小松左京の『日本沈没』
現在放映中のテレビドラマ版は明日(12日)最終回。
日本が沈みますよ。どんな映像を見せてくれるのか?
さて、原作の『日本沈没』では日本が沈むシーンをこんなふうに表現している。
北半球の半分をおおうユーラシア大陸の東端で、今、一頭の竜が死にかけていた。
玉を追う形で大きく身をうならせ、
尾をはね上げた体のいたるところから火と煙を噴き出し、
その全身は内部からこみ上げてくる痙攣(けいれん)によって、たえまなくうちふるえ、
かつて巍然(ぎぜん)とそびえたつ棘(とけ)の間に、緑の木々を生い繁らせていたかたい背は、
網の目のようにずたずたに切り裂かれ、その傷口からは、熱い血が脈打って流れ出していた。
──その柔らかい下腹を太古よりやさしく愛撫しつづけてきたあたたかな黒潮の底から、
今は冷たい死の顎(あぎと)が姿を現わし、
獰猛な鱶(ふか)の群れのように、身をひるがえしては、傷ついた竜の腹の肉を
一ひら、また一ひらと食いちぎり、果て知れぬ深海の底の胃袋へと呑み込んでいった。
日本列島を「竜」に例えた見事な「隠喩」の文章である。
・体のいたるところから噴き出す火と煙 →火山爆発
・内部からこみ上げてくる痙攣 →地震
・そびえたつ木々を生い繁らせたかたい背→列島を縦に貫く山脈群
・傷口から流れ出る熱い血 →溶岩
・黒潮の底から姿を現わす顎 →岩盤
・鱶の群れのように竜の腹を食いちぎる →沈没していく日本列島
小松左京は、実在の地名を出して具体的な描写をする作家である。
だが、このパートだけは隠喩表現。
この方が悲壮感が伝わる。
そして、この文章を読んで、心が震えるのは、やはり僕がこの列島に住む日本人だからなのだろう。
………………………………………
ラストではこんな描写がある。
「日本人はな……これから苦労するよ……。
この四つの島があるかぎり……帰る〝家〟があり、ふるさとがあり、次から次へと弟妹を生み、
自分と同じようにいつくしみ、あやし、育ててくれているおふくろがいたのじゃからな。
(中略)
だが……生きて逃れたたくさんの日本民族はな……これからが試練じゃ……家は沈み、橋は焼かれたのじゃ……。外の世界の荒波を、もう帰る島もなしに、渡っていかねばならん……。
いわば、これは、日本民族が、否応なしに「おとな」にならなければならないチャンスかもしれん……」
小松左京の日本人論である。
同一の言語、文化、価値観の中で平和に生きている日本人。
この中では、たいした対立も争いもなく、何となく甘えて生きていける。
ひとりひとりの日本人は総じて人が良くて善良だ。
しかし、外に出れば「長年苦労した、海千山千の、蒙昧で何もわからん民族」がいて、
その中で生きていかなければならない。
この認識を小松左京に植えつけたのは、おそらく1945年の敗戦だろう。
この時は、国が失われるかもしれなかった。
ドイツのように米ソで国が分割されるかもしれなかった。
しかし、米軍の数年の占領はあったが、何とかそれを免れた。
同一の言語、文化、価値観の中で生きる日本人は維持された。
小松左京が言うように、日本人は「おとな」にならなくてはいけないのかもしれない。
あるいは
司馬遼太郎が指摘したように「アジアの端にポツンとある」くらいの方がいいのかもしれない。
以前も書いたが、
小松左京はSF作家でありながら社会派で、現在読まれるべき作家である。
現在放映中のテレビドラマ版は明日(12日)最終回。
日本が沈みますよ。どんな映像を見せてくれるのか?
さて、原作の『日本沈没』では日本が沈むシーンをこんなふうに表現している。
北半球の半分をおおうユーラシア大陸の東端で、今、一頭の竜が死にかけていた。
玉を追う形で大きく身をうならせ、
尾をはね上げた体のいたるところから火と煙を噴き出し、
その全身は内部からこみ上げてくる痙攣(けいれん)によって、たえまなくうちふるえ、
かつて巍然(ぎぜん)とそびえたつ棘(とけ)の間に、緑の木々を生い繁らせていたかたい背は、
網の目のようにずたずたに切り裂かれ、その傷口からは、熱い血が脈打って流れ出していた。
──その柔らかい下腹を太古よりやさしく愛撫しつづけてきたあたたかな黒潮の底から、
今は冷たい死の顎(あぎと)が姿を現わし、
獰猛な鱶(ふか)の群れのように、身をひるがえしては、傷ついた竜の腹の肉を
一ひら、また一ひらと食いちぎり、果て知れぬ深海の底の胃袋へと呑み込んでいった。
日本列島を「竜」に例えた見事な「隠喩」の文章である。
・体のいたるところから噴き出す火と煙 →火山爆発
・内部からこみ上げてくる痙攣 →地震
・そびえたつ木々を生い繁らせたかたい背→列島を縦に貫く山脈群
・傷口から流れ出る熱い血 →溶岩
・黒潮の底から姿を現わす顎 →岩盤
・鱶の群れのように竜の腹を食いちぎる →沈没していく日本列島
小松左京は、実在の地名を出して具体的な描写をする作家である。
だが、このパートだけは隠喩表現。
この方が悲壮感が伝わる。
そして、この文章を読んで、心が震えるのは、やはり僕がこの列島に住む日本人だからなのだろう。
………………………………………
ラストではこんな描写がある。
「日本人はな……これから苦労するよ……。
この四つの島があるかぎり……帰る〝家〟があり、ふるさとがあり、次から次へと弟妹を生み、
自分と同じようにいつくしみ、あやし、育ててくれているおふくろがいたのじゃからな。
(中略)
だが……生きて逃れたたくさんの日本民族はな……これからが試練じゃ……家は沈み、橋は焼かれたのじゃ……。外の世界の荒波を、もう帰る島もなしに、渡っていかねばならん……。
いわば、これは、日本民族が、否応なしに「おとな」にならなければならないチャンスかもしれん……」
小松左京の日本人論である。
同一の言語、文化、価値観の中で平和に生きている日本人。
この中では、たいした対立も争いもなく、何となく甘えて生きていける。
ひとりひとりの日本人は総じて人が良くて善良だ。
しかし、外に出れば「長年苦労した、海千山千の、蒙昧で何もわからん民族」がいて、
その中で生きていかなければならない。
この認識を小松左京に植えつけたのは、おそらく1945年の敗戦だろう。
この時は、国が失われるかもしれなかった。
ドイツのように米ソで国が分割されるかもしれなかった。
しかし、米軍の数年の占領はあったが、何とかそれを免れた。
同一の言語、文化、価値観の中で生きる日本人は維持された。
小松左京が言うように、日本人は「おとな」にならなくてはいけないのかもしれない。
あるいは
司馬遼太郎が指摘したように「アジアの端にポツンとある」くらいの方がいいのかもしれない。
以前も書いたが、
小松左京はSF作家でありながら社会派で、現在読まれるべき作家である。
つくづく日本はおママゴトが大好きな島国なんですよ。
アジアの端にポツリと佇むおとぎの国。
言い得て妙ですね。
いつもありがとうございます。
象が転んださんの法事の記事読みました。
厄介な方がいるんですね。
日本は基本、村社会なんですよね。
個人として世界と渡り合っていく人は少ない気がします。
かく言う僕もそうなのですが。