自分を客観的に見ること──これはなかなかむずかしい。
道長(柄本佑)もそうだ。
目と耳を病んだ三条天皇(木村達成)。
道長は譲位させようとする。
病では適切な政務をおこなえないと考えたからだ。
だが、他者には「自分の孫の敦成を帝にしようとしている」と見える。
権力をふるい、政敵を排そうとしているように見える。
しかし道長はこれを理解できない。
実資(秋山竜次)にその強権的な姿勢を糺されても
「思いのままの政をしたことなどない。まったくない」
実資に「志を追いかける者が力を持つと、志そのものが変わる」と言われても
「おい、意味がわからぬ」
道長には自分が強権をふるっているという自覚がない。
今まで道長の志も他者にはおかしく見える。
道長の志「民が幸せに暮らせる世をつくる」は他者・実資から見ると、抽象的で曖昧だ。
道長は実資に言われる。
「民の幸せとはなにか?」「そもそも民の暮らしが見せておるのか?」
これは僕も同じ疑問を思っていた。
でも、道長は純粋に民のために政治をおこなっていると考えている。
…………………………………
道長は善良な為政者だ。
隆家(竜星涼)の大宰府人事も目の病を治すため。
独裁的になるのを嫌がり、あくまで陣の定めに従う。
政敵は光の力で勝手に自滅してくれる。
そして鈍い。
誰かに指摘されるまで気づかないことが多く、指摘されてショックを受ける。
今回の行成(渡辺大知)がそうだ。
倫子(黒木華)の「どこぞのおなごを愛でておられる」という指摘に対するリアクションもそうだ。
「民が幸せに暮らせる世をつくる」という志も子供っぽい。
いわば、「三郎」がたまたま権力を持って、為政者になったような感じだ。
ここに来て、道長下げが始まった。
だが、それは愛すべき存在としての道長下げだ。
今回のサブタイトルは「輝きの後に」。
輝きが薄れ、道長のありのままの姿が見えてきた。
一方、そんなありのままの道長を理解しているのが、まひろ・藤式部(吉高由里子)だ。
藤式部は彰子(見上愛)に言う。
「人の上に立つ者はかぎりなくつらく、さびしいもの」
彰子はこれを受けて、
「藤式部は父上びいきであるのう」
道長が三郎のままなのに対し、まひろは聡明な大人になっている。
以前は、男に生まれたかった、というギラギラした思いを抱いていたが、
今は道長を支え、女性でなければできない仕事を成し遂げ、女性であることを肯定している。
道長と対照的に、すべてのことが客観的に見えている。
賢子(南紗良)と双寿丸(伊藤健太郎)のことも、
「昔ならできなかったことを軽々と乗り越えている」
双寿丸の本心はわからないが、
賢子を連れて行かない理由を「危険な目に遭わせたくないから」と話し、慰めた。
さて、まひろは今後どのような心境になっていくのだろう?
※追記
心が安定して、やすらかになった人がふたり。
・敦康親王(片岡千之助)
もともと権力への執着の少ない人物であったが、妻を得て彰子への執着もなくなった。
彰子のことも「国母にふさわしい風格」と客観的に見られるようになった。
・清少納言(ファーストサマーウィカ)
恨みを持つことで命を支えることをやめて静かに生きることを宣言。
道長(柄本佑)もそうだ。
目と耳を病んだ三条天皇(木村達成)。
道長は譲位させようとする。
病では適切な政務をおこなえないと考えたからだ。
だが、他者には「自分の孫の敦成を帝にしようとしている」と見える。
権力をふるい、政敵を排そうとしているように見える。
しかし道長はこれを理解できない。
実資(秋山竜次)にその強権的な姿勢を糺されても
「思いのままの政をしたことなどない。まったくない」
実資に「志を追いかける者が力を持つと、志そのものが変わる」と言われても
「おい、意味がわからぬ」
道長には自分が強権をふるっているという自覚がない。
今まで道長の志も他者にはおかしく見える。
道長の志「民が幸せに暮らせる世をつくる」は他者・実資から見ると、抽象的で曖昧だ。
道長は実資に言われる。
「民の幸せとはなにか?」「そもそも民の暮らしが見せておるのか?」
これは僕も同じ疑問を思っていた。
でも、道長は純粋に民のために政治をおこなっていると考えている。
…………………………………
道長は善良な為政者だ。
隆家(竜星涼)の大宰府人事も目の病を治すため。
独裁的になるのを嫌がり、あくまで陣の定めに従う。
政敵は光の力で勝手に自滅してくれる。
そして鈍い。
誰かに指摘されるまで気づかないことが多く、指摘されてショックを受ける。
今回の行成(渡辺大知)がそうだ。
倫子(黒木華)の「どこぞのおなごを愛でておられる」という指摘に対するリアクションもそうだ。
「民が幸せに暮らせる世をつくる」という志も子供っぽい。
いわば、「三郎」がたまたま権力を持って、為政者になったような感じだ。
ここに来て、道長下げが始まった。
だが、それは愛すべき存在としての道長下げだ。
今回のサブタイトルは「輝きの後に」。
輝きが薄れ、道長のありのままの姿が見えてきた。
一方、そんなありのままの道長を理解しているのが、まひろ・藤式部(吉高由里子)だ。
藤式部は彰子(見上愛)に言う。
「人の上に立つ者はかぎりなくつらく、さびしいもの」
彰子はこれを受けて、
「藤式部は父上びいきであるのう」
道長が三郎のままなのに対し、まひろは聡明な大人になっている。
以前は、男に生まれたかった、というギラギラした思いを抱いていたが、
今は道長を支え、女性でなければできない仕事を成し遂げ、女性であることを肯定している。
道長と対照的に、すべてのことが客観的に見えている。
賢子(南紗良)と双寿丸(伊藤健太郎)のことも、
「昔ならできなかったことを軽々と乗り越えている」
双寿丸の本心はわからないが、
賢子を連れて行かない理由を「危険な目に遭わせたくないから」と話し、慰めた。
さて、まひろは今後どのような心境になっていくのだろう?
