慶喜(草彅剛)が口を開いた。
語られた内容は「日本を内戦にしない英断」などではなく、「無力な自分」だった。
薩長に憤る家臣たちを抑えられなかったのだ。
慶喜は語る。
「誰が何と言っても人は戦う時は戦うのだ。
欲望や感情は道徳や倫理などより強い。
栄光か破滅かの道を進む」
こんなふうに戦争は起きるんですね。
例えば太平洋戦争。
・欲望→満州の権益
・怒り→米英憎し
これらはいかにアメリカとの戦争が無謀であるかを「理性」でわかっていても抑えられない。
結果、慶喜の言葉を借りれば「栄光か破滅かの道を選ぶ」
理性や倫理は欲望や感情に負ける。
劇中の日露戦争もそうだった。
栄光か破滅かの戦争。
日露戦争ではかろうじて「栄光」を勝ち得たが、その勝利は辛勝、国力を使い果たし、あと少し戦争が続けば日本が破滅するものだった。
だからアメリカに講和の仲介を頼んだ。
しかし、講和の結果は国家予算の6倍を投じた戦争だったのに賠償金ゼロ。
国の内情を知らない国民はこれに激怒(日比谷焼討ち事件)。
全権大使・小村寿太郎(半海一晃)には轟々たる非難。
小村を擁護した栄一も「売国奴」呼ばわり。
理性をなくした大衆は暴走するのだ。
まあ、明治の指導者たちは賢明だった。
「これ以上、戦争を続けたらヤバいぞ」と考えて講和を模索した。
一方、太平洋戦争の指導者たちは……。
ソ連に講和の仲介を頼んだが、「国体護持」にこだわり過ぎて、時すでに遅し。
広島・長崎に原爆を落とされて、国は「破滅」した。
現在もね。
中国と戦争したら負けるぞ。
ロシアもやって来る。
もちろん中国の人権や民主主義の問題は大切だが、戦争という手段は愚かだ。破滅への道だ。
その辺はわかってほしいな、
勇ましいことが大好きな安倍晋三さん、中国憎しの右派の皆さん。
流されやすい国民の皆さんもね。
慶喜は「逃げた将軍」とそしりを受けた。
だが、その汚名を甘んじて受けて「非戦」に徹したのは清廉で聡明。
「人には役割がある。隠遁は私の最後の役割なのかもしれぬ」
という言葉には、無欲な悟りを感じる。
一方、安倍晋三。
彼は病気で二度も逃げたが、恥を知って隠遁することもせず、なおもしゃしゃり出ている。
慶喜の生き様を少しは学べ。
そして栄一。
日露戦争に関して、
「戦争は経済を妨害するものではない」
「仁義のいくさなら、その国は繁昌する」
と演説して、財界に国債を買うように訴え、戦争を支持した。
だが、これらの言葉には違和感があったようで栄一は病に倒れた。
戦後は日露戦争に荷担して、大衆に火をつけてしまったことに悩むことになった。
栄一、またもや失敗である。
一方、嫡男・篤二(泉澤祐希)。
篤二は慶喜に自分を重ね合わせていたようだ。
すなわち「渋沢家を背負うプレッシャー」と
慶喜の「徳川家を背負うプレッシャー」「日本を背負うプレッシャ」。
背負うものの重さは慶喜の方がはるかに重いが、慶喜から何かを学びたかった様子。
慶喜もそんな篤二を見て、自分を語る気になったのであろう。
さて、篤二は慶喜の言葉を聞いて何を思った?
