アニメ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』がどのように終了するのか興味を持っていた。
主人公・黒木智子は高校生活に馴染めず、孤独を感じている「喪女」。
智子は他者と繋がろうと必死にあがくが、どうしても上手くいかない。
僕もそうですが、智子のような人間って、頭の中であーでもない、こーでもないと、いろいろなことを考えているんですね。
こうすればあの人と友だちになれるんじゃないかとか、こんなことをしたらカッコ良く見えるんじゃないだろうかとか、頭の中は他人の目や妄想がいっぱいで、結局、現実で空回りして自滅する。
最終話の<ゴキブリを殺してヒーローになる>なんてのがいい例。
面白かったのは、確か10話で、智子が「日常部」というクラブを作ろうとする話。
これは『僕は友達が少ない』の「隣人部」のパロディだが、結局、智子は「何をするクラブかよく分かりません」という理由で「日常部」結成を生徒会から却下される。
これはシビアですね。
『僕は友達が少ない』で描かれたやすらぎの世界が、『ワタモテ』では完全に否定されてしまった。
これは、「現実はそんなに甘くないんだよ」「現実には『隣人部』なんて存在しないんだよ」という痛烈なメッセージ。
「日常部」を否定されて智子は完全に現実で居場所をなくしている。
そして最終話。
誰とも繋がることのできない智子は叫びながら走る。
どんなにあがいても世界と繋がることが出来なくて、走ることしか出来ない。
そして最後につぶやいた言葉が「ほんと、どうでもいいわ……」。
あきらめというか、静かな絶望である。
制作スタッフは、成瀬 優ちゃんとか今江 恵美先輩といった人物にわずかな希望を垣間見せたが、智子はほとんど救われていない。
あるのは「ほんと、どうでもいいわ……」という静かな絶望のみ。
この安易な解決をしないスタッフの姿勢はそのとおりだと思うが、ラストの智子のあきらめはあまりにも哀しすぎる。
喜劇と悲劇は裏表だというが、自意識過剰な智子が必死にあがく姿に笑いながら、同時にひとりぼっちで誰にも存在を認識されていない哀しさを感じてしまう。
しかし、こうも思う。
智子が抱えている<生きづらさ>は現代人が多かれ少なかれ感じていることではないかと。
主人公・黒木智子は高校生活に馴染めず、孤独を感じている「喪女」。
智子は他者と繋がろうと必死にあがくが、どうしても上手くいかない。
僕もそうですが、智子のような人間って、頭の中であーでもない、こーでもないと、いろいろなことを考えているんですね。
こうすればあの人と友だちになれるんじゃないかとか、こんなことをしたらカッコ良く見えるんじゃないだろうかとか、頭の中は他人の目や妄想がいっぱいで、結局、現実で空回りして自滅する。
最終話の<ゴキブリを殺してヒーローになる>なんてのがいい例。
面白かったのは、確か10話で、智子が「日常部」というクラブを作ろうとする話。
これは『僕は友達が少ない』の「隣人部」のパロディだが、結局、智子は「何をするクラブかよく分かりません」という理由で「日常部」結成を生徒会から却下される。
これはシビアですね。
『僕は友達が少ない』で描かれたやすらぎの世界が、『ワタモテ』では完全に否定されてしまった。
これは、「現実はそんなに甘くないんだよ」「現実には『隣人部』なんて存在しないんだよ」という痛烈なメッセージ。
「日常部」を否定されて智子は完全に現実で居場所をなくしている。
そして最終話。
誰とも繋がることのできない智子は叫びながら走る。
どんなにあがいても世界と繋がることが出来なくて、走ることしか出来ない。
そして最後につぶやいた言葉が「ほんと、どうでもいいわ……」。
あきらめというか、静かな絶望である。
制作スタッフは、成瀬 優ちゃんとか今江 恵美先輩といった人物にわずかな希望を垣間見せたが、智子はほとんど救われていない。
あるのは「ほんと、どうでもいいわ……」という静かな絶望のみ。
この安易な解決をしないスタッフの姿勢はそのとおりだと思うが、ラストの智子のあきらめはあまりにも哀しすぎる。
喜劇と悲劇は裏表だというが、自意識過剰な智子が必死にあがく姿に笑いながら、同時にひとりぼっちで誰にも存在を認識されていない哀しさを感じてしまう。
しかし、こうも思う。
智子が抱えている<生きづらさ>は現代人が多かれ少なかれ感じていることではないかと。