今回は、松陰(伊勢谷友介)の三つの言葉。
「今、この場所で、おのれを突きつめ、志を見つけられん者が他国へ行って何ができるというんじゃ。
志のない君のような者が江戸に行っても無駄です」
確かに。
学問をするのに場所はあまり関係ありませんよね。
真剣に学びたいと願うのなら、獄中でも出来る。
おのれを突きつめ、心の中の声を聞く作業なら、それこそ場所は問わない。
志=問題意識も必要で、それがなければ、ただの物見遊山で終わってしまう。
「諸君、狂いたまえ!」
ここで言う〝狂う〟とは、身分や慣習や常識など打ち捨てろ、という意味だろう。
実はこれは、支配階級やオトナたちが一番怖れる言葉。
支配階級やオトナたちは自分たちの権力維持のために、身分制度や慣習や常識で、若者たちが反抗しないように抑えつけておこうとする。
何しろ若者はエネルギーや体力において勝っていますからね、オトナたちは彼らが怒り、立ち向かってくるのを一番怖れている。
そして、若者にとって一番まずいのが、身分や慣習に縛られて行動できなくなってしまうこと。
それが次の松陰の次の言葉に繋がる。
「人がまことに怖れるべきは、何事もなさんことじゃ。そして、なそうとせんことじゃ」
松陰の思想というのは、行動の哲学なんですね。
松陰は、自分を突きつめ、志を得たら、身分や常識にとらわれることなく、ひたすら行動しろ、と教える。
まあ、このこと自体は若者の哲学として間違ってはいないんでしょうけど、問題なのは何をするかですよね。
現に松下村塾の塾生たちは、尊皇攘夷という志のためにテロ活動をおこなうわけですし。
安倍首相も今回の施政方針演説で、松陰の言葉を引用して、戦後社会を変えて<世界で輝く国>をつくると語ったが、果たしてその方向は正しいのか?
どうも長州出身で松陰を師と仰ぐ安倍首相は、明治~戦前までの<世界の列強に仲間入りする国>にしようとしているように思える。
それと、今回敢えて引用しませんでしたが、「志のためなら死んでもいい」という松陰の思想もどうかと。
自分の命を軽んじる思想は、他者の命も軽んじる思想に繋がる。
というわけで最後は、松陰の言葉とは対照的なゲーテの言葉を引用しておきます。
「活動的な馬鹿より怖ろしいものはない」
ゲーテは『若きウェルテルの悩み』を書き、若い時は情熱のままに行動しようという疾風怒濤(シュトルムウントドランク)運動に参加した人物ですが、後年は政治家にもなって保守派の大家に。
だから、上の言葉はオトナの意見として発せられた言葉と読み取れる。
しかし、この言葉も一面正しい。
というか、世の中に絶対的に正しいなんてことはない。
さて、これらを踏まえて、われわれはどう生きるのか?
「今、この場所で、おのれを突きつめ、志を見つけられん者が他国へ行って何ができるというんじゃ。
志のない君のような者が江戸に行っても無駄です」
確かに。
学問をするのに場所はあまり関係ありませんよね。
真剣に学びたいと願うのなら、獄中でも出来る。
おのれを突きつめ、心の中の声を聞く作業なら、それこそ場所は問わない。
志=問題意識も必要で、それがなければ、ただの物見遊山で終わってしまう。
「諸君、狂いたまえ!」
ここで言う〝狂う〟とは、身分や慣習や常識など打ち捨てろ、という意味だろう。
実はこれは、支配階級やオトナたちが一番怖れる言葉。
支配階級やオトナたちは自分たちの権力維持のために、身分制度や慣習や常識で、若者たちが反抗しないように抑えつけておこうとする。
何しろ若者はエネルギーや体力において勝っていますからね、オトナたちは彼らが怒り、立ち向かってくるのを一番怖れている。
そして、若者にとって一番まずいのが、身分や慣習に縛られて行動できなくなってしまうこと。
それが次の松陰の次の言葉に繋がる。
「人がまことに怖れるべきは、何事もなさんことじゃ。そして、なそうとせんことじゃ」
松陰の思想というのは、行動の哲学なんですね。
松陰は、自分を突きつめ、志を得たら、身分や常識にとらわれることなく、ひたすら行動しろ、と教える。
まあ、このこと自体は若者の哲学として間違ってはいないんでしょうけど、問題なのは何をするかですよね。
現に松下村塾の塾生たちは、尊皇攘夷という志のためにテロ活動をおこなうわけですし。
安倍首相も今回の施政方針演説で、松陰の言葉を引用して、戦後社会を変えて<世界で輝く国>をつくると語ったが、果たしてその方向は正しいのか?
