「家康はここじゃ! 家康はここにおるぞ! さあ来い、共に行こうぞ。
乱世の亡霊たちよ、わしを連れていってくれ!」
家康(松本潤)は死にたがっているようである。
自分をただの人殺し、罪のある人間と考えている。
かつて苦楽を共にした家臣たちは他界して、家康は孤独でもある。
自分の死をもって乱世の亡霊たちを屠ろうと考えている。
乱世の亡霊とは、たとえば真田信繁(日向亘)だ。
信繁は言う。
「乱世を取り戻せ。愉快な乱世を生きよう」
茶々(北川景子)もそうだ。
「安寧な世が来れば日の本はつまらぬ国になる。
やさしい卑屈な者たちばかりの国になる」
大坂城の炎の中、狂気の表情でこう語る茶々はまさに亡霊だった。
家康は彼らを根こそぎ滅ぼさなくてはならない。
そして滅ぼした。
その結果、千姫(原菜乃華)からは、
「鬼じゃ、鬼畜じゃ、豊臣の天下をかすめ取った化け物じゃ」
世間からは「狡猾で怖ろしい狸」と指弾。
本質が「白兎」である家康にとってはつらいことだっただろう。
一方で「神格化」する動きも。
天海(小栗旬)は家康の美談ばかりを遺そうとする。
春日局(寺島しのぶ)は「神の君」として家康の業績を竹千代(家光)に語る。
しかし、家康にとって神格化は不本意なことだった。
ただ、ありのままの自分を理解してもらいたかった。
秀忠はそれを理解していて「立派な話ばかりを残すのはいかがなものか」と天海に釘を刺した。
竹千代(家光)も理解していたようで、春日局の話に耳を傾けず「白兎」の絵を描いた。
ありのままの家康を理解している者は他にもいた。
瀬名(有村架純)だ。
信康(細田佳央太)もそうだ。
そして家臣たち。
彼らは、臆病でやさしい「白兎」の家康を理解していたし大好きだった。
家康はやっと昔の自分に戻れた。
そこは楽しい安らぎの場所でもあった。
家康は天下を取ったが、別にそんなものは欲しくなかった。
本当に欲しかったもの、求めていたものは、家族や家臣との穏やかな時間だった。
「ようやりましたな。成し遂げられるのは殿だと申し上げたではないですか」
「殿、ありがとうございまする!」
家康はやっと救われた。
…………………………………………………………………………
ラストシーン。
瀬名と見つめる駿府城の景色の先に「現代の東京」があった。
現代の日本はどうなって行くのか?
乱世を求める亡霊たちが復活して、戦争をする国になるのか?
それとも、みんなで海老すくいをするような平和で穏やかな国になるのか?
たとえば、茶々の最期のせりふはインパクトがあって引っかかる。
「日の本がつまらぬ国になるであろう。
正々堂々と戦うこともせず、万事長いものに巻かれ、人目ばかりを気にし、
陰でねたみ、嘲る、やさしくて卑屈な者たちの国。
おのれの夢と野心のためになりふり構わず戦い抜く、
かつてこの国の荒れ野を駆けめぐった者たちはもう現われまい」
確かに現代日本は、茶々が語るような小者ばかりの国になっている気がする。
おそらくこれは平和のもたらした産物なのだろうが、これをどう考えるか?