※追記
心が安定して、やすらかになった人がふたり。
・敦康親王(片岡千之助)
もともと権力への執着の少ない人物であったが、妻を得て彰子への執着もなくなった。
彰子のことも「国母にふさわしい風格」と客観的に見られるようになった。
・清少納言(ファーストサマーウィカ)
恨みを持つことで命を支えることをやめて静かに生きることを宣言。
先週、宇治の川辺での語らいで、改めてまひろは「三郎のままの道長」を見出し、その「三郎」への愛情を再確認したのでしょう。
>「藤式部は父上びいきであるのう」
この彰子の台詞は色々な意味で印象的でした。
ます、彰子はまひろ・藤式部の道長への愛情を見透かしているようにも見える点。
そして、何よりもまひろ・藤式部に対してこのような論評を加えられる程に彰子自身が成長したこと。
改めて思うのは見上愛さんの演技。
「仰せのままに」人形少女だったころは子役さんかと思いました。
しかし、今や堂々たる皇太后の風格を漂わせています。
彰子というキャラとしての成長もさることながら、同じ女優さんがここまで演じ分けられることにも驚きです。
まひろの「大人」ぶりは賢子との会話にも感じました。
「母上は振られたことある?」と問われ、事もなげに「あるわよ」と答える。
その後の賢子へのフォローも含めて、母としての揺るぎない安定感を示していました。
「大人の女性」と言えば倫子様。
「たまには私の方もご覧下さいませ。ふふふ」
この「ふふふ」には「強さ」を通り越して「恐ろしさ」を感じるほど。
総じて今回は女性たちが「聡明な大人」ぶりを示してゆく回でした。
清少納言も、闇の淵寸前に踏みとどまった模様で、何よりです。
>政敵は光の力で勝手に自滅してくれる。
子どものままの道長が闇落ちせずに権力闘争に勝ってゆくためのこの仕掛けが今回も発動したようです。
一条天皇前期における定子、伊周らに相当するのが、三条天皇における娍子と敦明親王で、道長が当面する政敵。
「筋を通す男」実資は、道長対三条天皇の政争において中立を貫いた結果、相対的に三条天皇に近い立場にありました。
しかし、娍子と敦明親王の働きかけで敦明の友人を蔵人頭とすることにより、資平を登用するとした実資との約束を裏切ることとなり、実資を怒らせてしまいました。
おそらくこのことは後の展開に影響するものと思われ、「三条チーム」のオウンゴールとなることでしょう。
いつもありがとうございます。
「藤式部は父上びいきであるのう」
予告にもあったせいか印象的な台詞でしたね。
そして、おっしゃるとおり女性たちは年齢を重ねて、皆、聡明な大人になりました。
それに比べて、男たちは何とフラフラしていることか。
大石静さんの男性観には「男はバカでかわいい生き物ね」みたいなものがあるのでしょう。
今作は女性が大河ドラマでメインになる時、どう描けばいいかのお手本をつくりましたね。
『江』のような、信長に直談判して「いくさは嫌だ」というような描写はなくなっていくことでしょう。
オウンゴール。
今作の政敵はほとんどが自滅していくんですよね。
道長は悩み、流されるだけで、いつのまにか政敵がいなくなっています。
その根拠として、「光の力」(適当な言葉が思いつかないのでこの表現を使いますが)があるのも新しいですし、平安時代ならでは。
面白い作劇ですよね。
さて次回「望月」はどのような文脈で語られるんでしょうね。
三条天皇の退位、敦成の即位で、道長の権力基盤は盤石になるので酔った勢いで口にするのでしょうか。