江戸川乱歩の「人間椅子」。
この作品にはふたつのモチーフがある。
★ひとつは現実の忌避。
「私は世にも醜い容貌の持ち主でございます」
「私は、お化けのような顔をした、その上ごく貧乏な、一職人に過ぎない私の現実を忘れて、身のほど知らぬ、甘美な、贅沢な、様々な「夢」にあこがれていたのでございます」
「私がもし、もっと豊かな家に生まれていましたら、金銭の力によって、いろいろの遊戯にふけり、醜貌のやるせなさをまぎらわすことができたでありましょう。私にもっと芸術的な天分が与えられておりましたなら、例えば美しい詩歌によって、この世の味気なさを忘れることができたでありましょう。しかし、不幸な私は、いずれの恵美にも浴することができず、哀れな、一家具職人の子として、その日その日暮らしを立てていくほかはないのでございました」
主人公は単調でただ生きているだけの現実を憂えている。
空想、妄想の世界に遊ぶことが救いだと考えるが、彼には十分な「芸術的才能」もない。
『現実を忌避し空想世界に逃げる』
乱歩作品の底流にはすべてこのモチーフが流れている。
明智小五郎は奇怪な犯罪世界に胸を躍らせ、「パノラマ島奇譚」の主人公はお金の力で彼が空想する理想郷を作り上げる。
そしてこの「人間椅子」の主人公が「悪魔の囁き」を聞いて味気ない現実から逃げるために行ったことは『革の椅子の中に入ること』。
彼は椅子の中に入ることにより「怪しくも魅力ある世界」を得る。
「人間というものが、日頃見ている、あの人間とは全然別な生き物であることがわかります。彼らは声と、鼻息と、足音と、衣ずれの音と、そして幾つかの弾力に富むただの肉塊にすぎないのでございます」
「革のうしろから、その豊かな首筋に接吻することもできます。その他、どんなことをしようと自由自在なのであります」
彼は現実を逃れる理想郷を得たのだ。
ここに作品の2番目のモチーフが現れる。
即ち……
★触覚の世界
普通の世界では人の体に触れることはなかなか出来ない。
ほとんどが視覚、聴覚で人に関わる。
しかし主人公は椅子の革一枚を通して人に触れることが出来る。
触覚の世界。
そこに人間性の復権を乱歩は見ている。
テレビ、映画などの映像、音楽。人間は視覚・聴覚に溢れた生活をしているが実は本当に満たされていないのではないか。
人は視覚の美醜によって他人を判断するが、それだけでは足りないのではないか?もっと様々なコミュニケーションがあるのではないか。
そんなことを乱歩は問うている様に思える。
人間性に根ざした文学世界は時代によって様々な読み方がなされる。
※追記
谷崎潤一郎の「春琴抄」も自分の目を針で刺し、視覚のない世界で真実の愛を見出す話だった。
この作品にはふたつのモチーフがある。
★ひとつは現実の忌避。
「私は世にも醜い容貌の持ち主でございます」
「私は、お化けのような顔をした、その上ごく貧乏な、一職人に過ぎない私の現実を忘れて、身のほど知らぬ、甘美な、贅沢な、様々な「夢」にあこがれていたのでございます」
「私がもし、もっと豊かな家に生まれていましたら、金銭の力によって、いろいろの遊戯にふけり、醜貌のやるせなさをまぎらわすことができたでありましょう。私にもっと芸術的な天分が与えられておりましたなら、例えば美しい詩歌によって、この世の味気なさを忘れることができたでありましょう。しかし、不幸な私は、いずれの恵美にも浴することができず、哀れな、一家具職人の子として、その日その日暮らしを立てていくほかはないのでございました」
主人公は単調でただ生きているだけの現実を憂えている。
空想、妄想の世界に遊ぶことが救いだと考えるが、彼には十分な「芸術的才能」もない。
『現実を忌避し空想世界に逃げる』
乱歩作品の底流にはすべてこのモチーフが流れている。
明智小五郎は奇怪な犯罪世界に胸を躍らせ、「パノラマ島奇譚」の主人公はお金の力で彼が空想する理想郷を作り上げる。
そしてこの「人間椅子」の主人公が「悪魔の囁き」を聞いて味気ない現実から逃げるために行ったことは『革の椅子の中に入ること』。
彼は椅子の中に入ることにより「怪しくも魅力ある世界」を得る。
「人間というものが、日頃見ている、あの人間とは全然別な生き物であることがわかります。彼らは声と、鼻息と、足音と、衣ずれの音と、そして幾つかの弾力に富むただの肉塊にすぎないのでございます」
「革のうしろから、その豊かな首筋に接吻することもできます。その他、どんなことをしようと自由自在なのであります」
彼は現実を逃れる理想郷を得たのだ。
ここに作品の2番目のモチーフが現れる。
即ち……
★触覚の世界
普通の世界では人の体に触れることはなかなか出来ない。
ほとんどが視覚、聴覚で人に関わる。
しかし主人公は椅子の革一枚を通して人に触れることが出来る。
触覚の世界。
そこに人間性の復権を乱歩は見ている。
テレビ、映画などの映像、音楽。人間は視覚・聴覚に溢れた生活をしているが実は本当に満たされていないのではないか。
人は視覚の美醜によって他人を判断するが、それだけでは足りないのではないか?もっと様々なコミュニケーションがあるのではないか。
そんなことを乱歩は問うている様に思える。
人間性に根ざした文学世界は時代によって様々な読み方がなされる。
※追記
谷崎潤一郎の「春琴抄」も自分の目を針で刺し、視覚のない世界で真実の愛を見出す話だった。