少なくとも、父のように戦争を煽るような人間にはなりたくないと思っただろう。
自分の進む道は実業界ではないと考えたかもしれない。
篤二と慶喜は共鳴し合った。
この作品、慶喜が大きな存在ですね。
現実を躍動して生きる栄一と隠遁して生きる慶喜。
普通の物語では現実をたくましく生きていく人物(栄一)が当然、主人公になるのだが、
慶喜も一方の主人公になっている。
そして、僕はなぜか栄一よりも慶喜に惹かれる。
こんな愚かな世の中と戦うよりは、隠遁して静かに朽ち果てていくのが賢明。
語られた内容は「日本を内戦にしない英断」などではなく、「無力な自分」だった。
薩長に憤る家臣たちを抑えられなかったのだ。
慶喜は語る。
「誰が何と言っても人は戦う時は戦うのだ。
欲望や感情は道徳や倫理などより強い。
栄光か破滅かの道を進む」
こんなふうに戦争は起きるんですね。
例えば太平洋戦争。
・欲望→満州の権益
・怒り→米英憎し
これらはいかにアメリカとの戦争が無謀であるかを「理性」でわかっていても抑えられない。
結果、慶喜の言葉を借りれば「栄光か破滅かの道を選ぶ」
理性や倫理は欲望や感情に負ける。
劇中の日露戦争もそうだった。
栄光か破滅かの戦争。
日露戦争ではかろうじて「栄光」を勝ち得たが、その勝利は辛勝、国力を使い果たし、あと少し戦争が続けば日本が破滅するものだった。
だからアメリカに講和の仲介を頼んだ。
しかし、講和の結果は国家予算の6倍を投じた戦争だったのに賠償金ゼロ。
国の内情を知らない国民はこれに激怒(日比谷焼討ち事件)。
全権大使・小村寿太郎(半海一晃)には轟々たる非難。
小村を擁護した栄一も「売国奴」呼ばわり。
理性をなくした大衆は暴走するのだ。
まあ、明治の指導者たちは賢明だった。
「これ以上、戦争を続けたらヤバいぞ」と考えて講和を模索した。
一方、太平洋戦争の指導者たちは……。
ソ連に講和の仲介を頼んだが、「国体護持」にこだわり過ぎて、時すでに遅し。
広島・長崎に原爆を落とされて、国は「破滅」した。
現在もね。
中国と戦争したら負けるぞ。
ロシアもやって来る。
もちろん中国の人権や民主主義の問題は大切だが、戦争という手段は愚かだ。破滅への道だ。
その辺はわかってほしいな、
勇ましいことが大好きな安倍晋三さん、中国憎しの右派の皆さん。
流されやすい国民の皆さんもね。
慶喜は「逃げた将軍」とそしりを受けた。
だが、その汚名を甘んじて受けて「非戦」に徹したのは清廉で聡明。
「人には役割がある。隠遁は私の最後の役割なのかもしれぬ」
という言葉には、無欲な悟りを感じる。
一方、安倍晋三。
彼は病気で二度も逃げたが、恥を知って隠遁することもせず、なおもしゃしゃり出ている。
慶喜の生き様を少しは学べ。
そして栄一。
日露戦争に関して、
「戦争は経済を妨害するものではない」
「仁義のいくさなら、その国は繁昌する」
と演説して、財界に国債を買うように訴え、戦争を支持した。
だが、これらの言葉には違和感があったようで栄一は病に倒れた。
戦後は日露戦争に荷担して、大衆に火をつけてしまったことに悩むことになった。
栄一、またもや失敗である。
一方、嫡男・篤二(泉澤祐希)。
篤二は慶喜に自分を重ね合わせていたようだ。
すなわち「渋沢家を背負うプレッシャー」と
慶喜の「徳川家を背負うプレッシャー」「日本を背負うプレッシャ」。
背負うものの重さは慶喜の方がはるかに重いが、慶喜から何かを学びたかった様子。
慶喜もそんな篤二を見て、自分を語る気になったのであろう。
さて、篤二は慶喜の言葉を聞いて何を思った?
少なくとも、父のように戦争を煽るような人間にはなりたくないと思っただろう。
自分の進む道は実業界ではないと考えたかもしれない。
篤二と慶喜は共鳴し合った。
この作品、慶喜が大きな存在ですね。
現実を躍動して生きる栄一と隠遁して生きる慶喜。
普通の物語では現実をたくましく生きていく人物(栄一)が当然、主人公になるのだが、
慶喜も一方の主人公になっている。
そして、僕はなぜか栄一よりも慶喜に惹かれる。
こんな愚かな世の中と戦うよりは、隠遁して静かに朽ち果てていくのが賢明。
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