櫻井よしこさんなんかが言いそうな言葉だが、これに共感する人は多くいるだろう。
僕自身も「それでも小市民的な社会がいいんだ」と完全に言い切れない。
石田三成が言ったように誰にでも乱世を求める心がある。
特に現在のような国際情勢が混沌として、閉塞感のある時代では。
…………………………………………………………………………
遊びもあった。
寺島しのぶさんのナレーションは、春日局が家光に家康の生涯を語っていたという設定だったんですね。
僕はこのナレーションが大仰すぎて違和感があったが、そう感じたのは正しかった。
家康自身も「神の君」と讃えられることが嫌だったからだ。
スタッフは視聴者に違和感を抱かせることを敢えて狙ったのだろう。
天海で小栗旬さん(北条義時)が登場。
源頼朝も後の人間が美化したから、立派な人物になったと内状を暴露。笑
天海が手にした本には「吾妻鏡」があり、次回作の「源氏物語」がある。笑
「どうする家康」
前半は否定的でしたが、後半は楽しく見ることができました。
最終回ラストで「鯉の話」を持って来て、幸せな時代を描いたことはお洒落な構成。
家康にとっては楽しい思い出だったんですね。
普通に回想を流すよりずっといい。
キャストの皆さん、スタッフの皆さん、1年間お疲れ様でした。
ありがとうございました。
乱世の亡霊たちよ、わしを連れていってくれ!」
家康(松本潤)は死にたがっているようである。
自分をただの人殺し、罪のある人間と考えている。
かつて苦楽を共にした家臣たちは他界して、家康は孤独でもある。
自分の死をもって乱世の亡霊たちを屠ろうと考えている。
乱世の亡霊とは、たとえば真田信繁(日向亘)だ。
信繁は言う。
「乱世を取り戻せ。愉快な乱世を生きよう」
茶々(北川景子)もそうだ。
「安寧な世が来れば日の本はつまらぬ国になる。
やさしい卑屈な者たちばかりの国になる」
大坂城の炎の中、狂気の表情でこう語る茶々はまさに亡霊だった。
家康は彼らを根こそぎ滅ぼさなくてはならない。
そして滅ぼした。
その結果、千姫(原菜乃華)からは、
「鬼じゃ、鬼畜じゃ、豊臣の天下をかすめ取った化け物じゃ」
世間からは「狡猾で怖ろしい狸」と指弾。
本質が「白兎」である家康にとってはつらいことだっただろう。
一方で「神格化」する動きも。
天海(小栗旬)は家康の美談ばかりを遺そうとする。
春日局(寺島しのぶ)は「神の君」として家康の業績を竹千代(家光)に語る。
しかし、家康にとって神格化は不本意なことだった。
ただ、ありのままの自分を理解してもらいたかった。
秀忠はそれを理解していて「立派な話ばかりを残すのはいかがなものか」と天海に釘を刺した。
竹千代(家光)も理解していたようで、春日局の話に耳を傾けず「白兎」の絵を描いた。
ありのままの家康を理解している者は他にもいた。
瀬名(有村架純)だ。
信康(細田佳央太)もそうだ。
そして家臣たち。
彼らは、臆病でやさしい「白兎」の家康を理解していたし大好きだった。
家康はやっと昔の自分に戻れた。
そこは楽しい安らぎの場所でもあった。
家康は天下を取ったが、別にそんなものは欲しくなかった。
本当に欲しかったもの、求めていたものは、家族や家臣との穏やかな時間だった。
「ようやりましたな。成し遂げられるのは殿だと申し上げたではないですか」
「殿、ありがとうございまする!」
家康はやっと救われた。
…………………………………………………………………………
ラストシーン。
瀬名と見つめる駿府城の景色の先に「現代の東京」があった。
現代の日本はどうなって行くのか?
乱世を求める亡霊たちが復活して、戦争をする国になるのか?
それとも、みんなで海老すくいをするような平和で穏やかな国になるのか?
たとえば、茶々の最期のせりふはインパクトがあって引っかかる。
「日の本がつまらぬ国になるであろう。
正々堂々と戦うこともせず、万事長いものに巻かれ、人目ばかりを気にし、
陰でねたみ、嘲る、やさしくて卑屈な者たちの国。
おのれの夢と野心のためになりふり構わず戦い抜く、
かつてこの国の荒れ野を駆けめぐった者たちはもう現われまい」
確かに現代日本は、茶々が語るような小者ばかりの国になっている気がする。
おそらくこれは平和のもたらした産物なのだろうが、これをどう考えるか?
