学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

「第42回群馬学連続シンポジウム 鎌倉武士のアーバニズム」(その1)

2022-12-11 | 唯善と後深草院二条

昨日は群馬県立女子大学で行われた「第42回群馬学連続シンポジウム 鎌倉武士のアーバニズム」を聴講してみました。

https://www.gpwu.ac.jp/info/img/e3bc273b72897bcab1c91964d7ed99a949a21b13.pdf

コロナで講演会等に出かける機会もめっきり減ってしまいましたが、今回は野口華世氏(共愛学園前橋国際大学教授)の「北条時政妻牧の方のネットワーク」という講演が含まれていたので、ある程度内容は予想できたものの、頭の整理になりそうだなと思って出かけてみました。
野口氏はもともと藤原家成に詳しい方ですが、牧の方も「藤原家成に連なる一族」とのことで、レジュメでもその点が強調されていました。
杉橋隆夫氏が明らかにされたように牧の方は池禅尼(宗子)の姪ですが、池禅尼の父・藤原宗兼と藤原家保室・家成母の隆子(崇徳乳母)が兄妹(または姉弟)で、家成と池禅尼は従兄妹(または従姉弟)という関係ですね。

藤原家成(1107-54)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E6%88%90
池禅尼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%A6%85%E5%B0%BC

藤原家成は「鳥羽院近臣筆頭」で、「鳥羽院御願の寺院を次々に建立」、「その一環として次々と荘園を立荘していく荘園のオーガナイザー的存在」です。
一例として、上野国新田荘は、

 造営者:家成
 国司:藤原重家(家成の従兄弟)
 知行者(領家):花山院忠雅(家成の女婿)
 開発請負者:新田義重

という「家成のネットワーク」で成立したそうです。
北条時政については、時政は基本的に「京武者」であるものの「ただし彼の代には京との地盤が脆弱」で、「地方に狭小な所領をもち、院や摂関家のような荘園領主に依存」しており、「牧の方と婚姻関係をもつことは貴族社会に依存する「京武者」にとって必要」という説明でした。
「京武者」との位置付けについては、「京武者」にしては時政が無位無官だったという問題と、時政と「牧の方」の結婚時期の問題がありますが、時間の関係もあり、その点の説明はありませんでした。
また、「牧の方のネットワーク」として、「牧の方も家成系のネットワークの中にいて、さらにそれを拡大していった」とのことで「牧の方所生の娘たち…嫡女・二女・三女・四女」は「鳥羽院近臣を実質的に引き継いだ美福門院・八条院親子や家成系の一族に連なる」そうです。
これも時間の関係もあって詳しい説明はありませんでしたが、「参考文献」に載っていた山本みなみ氏の「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価─」(『鎌倉』115号、鎌倉文化研究会、2014)を見ればよいことですね。

山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21e9b0b6b84acf63128fa54e549724e9

さて、牧の方は「安貞二年(1227)時政十三回忌」に京都で「御堂建立」していますが、これは牧の方が経済的に非常に豊かであったことを示しています。
そこで、史料的な裏付けは難しいものの、「牧の方も荘園における「忠雅」的な位置にあった可能性」があるとのことでした。
要するに領家になっていた可能性があるということですね。
そして、「女性の荘園知行者は決して珍しくない(ジェンダー差がない)」、「官職に縛りのない女性はむしろコネクションを築きやすい存在」、「このコネクションの再構築サイクル(=ネットワークの維持)は荘園の運営・維持にとって必要不可欠」とのことでした。
結論として、「牧の方の都市的性格は、想像以上」であり「比企尼・寒川尼なども同様の存在だったか」とのことです。
ところで、野口氏は「安貞二年(1227)時政十三回忌」の時点で牧の方は六十代後半と言われていたので、逆算すると1160年前後の生まれとなり、北条時政(1138生まれ)とは二十数年の年齢差という立場ですね。
野口氏が牧の方と時政の結婚時期をどう考えておられるのかは分かりませんが、無位無官の時政と結婚したということは、やはり頼朝の蜂起が成功して鎌倉に入って以降と考えるのが自然ではないですかね。
このあたり、私は山本論文に若干の不満があったので、以前あれこれ考えてみたことがあります。

「頼朝への接近を図る頼盛の意向が背景にあったと見るべきだろう」(呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5e99df68b23f22f3d0ca76b207ed97c7
「何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea1f25ef5dbf69fe94fe07de39047ece

山本氏が「一男五女」について細かく検討される前に発表された細川重男・本郷和人氏の連名論文「北条得宗家成立試論」(『東京大学史料編纂所研究紀要』11号、2001)には、

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 時政が牧の方を妻に迎えたのは、やはり頼朝の政権が誕生した後のことだったのではないだろうか。四十代の彼は「ワカキ」牧の方を後妻に迎える。そして、先の三人の子が生まれる。彼らの生年を仮に朝雅室一一八四年、頼綱室八六年、政範八九年と推定すれば、これ以降の史実との間に全く齟齬が生じない。婚姻が八三年に行われ、牧の方が十五才であったとすると、政範を産んだとき二十一歳、後年、一族を引き連れて諸寺参詣し、藤原定家の批判を受けたとき五十九歳。まことに具合いがよい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e4ec62d4dc95fca8d27ea7c9b583c76

とありますが、「やはり頼朝の政権が誕生した後のことだったのではないだろうか」は穏当としても、仮に婚姻が1183年だとすると、北条時政は四十六歳ですから、牧の方が十五歳であれば、年の差は三十一です。
あれこれ考えると、牧の方も再婚で、婚姻時に二十五歳くらいであれば、すべての辻褄が合って「まことに具合いがよい」ように私は思います。

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