説が正しかったと結論づけました。高さとしては随分控えめになりましたが、現存する最も高い京都東寺の五重塔が高さ55mですから、あの勇壮な長めより更に10m以上高い塔がかつて東大寺にあったということに驚かされます。しかし重機も鉄筋も無い奈良時代に、木材と手作業だけで天を衝く大塔を築き上げた昔の人達の能力というのはまさに想像を絶します。奈文研の研究者の手で復元案が提案されていますが、東大寺で東塔再建とかやるんだったら、是非観てみたいと思いました。
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