どうも長州出身で松陰を師と仰ぐ安倍首相は、明治~戦前までの<世界の列強に仲間入りする国>にしようとしているように思える。
それと、今回敢えて引用しませんでしたが、「志のためなら死んでもいい」という松陰の思想もどうかと。
自分の命を軽んじる思想は、他者の命も軽んじる思想に繋がる。
というわけで最後は、松陰の言葉とは対照的なゲーテの言葉を引用しておきます。
「活動的な馬鹿より怖ろしいものはない」
ゲーテは『若きウェルテルの悩み』を書き、若い時は情熱のままに行動しようという疾風怒濤(シュトルムウントドランク)運動に参加した人物ですが、後年は政治家にもなって保守派の大家に。
だから、上の言葉はオトナの意見として発せられた言葉と読み取れる。
しかし、この言葉も一面正しい。
というか、世の中に絶対的に正しいなんてことはない。
さて、これらを踏まえて、われわれはどう生きるのか?
いつもありがとうございます。
まずは継続、何よりです。
>現実には「至誠」は必ずしも「天に通ずる」わけではありません。
おっしゃるとおりですね。
どんなに誠を尽くしても現実は簡単には動かない。
これが現実。
稔麿の江戸行きも、おっしゃるとおり、松陰に甘い殿様が、たまたまいたから、かなったようなもの。
言わば、ドラマを進める上でのご都合主義ですよね。
そして、現実の壁は厚く、なかなか思ったとおりに行かないから、人は過激主義に走るわけで。
人が生きることや歴史は、ドラマの様に簡単ではないんですよね。
小田村伊之助の評価や役割についての分析、納得です。
吉田茂首相を例に出していらっしゃいましたが、利害の対立する勢力どうしの間に入って調整する人間や、現実の拮抗を上手く利用して味方に利益をもたらす人間こそが、すぐれた政治家ですよね。
力で押し切ろうとするのは、争いしか生まず愚の骨頂。
押し切られて負けた方は恨みしか抱きませんし、それが新たな火種につながる。
現在の政治家には、伊之助や吉田茂のようなしたたかさを持ってほしいものです。
私のために引用してくださったのかと思いました。
さて、今回のメインは「学問では久坂に、剣では高杉に及ばない」吉田稔麿の「自分探し」。
松陰に志の「何故」を問い詰められ、文の助けで「政治」-本作では今のところ「攘夷」は表に出さないようにしていますが、やはり連中は「夷人を斬る」ことばかり議論しているのですね-に限定されないいわば「社会学的知見」に活路を見出したようです。
仲間たちにも認められ、松陰も満足するレベル-松陰好みに言葉では「至誠」-の答えだったのでしょうが、現実には「至誠」は必ずしも「天に通ずる」わけではありません。
つまり、松陰が認めたからと言って稔麿が江戸に行けるわけではありません。
結局、やたら松陰に甘い殿様が「機械仕掛けの神 Deus ex machina」の役を演じた訳です。
ここで気になるのは「狂いたまえ!」と松陰に煽られた若者たちが明倫館に押しかけた際、彼らはそこに殿様がいることを知っていたかどうかです。
知っていて、あわよくば直訴に持ち込もう-本作では少なくとも結果的にそうなっています-という作戦のもとに行動していたのであれば、まあ分かります。
しかし、知らなかったのであれば彼らはまさに「活動的な馬鹿」。
たまたまそこに殿様が居合わせたのでなければ、椋梨に一蹴されて終わりだった筈。
先週は「脱落」の可能性も認めて下さりありがとうございました。
しかしもうしばらくは見ていられそうです。
松陰や若者たちとは対照的に、小田村伊之助が結構魅力的なキャラに見えてきたからです。
「敵」の腹中に入ったという点では原田甲斐を連想させますが、あれほど悲惨ではありません。
たしかに彼は周布派から椋梨派に寝返った形なので、味方としての周布派を失ってしまいましたが、椋梨に完全に取り込まれてはいません。
>若者はエネルギーや体力において勝っていますからね、オトナたちは彼らが怒り、立ち向かってくるのを一番怖れている。
このことを背景として利用しつつ椋梨と交渉し、譲歩を引き出しています。
土壇場で殿様に口を利いて稔麿の江戸行きを認めさせたことを、この背景によって椋梨にも認めさせました。
あまつさえ、明倫館の実権まで手に入れようとしています。
ひたすら爽やかな現代青年だった仁先生とは打って変わっての「したたかさ」です。顔はまったく同じですが。
吉田茂氏は自民党政治家の中で例外的に私が評価する人物です。
朝鮮戦争と東西冷戦によってアメリカの対日政策が変化した際に、彼は国内の左翼運動の存在を背景として利用しつつアメリカと交渉し、再軍備への圧力をかわしたと言われています。
その結果、国家としての日本は経済復興に邁進し、アメリカ人をして「安保ただ乗り」との不満を抱かせるまでに上手く立ち回ったわけです。
まさに今日の「活動的な馬鹿」政権とは真逆。
こんな調子で伊之助がヒーロー(ヒロインの最終的な夫)に相応しい器になるのであれば、まだまだ楽しめるかも知れません。