櫻井よしこさんなんかが言いそうな言葉だが、これに共感する人は多くいるだろう。
僕自身も「それでも小市民的な社会がいいんだ」と完全に言い切れない。
石田三成が言ったように誰にでも乱世を求める心がある。
特に現在のような国際情勢が混沌として、閉塞感のある時代では。
…………………………………………………………………………
遊びもあった。
寺島しのぶさんのナレーションは、春日局が家光に家康の生涯を語っていたという設定だったんですね。
僕はこのナレーションが大仰すぎて違和感があったが、そう感じたのは正しかった。
家康自身も「神の君」と讃えられることが嫌だったからだ。
スタッフは視聴者に違和感を抱かせることを敢えて狙ったのだろう。
天海で小栗旬さん(北条義時)が登場。
源頼朝も後の人間が美化したから、立派な人物になったと内状を暴露。笑
天海が手にした本には「吾妻鏡」があり、次回作の「源氏物語」がある。笑
「どうする家康」
前半は否定的でしたが、後半は楽しく見ることができました。
最終回ラストで「鯉の話」を持って来て、幸せな時代を描いたことはお洒落な構成。
家康にとっては楽しい思い出だったんですね。
普通に回想を流すよりずっといい。
キャストの皆さん、スタッフの皆さん、1年間お疲れ様でした。
ありがとうございました。
性懲りもなく、大河のついて書きます。
この淀殿のセリフ、新自由主義的な価値観と見ました。
「人生は戦いである。勝ち抜いて巨万の富と名誉を手に入れるべし、それが愉快な人生、愉快な乱世である」ということなんでしょう。いいたいことは分かります。
ただ、そういったway of lifeがどうしても性に合わない人もいます。
おとなしくて、ギラギラした勝負が苦手で、という人です。どんな世の中でも一定数います。
いわゆる新自由主義的な価値観だと、こういう「勝負が性に合わない人」は、臼の中に放り込まれて、すりつぶされて消えていきます。
選択の自由があるか、問題はそこなんですね。
富と名声を目指して勝負する人生があってもいいし、平凡で穏やかな人生があってもいいわけです。
どちらか選ぶことができるし、平凡な人生を選んでも、また勝負に敗れても、まあ何とか生きていける、そんな世の中であればいいなと思っています。
わたしはずっとサラリーマンでした。自営業は、多分できなかったでしょう。
誰もが起業家になれるわけでもありませんし、それを強要されるとしたら悲劇です。チャレンジ精神がどうこうではなくて、性格的な問題です。
いろいろな生き方ができるかどうか、それも社会のダイバーシティでしょう。
もし仮に、いろいろな職業が選べるものの、みな自営業(あるいはみなサラリーマン)だとしたら、それは多様性のある社会ではないでしょうね。
といったことを考えました。
たしかに、この台詞は現代では「新自由主義的な価値観」に通じる「右」の響きを持つようですね。
他方、茶々が唾棄する「万事長いものに巻かれ、人目ばかりを気にし、陰でねたみ、嘲る、やさしくて卑屈な」生き方もまたある種の「右」、つまり「共同体論的な保守主義」だと言えるでしょう。
「右」には「共同体論的な右」と「新自由主義的な右」との二種類があり、小泉内閣を転換点として前者から後者へと移行したように思います。
小泉氏はたしかに共同体論的な自民党を「ぶち壊し」、むき出しの資本主義を意味する新自由主義へと舵を切り、日本は格差社会へと変化しました。
当時、左派リベラルであってしかるべき人たちまでも、特に若者たちが「改革」という標語に踊らされて小泉氏を支持したのは不思議でした。
自分は「ホリエモン」―当時「勝ち組」の代名詞だった―になれると思って「ワーキングプア」になったわけです。
さて、本作に戻りましょう。
大坂の陣が決着し、「かくして天下太平、戦無き安寧の世が訪れた」となった時点で、延長された本最終回の「尺」はまだ半分以上残っていて、「どうする脚本?」と思っていました。
>天海で小栗旬さん(北条義時)が登場。
「鎌倉殿」の最終回に「吾妻鏡」に読みふける家康を登場させたことへの返礼なのでしょうね。
次回作は「源氏物語」そのものというよりは、紫式部自身についての物語なのでしょうか。
いずれにしても、近代物を別にすれば武士の世界ばかりが舞台だった「大河」には従来無かった企画のように思いますので期待したいと思います。
>スタッフは視聴者に違和感を抱かせることを敢えて狙ったのだろう。
私は、寺島しのぶさんのナレーションはギャグだと思っていましたが、彼女が春日局として登場したのを見て「なるほど」と思いました。
しかし、やはり「締め」は瀬名と信康の登場でしょうね。
