「今まで値打ちのあったものが、古びて用無しになっただけ。
世の中の流れから見れば、1人の人間などけし粒ほどのものでしかない」
この横井小楠(山崎一)の言葉は、人間の真実なんですね。
現在でも、どんな時代にでも言えること。
こう考えると、がんばったり努力したりすること自体が虚しくなりますが、仕方がない。
五木寛之さん流に言うと、人間は「大河の一滴」、それを認め、引き受けて生きていくしかない。
ただ、今回の龍馬(福山雅治)が小南に異を唱えたように「されど!」と言いたくなるのも人間。
人間、簡単に悟りきれるものではありませんからね、自分はけし粒ではない、行動の結果実を実らせることが出来る、自分は偉大な存在になりうると考えずにはいられない。
というわけで、今回の内容は<禅問答><哲学問答>。
もうひとつの哲学問答は、『絶対的な価値はない』ということ。
正しいと思っていたことが、時代が変われば悪になる。立場が変われば悪になる。
たとえば公共事業。
昔は経済発展のための<善>であったが、今では利権の温床で環境破壊をもたらす<悪>。建設業者の立場に立てば<善>だが、環境団体の立場に立てば<悪>。
戦争中の八紘一宇という価値観も、戦後になれば180度否定された。
そして『物事に絶対的な価値はないのだから<狂信>はやめよ』というのが今回の主張。
それがそのまま攘夷という価値観を狂信する平太(大森南朋)に繋がっている。
問答としては半平太と加尾(広末涼子)の問答が面白い。
「わしは間違うちょらん。正しいことをしてきた」という半平太に加尾は言う。
「でも京で以蔵さんに人斬りをさせたではありませんか」
これに対し半平太はいろいろ理屈をこねていましたが、彼が信じてきた信念など、簡単にくつがえされてしまうものなんですね。
そして因果応報、やってきたことのツケは必ずやって来る。
というわけで今回は作家が自らの哲学を展開したわけですが、これがドラマとして面白いかというとイマイチ。
ドラマは感情ですからね。理屈や理論ではない。
収二郎(宮迫博之)の死も自己陶酔の中で終わってしまったし。
『人間はけし粒の様なもの』『絶対的な価値などない』というテーマを踏まえれば、別の死に方もあったと思うし。
「わしは志半ばで死ねない。まだやり残したことがある。けし粒のように死ぬのは嫌だ」とか「わしは間違っていたのか」とか。
収二郎に関しては掘り下げが足りなかったような気がしますね。
通常の攘夷論者の死になってしまった。
世の中の流れから見れば、1人の人間などけし粒ほどのものでしかない」
この横井小楠(山崎一)の言葉は、人間の真実なんですね。
現在でも、どんな時代にでも言えること。
こう考えると、がんばったり努力したりすること自体が虚しくなりますが、仕方がない。
五木寛之さん流に言うと、人間は「大河の一滴」、それを認め、引き受けて生きていくしかない。
ただ、今回の龍馬(福山雅治)が小南に異を唱えたように「されど!」と言いたくなるのも人間。
人間、簡単に悟りきれるものではありませんからね、自分はけし粒ではない、行動の結果実を実らせることが出来る、自分は偉大な存在になりうると考えずにはいられない。
というわけで、今回の内容は<禅問答><哲学問答>。
もうひとつの哲学問答は、『絶対的な価値はない』ということ。
正しいと思っていたことが、時代が変われば悪になる。立場が変われば悪になる。
たとえば公共事業。
昔は経済発展のための<善>であったが、今では利権の温床で環境破壊をもたらす<悪>。建設業者の立場に立てば<善>だが、環境団体の立場に立てば<悪>。
戦争中の八紘一宇という価値観も、戦後になれば180度否定された。
そして『物事に絶対的な価値はないのだから<狂信>はやめよ』というのが今回の主張。
それがそのまま攘夷という価値観を狂信する平太(大森南朋)に繋がっている。
問答としては半平太と加尾(広末涼子)の問答が面白い。
「わしは間違うちょらん。正しいことをしてきた」という半平太に加尾は言う。
「でも京で以蔵さんに人斬りをさせたではありませんか」
これに対し半平太はいろいろ理屈をこねていましたが、彼が信じてきた信念など、簡単にくつがえされてしまうものなんですね。
そして因果応報、やってきたことのツケは必ずやって来る。
というわけで今回は作家が自らの哲学を展開したわけですが、これがドラマとして面白いかというとイマイチ。
ドラマは感情ですからね。理屈や理論ではない。
