平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

風林火山 最終回「決戦川中島」 

2007年12月17日 | 大河ドラマ・時代劇
 第50回(最終回)「決戦川中島」

 1年にわたり、ひとりの人間の人生、そして死を見るのには感慨深いものがある。
 勘助(内野聖陽)の人生とは何であったのか?
 番組中のナレーションに拠れば「生きて愛して散っていった男」。
 確かに勘助は愛した人のために生きた。
 信玄(市川亀治郎)とは天下という同じ夢を見、由布姫(柴本幸)を愛して彼女の幸せのために闘った。

 勘助は決して英雄ではない。
 信長などは「新しい時代を切り開き、平和を実現するために戦った男だった」などとナレーションされるが、そんなきれいな言葉より、勘助の「生きて愛して散っていった男」の方が共感が持てる。
 それは「平和を実現するために戦う」などということが嘘であることを我々は知ってしまったからだ。
 例えばイラクへのアメリカの戦争。
 信長の戦いにもきれいごとで済まされない権力欲がある。
 この点で「風林火山」という作品が時代の空気をとらえて出来た作品であることがわかる。
 信玄の戦いは結局『欲』。武田家を繁栄させるためのもの。
 長尾景虎(Gackt)の戦いも天の戦いといいながら、どこか狂気を帯びたうさんくさいものがある。
 勘助の戦いは武田家という枠にとらわれた限界はあるが、『姫への愛』『信玄との夢』という点で純粋である。
 その混じりけのない純粋さゆえ、由布姫(柴本幸)は死ににいこうとする勘助を引き留め、太助たちは勘助の首と胴を奪還し、武田の重臣たちは死んだ勘助を見て涙した。
 勘助にしてみれば大きな喜びであろう。
 リツ(前田亜季)という子として愛する対象も得たことだし。
 それらはすべて勘助が純粋に懸命に生きたから得られたもの。

 『生きた愛した』
 『懸命に生きた』
 これが勘助の生涯であった。
 彼もまた英雄であった。

※追記
 名せりふ、気になったせりふをいくつか。
・信繁、諸角が死にあとは妻女山の援軍を待つばかりになって
 勘助「もはや高ずる策は無し。それがしも前に出ます」
・景虎「この悪しき天地を我が手で解き放つ」(→景虎らしい)
・宇佐美「一国を滅ぼしてまで何のために戦うのか?」
 それに対する勘助の答え
 勘助「生きるため、わが思うお人のため」(←イマイチ説得力がない。一国を滅ぼしてはいかんでしょう)
・甘利「いくさの勝ち負けとは何を守り、何を失うかだ」(→この戦いで明確な勝者はない。甘利の言葉を借りれば、信繁、諸角、勘助を亡くした武田の負けか)
 勘助、由布姫を見て
 勘助「死んではならぬ。それがしをお止め下されたか」(→勘助にとって一番嬉しいこと)
・伝兵衛、勘助の胴体を担いで
 伝兵衛「山本勘助でございまする」
・信玄「勝ち鬨をあげよ」(→軍師・勘助へのはなむけ)
・平蔵「いくさはいいだ。死なないぞ。帰るぞ」(→平蔵が憎しみで戦うことの愚かさを知り、憎しみから解放された瞬間)


コメント (2)
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