有村架純さん、細田佳央太さんは、「自害退場」の時点で一旦クランクアップした上で、改めて再登場したのでしょうか。
家臣団の皆さんは「浜松城時代」に収録しておけば済んだわけでしたが。
瀬名の解釈は本作最大の柱だったと思います。
通説的な「悪妻説」を大胆に引っ繰り返し、理想的なヒロインとしました。
彼女は「白兎家康」を深く理解し、愛していました。
彼女の悲劇的な死も、家康に「白兎」路線を貫いてもらうための大勝負(EJU構想)に破れた結果。
無論、家康にとっても瀬名は最愛の妻。
ここで、お市も家康を慕っていたという通説的理解を離れたもう一つの「大胆な設定」が加わります。
深く瀬名を愛する家康はお市を振り続ける。
清純なお市自身は悲しみつつも家康を理解したと思いますが、娘の茶々は家康を恨み続けて「ラスボス」となる。
北川景子さんが「お市/茶々」の二役を演じることは、茶々としての登場時まで伏せられた「サプライズ」だったようです。
しかし、二人を同じ北川さんに演じさせたことには大きな狙いがあったように思います。
物語の全体像が明らかになった今、本作の全体は
「瀬名」VS「北川母子」
の「女の戦い」だった、と見ることも出来るような気がします。
瀬名は家康を「白兎」のままにしてくれる。
北川母子―特に茶々―は家康に「白兎」とは違った姿をとることを強いる。
「鯉の話」は瀬名の後に続く側室たちが「家康の真の妻」となるための「通過儀礼」だったようです。
本最終回の冒頭、阿茶が家康に「鯉の話」を聞かせてくれるよう願っていました。
「於愛日記」の時にも家康は笑い転げるだけで、視聴者には「鯉の話」の内容は伏せられていました。
「鯉の話」の内容を明かすために最後の時間の大半を費やしていましたが、それだけの価値がありました。
家臣団もまた「白兎家康」を愛していたという話で、これによって「瀬名の世界」が共有されることになるわけでした。
TEPOさまへ
なるほど「共同体的な右」と「新自由主義的な右」は考えたことがなかったので、ちょっと気になりますね。
ただ、こういった共同体は、イデオロギー関係なしに存在しうると思います。五人組も隣組も人民公社もキブツも、政治的な背景は別として「共同体組織」ですね。フィクションでは、トーマス・モアのユートピアの社会にも、そういった性質の組織がありました。
新自由主義的な価値観というのは、戦後シカゴ大学の経済学部の一派から出たものだそうです。レッドパージの時代、ただ共産主義に対する嫌悪や反発から生まれただけのようで、底は浅そうです。あと100年も経てば「なんであの当時の人間は、あんなもんに夢中になったんだろう」ということで、未来の社会学者の研究材料になるといった程度のものでしょう。
ただ、意外に面倒なのは、最近になって言われている「縁故資本主義」です。
上層社会が、コネや世襲で構成された「縁故的共同体」で凝り固まっていて、そういったツテがない人には全く参入チャンスがない最悪の資本主義で、しかもそういった共同体の存在は表向きは隠されていて、「誰にでもチャンスがある公正な新自由主義」の顔をしている、という面倒なシステムです。
こうなると、「共同体的な右」と「新自由主義的な右」の対比は、あまり意味がなくなりそうな気がします。
この縁故資本主義ですが、東アジアの儒教的な文化圏だと、結構強固に根を張りそうな気がします。
今作の家康ドラマですが、諸国大名の秀吉評は「成り上がり者が」といったものがメインでした。
ムロツヨシの秀吉は、ときどきとても暗い顔をするのですが、もしかすると、そういった「諸国大名の凝り固まった縁故社会」に身を投じてしまった孤独だったのかもしれません。
いつもありがとうございます。
茶々の最期のせりふ、確かに新自由主義的ですよね。
・弱肉強食。
・世界は奪い合い。
・欲望のままに生きられる世界は面白い。
一方、白兎の家康は小市民的。
・多くを望まず家族で楽しく過ごせばいい。
・会社も和気あいあいと楽しく。
もうひとつ加えれば、瀬名は修正資本主義や社会民主主義。
・奪い合うのではなく分かち合おう。
・その方が皆が豊かになれる。
>「勝負が性に合わない人」は、臼の中に放り込まれて、すりつぶされて消えていきます。
新自由主義者はおのれの利益のためにあらゆる手段を使って来ます。
一方、小市民的な人は概ね善良で争いを好まないので簡単に負けてしまうんですよね。
法律や社会制度はそんな社会にしないためのものなのですが、現在はそれが壊れているような気がします。
あるいは新自由主義者は法律を自分たちに都合のように変えて行為を合法化しようとしています。
というわけで現代はある意味、戦国時代?
あるいは人の歴史とはこういうもの?
