ジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)の愛には、さまざまなものがある。
まずはミリエル司教によって教えられた<無償の愛>。
自分を無にして、与え続ける愛。
バルジャンはモントルイユで工場を経営し、マドレーヌ市長になって、人々を幸せにしようとする。
貧困に苦しんできただけに、『お金が人を幸せにもする』という発想はいかにもバルジャンらしい。
そんなバルジャンが大きな<無償の愛>の行為をする時がある。
別の人間がジャン・バルジャンとして捕まり、裁判を受けることを知った時の行動だ。
彼は裁判の場に行き、「その人はジャン・バルジャンじゃない。自分がバルジャンだ」と叫ぶ。
この名乗りをしなければ、バルジャンは一生マドレーヌ市長として、警察に追われることなく、穏やかに過ごせたのに。
しかし、彼はそんな保身を否定する。
自分の幸せのために無実の他人が犠牲になることが許せない。
まさに<無償の愛>だ。
しかし、バルジャンの<無償の愛>はコゼットの存在によって変わってくる。
<父親の愛>に変わる。
コゼットと暮らすことに大きな喜びを感じるバルジャン。
自分だけにしか頼る者がいないコゼットにバルジャンは愛を与え続ける。
そして幼いコゼットにとって、バルジャンはすべてである。
与えれば与えただけ、笑顔を返してくれる存在、日に日に成長して美しくなっていく存在でもある。
今まで独りで生きてきた彼にとって、そんな存在を得たことは衝撃であっただろう。
コゼットによって、バルジャンは孤独を癒され、希望を与えられ、逆に救われていたのかもしれない。
しかし、そんな存在が奪われる時が来る。
恋人マリウスの登場だ。
彼の登場でコゼットはバルジャンがすべてではなくなる。
今まで自分にしか向けられていなかったコゼットの愛が別の人間に向けられることになる。
ここでバルジャンは人生の第二の選択を迫られる。
革命のためにバリケードに立てこもるマリウス。
市民が呼応して立ち上がる気配はなく、軍隊は派遣され、革命は失敗で、このままではマリウスは死ぬしかない。
コゼットを失いたくないバルジャンにとっては好都合な状況だ。
しかし、彼はマリウスを助けにいく。
自分を無にして、コゼットとマリウスの幸せのために行動する。
このようにジャン・バルジャンの人生は<愛>で貫かれている。
その愛は、法の人ジャベール(ラッセル・クロウ)の厳格な心をも打ち砕いてしまう。
愛は強し。
しかし、愛の人ジャン・バルジャンが、コゼットを奪われたくないといったエゴに苦しみ、激しく葛藤したことも忘れてはならない。
愛を貫くことは困難な作業なのである。
だからこそ、ジャン・バルジャンの生涯は人の胸を打つ。
※追記
ジャン・バルジャンの成長したコゼットへの愛は<男としての愛>と解釈する評論家もいる。
確かに。
この作品についてはもうひとつのレビューを書きました。
『レ・ミゼラブル ②~貧しき人々・悲惨な人々』はこちら
まずはミリエル司教によって教えられた<無償の愛>。
自分を無にして、与え続ける愛。
バルジャンはモントルイユで工場を経営し、マドレーヌ市長になって、人々を幸せにしようとする。
貧困に苦しんできただけに、『お金が人を幸せにもする』という発想はいかにもバルジャンらしい。
そんなバルジャンが大きな<無償の愛>の行為をする時がある。
別の人間がジャン・バルジャンとして捕まり、裁判を受けることを知った時の行動だ。
彼は裁判の場に行き、「その人はジャン・バルジャンじゃない。自分がバルジャンだ」と叫ぶ。
この名乗りをしなければ、バルジャンは一生マドレーヌ市長として、警察に追われることなく、穏やかに過ごせたのに。
しかし、彼はそんな保身を否定する。
自分の幸せのために無実の他人が犠牲になることが許せない。
まさに<無償の愛>だ。
しかし、バルジャンの<無償の愛>はコゼットの存在によって変わってくる。
<父親の愛>に変わる。
コゼットと暮らすことに大きな喜びを感じるバルジャン。
自分だけにしか頼る者がいないコゼットにバルジャンは愛を与え続ける。
そして幼いコゼットにとって、バルジャンはすべてである。
与えれば与えただけ、笑顔を返してくれる存在、日に日に成長して美しくなっていく存在でもある。
今まで独りで生きてきた彼にとって、そんな存在を得たことは衝撃であっただろう。
コゼットによって、バルジャンは孤独を癒され、希望を与えられ、逆に救われていたのかもしれない。
しかし、そんな存在が奪われる時が来る。
恋人マリウスの登場だ。
彼の登場でコゼットはバルジャンがすべてではなくなる。
今まで自分にしか向けられていなかったコゼットの愛が別の人間に向けられることになる。
ここでバルジャンは人生の第二の選択を迫られる。