収二郎(宮迫博之)の死も自己陶酔の中で終わってしまったし。
『人間はけし粒の様なもの』『絶対的な価値などない』というテーマを踏まえれば、別の死に方もあったと思うし。
「わしは志半ばで死ねない。まだやり残したことがある。けし粒のように死ぬのは嫌だ」とか「わしは間違っていたのか」とか。
収二郎に関しては掘り下げが足りなかったような気がしますね。
通常の攘夷論者の死になってしまった。
コメントありがとうございます。
>龍馬の驚嘆すべきところは、その「後知恵」から見てもほぼ「正解」の軌跡を歩み続けていたことです。
まさにそうですね。
頭の固い攘夷派あるいは佐幕派から見れば、龍馬の行動は、一体どっちの味方なのか、理解不能だったでしょうね。
だから、攘夷派からも佐幕派からも狙われ、<日本一の命を狙われている男>になってしまった。
鳩山首相のようにブレている、優柔不断ととられたかもしれません。
でも龍馬の根底にあるのは<やさしさ>なんですよね。
争いごとからは何も生まれないという根本思想。
この点は、ブレていないんですよね。
実に面白い個性だと思います。
たしかに私は21世紀の吉田東洋なのかもしれません(笑)。
実は本放送は出張先のホテルで若干アルコール混じりで見ました。冒頭部分も見逃していたので、帰宅後改めて全体を見直してみて、前のコメントは少し武市や収二郎に冷たすぎたか、とも思いました。
私が彼らに冷たいのは、当人たちがいかに「自分は正しい」と確信していても、客観的には「攘夷」-勝や龍馬の「非戦攘夷」は別として単純に対外戦争を挑む普通の意味での攘夷-は間違っていたとの思いがあるからだと思います。無論それは21世紀の視点から見た「後知恵」で、これも<現代的な解釈>ということになるかと思いますが。
龍馬の驚嘆すべきところは、その「後知恵」から見てもほぼ「正解」の軌跡を歩み続けていたことです。
しかし、現実の政治勢力はいずれも「正解」からはどこかでずれているので、龍馬は様々な立場に接近したり離れたり-その場合それまで近かった勢力からは「裏切り」と見られる-することになります。
脱藩浪士は最も過激な攘夷派志士のはずが、開国派勝の門弟となり幕府の海軍塾で学ぶ。しかしやがて薩長同盟を結ばせ第二次長州征伐には海援隊を率いて長州側に参戦して幕府海軍と戦う。かと思えば山内容堂を通して大政奉還を献策するが、これはかつての同志薩長の倒幕派を敵に回すことを意味していた。
「Jin」の16巻で、勝先生は「今龍馬は日本一の命を狙われている男さ…」と解説していました。
いつもありがとうございます。
大河ドラマでよく論じられるのが、人物を<現代的な解釈>で描いていいのか、ということですよね。
たとえば、今回の収二郎の死は当時の志士の死としては正しいのでしょう。
でも、現代的な解釈を加え人間として描くと物足りなくなる。
>「加尾のことでは済まなかった」
と言わせたくなる。
僕も、ドラマは現代の人間が共感しなくてはならない→大河ドラマの現代人の視点で描かれるべきという<現代的解釈派>ですが、難しい所ですよね。
ただ収二郎に関しては物足りなかった。
志半ばであることや容堂への恨み辛みがあっていい気がしました。龍馬についてどう思っていたのかも。
それにしても毎回書きますが、TEPOさんの武市嫌いもなかなかですね。
武市は腹を三段に切る見事な切腹だったそうですから、悔恨のない死だったのかもしれません。
さて、ドラマではどう描かれるんでしょう?
まったく同感です。
私にとって収二郎は武市以上に共感しにくいキャラです。武市には曲がりなりにも「白と黒」の二面性が描かれており、現在の白武市はおそらく本物のようです。しかしそれでも私がなんとか共感-せめて同情-できるかどうかは、まだまだ今後の描かれ方次第ですが。
これに対して収二郎は完全に黒武市の腰巾着で武市から独善と傲慢だけを受け継いだ武市教信者にすぎませんでした。たとえば、加尾の一件では武市でさえ龍馬に同情を示していたのに対し、収二郎は都合上龍馬を土佐勤王党に歓迎せざるを得なくなった場面でも「加尾のことはもういいから」などと言っている。あの場面で収二郎の口からは当然「加尾のことでは済まなかった」という言葉が出るのが筋のはず。
今になって収二郎が凄惨な拷問を受けた末に命を落としたとしても、龍馬がなぜあれほどに悲歎に暮れるのか説得力に欠け、龍馬のお人好しな優しさだけが突出した印象を受けます。