作品は時代を反映するものなので、今作「どうする家康」も政治経済の視点で見れば、以上のように解釈できるかもしれません。
1年間ありがとうございました。
>本作の全体は「瀬名」VS「北川母子」の「女の戦い」だった。
>茶々―は家康に「白兎」とは違った姿をとることを強いる。
確かにそう読めますよね。
平和な時代が来れば、家康は「白兎」に戻ってしまう。
そう感じた茶々は「そうはさせない。お前は乱世の亡霊だろう。わたしといっしょに死ね」と考えたのかもしれません。
これをさらに深読みすれば、家康を瀬名の所には行かせない、という女心もあったかもしれません。
いずれにしても瀬名は、おっしゃるとおり本作の柱。
家康が「白兎」から「鬼」に変貌したのも瀬名の死がきっかけでしたし。
瀬名を善良な女性として描いたことで本作は独自性のある作品になりましたね。
史実や通説と違うだろう、という批判には、ラストの天海や春日局の「歴史は書き換えられる」という所で弁明している気がします。
「鯉の話」は通過儀礼。
確かに、これで於愛も阿茶も「白兎」の家康を共有できるんですよね。
それは於愛たちは本当の家康を理解することが出来ました。
>「鎌倉殿」の最終回に「吾妻鏡」に読みふける家康を登場させたことへの返礼なのでしょうね。
この返礼は今後の大河でも続きそうですね。
再来年の大河は江戸のメディア王・蔦屋重三郎だそうですが、蔦屋重三郎が「源氏物語」を手に取る光景が想像できます。
「新自由主義的な右」については、本来、右=保守は急激な変化を求めない立場なので、新自由主義とは相容れないものなんですよね。
政治的にも保守は、みんなで話し合って合意を取りながら少しずつ変わっていけばいい、という立場なので数にモノを言わせた強権政治にはあてはまらない。
なので僕は保守を自任する安倍晋三氏を「インチキ保守」と考えています。
いずれにしても2000年代の小泉時代から新自由主義が導入され、格差が拡大したのは事実。
今こそ瀬名のような思想をもった政治家が登場すべきなのですが、なかなかいませんね。
鳩山由紀夫氏はEUのような「東アジア共同体」を構想したようですが、「ルーピー」と言われて葬り去られてしまいました。
>「新自由主義的な右」については、本来、右=保守は急激な変化を求めない立場なので、新自由主義とは相容れないものなんですよね。
まったく同感です。
だから、先にコウジさんが言及された女性評論家をはじめとする「極右」(と私たちには見える)の人たちが「保守的」と呼ばれているのには違和感を覚えます。
先述した「自分はホリエモンになれると思ってワーキングプアになった」若者たちが小泉純一郎氏を支持したのも、「改革」=変化に期待したからなのでしょうね。
変化には「良い(=自分たちの利益になる)変化」と「悪い変化」とがある、という区別があることに気づかずに。
実は「共同体論」という表現には両義性があり、そのことは重要なことだと思っています。
一般に「共同体論=右・保守的」というイメージがつきまとっていて、共同体論を代表するとされている人物、たとえばサンデルなども自分が「共同体論者」と呼ばれることを好まない、という事情があります。
私自身は、「共同体論」には「良き共同体論」と「悪しき共同体論」とがあって、「良き共同体論」の可能性をこそ追求すべきではないかと考えています。
「縁故資本主義」という言葉ははじめて知りました。
「新自由主義」と「悪しき共同体論」との結合で、まさに最悪ですね。
実際、今日の日本がその方向に向かいつつあることが危惧されます。
私はさほど詳しくは無いのですが、おそらくは韓国の社会がその方向の行き着く先であるような気がします。
一般庶民は、日本よりはるかに厳しい競争(受験・就職など)にさらされている一方で、「上層社会は、コネや世襲で構成された「縁故的共同体」で凝り固まって」いるらしいと聞いています。
今でも「両班」が生きている社会なのでしょうね。
ホリエモンさんですが、わたしは成功者とは考えていません。
いい家柄で上流社会にもコネがあるかもしれないと言われる三木谷さんと、九州の田舎の庶民に生まれたホリエモンさんは、同じようにIT系起業家になり、同じような方法でいろいろな企業を買収して、経済界の風雲児になり、同じように放送局を買収しようとして失敗したのですが、なぜか庶民に生まれたホリエモンさんだけが罪に問われました。
ここからも「縁故資本主義」の匂いがします。
いい家柄に生まれた方は今でも一大企業グループを率いている大成功した経営者で、勇猛果敢に携帯電話事業にも参入しています。庶民に生まれた方は、テレビのバラエティ番組で過激なことをコメントするのがメインのおじさんになってしまいました。ときどき宇宙ロケットを打ち上げていますが、事業の感じにも、技術開発を目指している感じにも見えません。
今回の家康ドラマにもたびたびあった既成勢力の大名たちのセリフ「信長が家康に譲るはずだった天下を、あの成り上がりのサルがかすめ取った」ですが、どうもホリエモンさんの姿と重なります。
「悪しき共同体」は、家→地域→国家に発展する可能性があるんですよね。
右派の人たちが「家」にこだわるのも「家」の延長にある「国家」なるものを大事にしたいから。
だから少子化対策の省庁の名前が「こども庁」ではなくて「こども家庭庁」。
その背後にいるのが統一教会?
