植草甚一という人がいた。
自分の趣味と好奇心に殉じた自由人であり、そのライフスタイルは70年代後半ブームになった。
その守備範囲は、
ジャズ、ロック、映画、演劇、ミステリ、海外コミックス、洋書、ヒッピー文化、ボクシング……。
今で言うサブカルである。
その著書は、「ぼくは散歩と雑学が好き」「ワンダー植草甚一ランド」「映画だけしか頭になかった」など。
晶文社から出ていた、植草甚一スクラップブック(1976~78刊行)は装丁も洒落ていて、僕も集めたなぁ。
では、なぜ植草甚一はブームになったのだろう?
前回も書いたとおり、70年代は、学生運動の政治の時代が終わり、社会は高度経済成長、消費の時代に入った。
人々は会社に入り、サラリーマンになり、お金を稼ぎ、家族をつくり、新しい家電製品や自動車、家を買った。
それが生きることそのものになった。
だが、それに少し違和感を覚える人がいた。
たとえば、
・消費社会はいいけど、家電や自動車や家じゃないよな、と考える人。
・サラリーマンや家庭を築くのもいいけど、当たり前過ぎて、つまらないよな、と考える人。
・組織の中で汲々とするより、自分のスタイルで、もっと自由に生きたいよな、と考える人。
そんな人たちが、植草甚一に走った。
植草さんのジャンルって、本や雑貨やマッチ箱で、車や家と比べたら安いものですしね。
実際、植草さんは貧乏だった。
こんな植草さんについて、哲学者の鶴見俊輔さんはこう語っている。
「人間は普通に生きてることに価値があるのだ。楽をして生きられればいいじゃないか。そこに(植草さんは)どっかと腰をおろしていた。それが戦後になって花開いたと思うんだな」
政治や、画一的な消費社会から距離を置いて、自分のスタイルで気持ちよく生きていった植草甚一。
現在も、国家やイデオロギーなどに惑わされず、各自が自分のスタイルで生きていけば、文化はもっと豊かになるし、世の中は平和になるだろう。
※参考資料「不良老人伝・植草甚一」(月刊「望星」・東海教育研究所)
自分の趣味と好奇心に殉じた自由人であり、そのライフスタイルは70年代後半ブームになった。
その守備範囲は、
ジャズ、ロック、映画、演劇、ミステリ、海外コミックス、洋書、ヒッピー文化、ボクシング……。
今で言うサブカルである。
その著書は、「ぼくは散歩と雑学が好き」「ワンダー植草甚一ランド」「映画だけしか頭になかった」など。
晶文社から出ていた、植草甚一スクラップブック(1976~78刊行)は装丁も洒落ていて、僕も集めたなぁ。
では、なぜ植草甚一はブームになったのだろう?
前回も書いたとおり、70年代は、学生運動の政治の時代が終わり、社会は高度経済成長、消費の時代に入った。
人々は会社に入り、サラリーマンになり、お金を稼ぎ、家族をつくり、新しい家電製品や自動車、家を買った。
それが生きることそのものになった。
だが、それに少し違和感を覚える人がいた。
たとえば、
・消費社会はいいけど、家電や自動車や家じゃないよな、と考える人。
・サラリーマンや家庭を築くのもいいけど、当たり前過ぎて、つまらないよな、と考える人。
・組織の中で汲々とするより、自分のスタイルで、もっと自由に生きたいよな、と考える人。
そんな人たちが、植草甚一に走った。
植草さんのジャンルって、本や雑貨やマッチ箱で、車や家と比べたら安いものですしね。
実際、植草さんは貧乏だった。
こんな植草さんについて、哲学者の鶴見俊輔さんはこう語っている。
「人間は普通に生きてることに価値があるのだ。楽をして生きられればいいじゃないか。そこに(植草さんは)どっかと腰をおろしていた。それが戦後になって花開いたと思うんだな」
政治や、画一的な消費社会から距離を置いて、自分のスタイルで気持ちよく生きていった植草甚一。
現在も、国家やイデオロギーなどに惑わされず、各自が自分のスタイルで生きていけば、文化はもっと豊かになるし、世の中は平和になるだろう。
※参考資料「不良老人伝・植草甚一」(月刊「望星」・東海教育研究所)
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