革命のためにバリケードに立てこもるマリウス。
市民が呼応して立ち上がる気配はなく、軍隊は派遣され、革命は失敗で、このままではマリウスは死ぬしかない。
コゼットを失いたくないバルジャンにとっては好都合な状況だ。
しかし、彼はマリウスを助けにいく。
自分を無にして、コゼットとマリウスの幸せのために行動する。
このようにジャン・バルジャンの人生は<愛>で貫かれている。
その愛は、法の人ジャベール(ラッセル・クロウ)の厳格な心をも打ち砕いてしまう。
愛は強し。
しかし、愛の人ジャン・バルジャンが、コゼットを奪われたくないといったエゴに苦しみ、激しく葛藤したことも忘れてはならない。
愛を貫くことは困難な作業なのである。
だからこそ、ジャン・バルジャンの生涯は人の胸を打つ。
※追記
ジャン・バルジャンの成長したコゼットへの愛は<男としての愛>と解釈する評論家もいる。
確かに。
この作品についてはもうひとつのレビューを書きました。
『レ・ミゼラブル ②~貧しき人々・悲惨な人々』はこちら
今年 最後になるでしょうね。
言い尽くされたことですが
娘に対する父親 & 息子に対する母親の心境でしょう。
失いたくは無いけれど
やはり 伴侶を得て普通の幸せを掴んで欲しいし
順送りだから仕方が無いと思います。
バルジャンの場合はコゼットと血が無いので
より一層 複雑な想いでしょう。
『薄桜記』 は お気に召しませんでしたか?
平清盛と違い 単純な話ですし
女優に華が無いのは否めませんから
男性受けはしないかもしれませんね。
私は 時代劇らしい所作の美しさに惹かれました。
いつもありがとうございます。
ぼくは『レ・ミゼラブル』という作品が好きで、キリスト教の<無償の愛>みたいなことにも憧れたりしました。
もっともぼくは俗な人間なので、その境地にはたどりつくことができず、日々を過ごしておりますが、バルジャンの生き様は、常にぼくの中にあるお手本です。
映画『レ・ミゼラブル』はファンティーヌ役のアン・ハサウェイさんの歌が凄かった!
歌を聴いて涙が出たのってひさしぶりでした。
『薄桜記』は、すみません! 挫折しました。
瞬間的に光るシーンはあるのですが、全体としては冗長な印象で、もっと情報量がほしい。
好みというのはやはりありますよね。
今年はありがとうございました。
よいお年をお迎え下さい。
私も「ああ無情」を子どもの時に読み、スーザン・ボイルさんの歌声で「レ・ミゼラブル」を振り返りと、大好きな作品です。<無償の愛>に憧れつつ、日常は・・・というのもご多分に洩れません。
ミュージカルはちょっと苦手だったのですが、歌は好きなので、足を運んだら、もぅ!素晴らしい!
映画ならではの圧倒的な映像と情感こもった歌声の響きに、感動しました。アン・ハサウェイさんの歌は本当に素晴らしかったですね。
年の終わりに素晴らしい作品を見ることが出来て、幸せだなぁと思いました。
わかばさんもご覧になりましたか。
>年の終わりに素晴らしい作品を見ることが出来て、幸せだなぁと思いました。
確かに。
キザな言い方ですが、素晴らしい作品って<心の栄養>ですよね。
日常生活で忘れがちな大切なことを思い出させてくれる。
アン・ハサウェイさんの歌は、ファンティーヌの境遇を知らなくても、歌だけで感動できるのではないかと思いました。
まさに歌の力ですよね。
それにスーザン・ボイルさんの歌での「レ・ミゼラブル」があるんですね。
すごく聞いてみたくなりました。
スーザン・ボイルさんの「夢やぶれて」は伸びやかな歌声で包んでくれるようで、むしろ勇気をもらう感じです。まだまだこれからよ~と宣言しているようで。(本筋とは違うかもしれませんね)
でも好きです。
来年は明るい良い年でありますように。まさに「明日は来る!」です。
情報ありがとうございます。
歌う人によって、伝わってくるものが違うんですね。
聴くのが楽しみになってきました。
新年あけましておめでとうございます。
良い年でありますように。
はじめまして、コメントありがとうございます。
救い。
キリスト教文化にいない人間にとって、これが一番理解しにくいんですよね。
『天国に行けるから良いことをしよう』では、あまりにも功利的すぎる。
実際のキリスト教はそんなことを言っているのではなく、もっと深いものなのでしょうが、このへんが理解しにくい。
仏教では、悪人正機説(=悪人こそが救われる)というのがありますが、ジャン・バルジャンについては、まさにこのことを思い出しました。
悪人ゆえに(もっとも彼は本当の悪人ではありませんが)、神父の愛の行為がより深く理解出来る。虐げられている人や罪人の気持ちがわかる。
こうして考えると、古今東西の宗教は皆、同じことを言っているのかもしれませんね。
ありがとうございます。
いろいろなことを考えさせていただきました。