平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

八重の桜 第36回「同志の誓い」~会津の者はおとなしく恭順しねえのです!

2013年09月09日 | 大河ドラマ・時代劇
「これからも信じたままに生きてみせ」
 婚礼の前に母・佐久(風吹ジュン)が八重(綾瀬はるか)に語った言葉。
 おそらくこれが今作のテーマだろう。
<信じたままに生きる>
 鉄砲、城でのいくさ、キリスト教入信……、どんな逆風が吹いても、八重はすべて自分の心に従って生きてきた。
 それは会津の人たちも同じ。
 愚直に朝廷を守り、容保を信じ、会津を愛した。
 この愚直に物事を信じる態度は、時として悲劇をもたらすのだが、これが会津人の生き様なのだろう。
 だから女紅場をやめた時、八重はこんなことを言う。
「会津の者はおとなしく恭順しねえのです!」←かっけー!
 一方で、ぼくは槇村(高嶋政宏)の建前で飄々と世を渡っていくやり方も好きですが。

 襄(オダギリジョー)との関係もいい感じ。
「あなたの行く道は私の行く道。あなたと同じ志をもって生きたい」
「あなたの苦しみも私の苦しみです。すべて私に打ち明けて下さい」
「どんな時も私といっしょに歩いて下さい。私と同じ志を持つ者として」
 キリスト教の発想ですね。
 人生を共に歩く同行者。

 これは前夫・尚之助(長谷川博己)の態度とは違う。
 尚之助は、自分の味わう苦しみを八重に味合わせたくなくて離縁した。
「あなたは私の前を歩く人だ」とも言ってたし、尚之助には問題を共有し、いっしょに乗りこえていくという姿勢がない。何でも自分で勝手に決めてしまう。
 この姿勢は、八重には少し物足りなかったし、寂しかっただろう。

 というわけで、襄と尚之助、ふたりの愛し方は対照的ですね。
 苦しみを共有して生きていくのか、相手の苦しみを自分だけが引き受けて生きていくのか。

 器の発想も面白い。
 京都は大きな器、これに何を入れるか。
 といったことを覚馬(西島秀俊)は語ったが、襄も同じ様な発想をしている。
 同志社の仮校舎になる公家の荒屋に行った時のことだ。
「大事なのはどこで学ぶかではない。何を学ぶかです」
 襄にとっては、器=校舎はどうでもいいんですね。
 器に何を入れるかが大事。
 覚馬は京都という器に経済、産業、文化を盛ろうとし、襄は公家の屋敷という器に教育を盛ろうとした。

 こう考えていくと、歴史には<破壊>が必要なんでしょうね。
 京都から帝がいなくなり、公家の屋敷が廃屋になったことで、新しいものを入れる余地が出来た。
 耶蘇教反対という既存秩序を壊すことによって、新しいキリスト教文化が根づいた。
 現在で言えば、既得権者の既得権の破壊。

 現実と闘う八重と同行者としての襄。
 いいドラマになって来ました。


コメント (4)
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