僕は個人主義者なので、国家主義の台頭は御免蒙りたいですね。
そして、これを歴史で考えると、
・「家」→地域の支配体制を作ったのが徳川270年。
・「家」→「国家」の支配体制を作ったのは明治政府。
まさに「家康」→「国家安康」笑
「縁故資本主義」
僕も韓流ドラマでしか知らないのですが、韓国はこの面が強そうですね。
2020-08-15 21:07:49さん
最近、縁故資本主義にこだわっていらっしゃるようですが、すべてをその物差しで捉えるのは避けた方がいいかもしれません。
たとえば孫正義。
孫氏は縁故ではなく苦労人ですよね。
ユニクロの柳井氏もそう。
過度なこだわりは結論を誤らせる気がします。
そういう面もあるかな~、くらいが適当かと。
ただ縁故で地位に就いている政治家や企業家が既得権にしがみついて、若い野心的な人物を潰しているのは確かだと思います。
おっしゃるように、被害妄想になるので危険なんですよね。
ただ、M木谷さんとHエモンさんの場合、何かあったのではないかと考えてしまいます。
ふたりとも企業を買収してはグループとしてドンドン拡大させて、最終段階ではどちらもマスコミの買収を試み失敗しましたが、タイホ起訴有罪となり、刑務所に収監されたのは庶民の血統のHエモンさんでした。TEPOさんのおっしゃるような「共同体」の意図が、どこかに介在したのではないかと勘ぐりたくもなります。
中国では、三国志のすぐあとあたりから世襲貴族が勢力を伸ばしたのですが、彼らは皇帝よりも大きな権力を持ち、王朝が滅びても生きのこり、皇帝よりも国家よりも国民よりも巨大な、とんでもない化け物的存在になりました。
その貴族たちを排除するために、宋帝国時代から、ペーパーテストを実施し、成績優秀な合格者を高級官僚として採用する「科挙」を導入しました。
これで世襲貴族の「国家私物化問題」は解決するはずだったのですが、難関の科挙に合格できるのは、試験勉強をするカネとヒマがある「ブルジョアの子息たち」が圧倒的多数でした。もちろん庶民の合格者もいましたが、人数としては少数派でした。
こうして、科挙時代になってからの中国の政治は「ブルジョアへの利益誘導」ばかりになりました。
世襲貴族を滅ぼしたと思ったら、ブルジョア官僚を招き入れてしまったわけで、中国はこの科挙官僚の弊害を抱えた体制のまま、宋・明・清と王朝が交代し、辛亥革命をへて、民国と共産党時代を迎えたわけで、実はこの問題、はっきりと解決できていません。
(ちなみに、ネトウヨ的な人たちは、中国史の貴族と官僚の話をほとんど理解せず、王朝の創始者が中国系かどうか、そこばかりこだわりますね)
ひるがえって日本ですが、現在の日本の上層階級は、世襲貴族的な人たちと科挙官僚的な人たちがまだらに混在して、あちこち癒着しているようにも、両方の特徴を持つ人たちもいるように見えます。
今後の展開によっては、かつての中国よりももっと悪くなるかもしれません。
>勘ぐりたくもなります。
「勘ぐり」と認識されているのなら、それでいいと思います。
上から目線ですみません!
おっしゃっているようなことは、細かい所は違いますが、人間の歴史の一般的な流れですよね。
・王族が権力を持つ。
↓
・王族・貴族が権力を持つ。
西洋の場合は宗教もこれに加わる。
↓
・近代革命でブルジョアが権力を持つ。
↓
・近代革命で生き残った貴族的な人もこれに加わり、反動で元の社会に戻そうとする。
王族から市民への権力の移行。
人間の歴史は、こうした解放の歴史です。
現代は一応「国民主権」「平等」の社会システムをとっていますが、資本を持っている人の方が有利なのは確か。
では、どうするか?
・生活は苦しいけど現状維持でいいんじゃない? ただ上の連中はいろいろ悪いことをやっているよな→一般国民
・資本家を打倒して搾取のない社会を作ろう→左翼
・天皇を中心にした社会を作ろう→右翼
・資本家がもっと優位な社会を作ろう→新自由主義者
以上、人間の権力変遷の歴史と現在の状況を簡単にまとめてみましたので、もしよかったら物事を考える際の参考になさって下さい。