「もう一度、あの頃のよかった日々にしなければならぬ」
「もう一度、あの幸せな日々を取り戻さねばならぬ」
過去に生きる人がいる。
過去の美しい思い出にとらわれて前に進めない人……。
田鶴(関水渚)がそうだ。
田鶴は「今川家」にもとらわれている。
家康(松本潤)に対して、
「今川様のご恩を忘れ、悪い方へ悪い方へ進んでいる」
しかし、世の中は動いているのだ。
「今川の世は終わったのです」
「信玄は今川を見限ったぞ」
「駿府か……欲しくなって来た」
力を失った今川家はもはや強者に喰われるしかない。
信長(岡田准一)は足利将軍を担いで上洛を目論見、
信玄(阿部寛)は西に進もうとしている。
家康も過去や今川にとらわれていたら生きていけない。
「駿河と遠江、相互に切り取り次第で、如何か?」
放っておいたら信玄に遠江を取られてしまう。
遠江をとられたら、今度は三河が危うくなる。
この世は純粋でまっすぐでは生きていけないのだ。
まっすぐな田鶴は死ぬべくして死んだ。
本人もそれがわかっているようだったが、おのれの真に殉じた。
現在、田鶴は『椿姫観音』として祀られているらしい。
椿は、瀬名(有村架純)いはく、「世に流されずおのれを貫く花」。
田鶴を椿にたとえて描いた今回のエピソードはなかなか文学的だった。
あの幸せだった頃に戻るには「死」しかなかったというのが哀しい。
『椿姫観音』は浜松にあるのか。
一度、行ってみたい。
ちなみに瀬名墓所「月窟廟」は、浜松城を挟んで田鶴が東、瀬名が西にあるらしい。
ふたりの友情はこんな所にもあらわれている。
信玄との会談のシーンは、予想どおりのフリとオチだった。
「信玄は臆病者だ」
「甲斐の虎ではなく猫だ」
「ニャー、ニャンニャン」
そこへ信玄登場。
「わしは猫が好きだ。好きな時に寝て、好きな時に食う」
家康たちは「ひぇ~っ!」
忍びも配置していたし、瀬名の好きな栗も用意していたし、
信玄の方がはるかに格が違う。
お茶をお盆に乗せてやって来た時は笑ってしまったが……。
白兎はまだまだ苦労しそうだ。
「もう一度、あの幸せな日々を取り戻さねばならぬ」
過去に生きる人がいる。
過去の美しい思い出にとらわれて前に進めない人……。
田鶴(関水渚)がそうだ。
田鶴は「今川家」にもとらわれている。
家康(松本潤)に対して、
「今川様のご恩を忘れ、悪い方へ悪い方へ進んでいる」
しかし、世の中は動いているのだ。
「今川の世は終わったのです」
「信玄は今川を見限ったぞ」
「駿府か……欲しくなって来た」
力を失った今川家はもはや強者に喰われるしかない。
信長(岡田准一)は足利将軍を担いで上洛を目論見、
信玄(阿部寛)は西に進もうとしている。
家康も過去や今川にとらわれていたら生きていけない。
「駿河と遠江、相互に切り取り次第で、如何か?」
放っておいたら信玄に遠江を取られてしまう。
遠江をとられたら、今度は三河が危うくなる。
この世は純粋でまっすぐでは生きていけないのだ。
まっすぐな田鶴は死ぬべくして死んだ。
本人もそれがわかっているようだったが、おのれの真に殉じた。
現在、田鶴は『椿姫観音』として祀られているらしい。
椿は、瀬名(有村架純)いはく、「世に流されずおのれを貫く花」。
田鶴を椿にたとえて描いた今回のエピソードはなかなか文学的だった。
あの幸せだった頃に戻るには「死」しかなかったというのが哀しい。
『椿姫観音』は浜松にあるのか。
一度、行ってみたい。
ちなみに瀬名墓所「月窟廟」は、浜松城を挟んで田鶴が東、瀬名が西にあるらしい。
ふたりの友情はこんな所にもあらわれている。
信玄との会談のシーンは、予想どおりのフリとオチだった。
「信玄は臆病者だ」
「甲斐の虎ではなく猫だ」
「ニャー、ニャンニャン」
そこへ信玄登場。
「わしは猫が好きだ。好きな時に寝て、好きな時に食う」
家康たちは「ひぇ~っ!」
忍びも配置していたし、瀬名の好きな栗も用意していたし、
信玄の方がはるかに格が違う。
お茶をお盆に乗せてやって来た時は笑ってしまったが……。
白兎はまだまだ苦労しそうだ。
「夫の死後、夫の代わりに城を守り城兵や侍女とともに徳川家康と戦い討死した」というのが一応の「史実」
家康視点の本作では「敵」キャラなので、差し当たり二つの描き方が考えられます。
(A)あくまでも「敵」・「怖い女」として描く。
(B)「敵ながら天晴れな女性」として描く
無論(A)(B)の複合や、それ以外の描き方もあるでしょうが。
また、「親友」としての瀬名との関係についても
(ア)友情関係が壊れたとする。その場合、瀬名側からか、田鶴側からかの両方の可能性があります。
(イ)友情関係は続いたとする。
本作で描かれた田鶴絡みのエピソードは以下のフェイズからなります。
①田鶴が瀬名救出作戦をスパイとして暴き、その結果瀬名を含む関口一族は処刑されそうになる。
②徳川軍が田鶴の兄鵜殿長照を討ち、囚われた甥たちと瀬名とが人質交換となる。
③夫飯尾連龍が家康と接近したことを田鶴が密告したため連龍が今川氏真に誅される。
④引間城の戦いで戦死。
今回は(B)で描こうとしていたようですが、(B)で描くためには視聴者に対して「敵ながら共感できる」材料を提供しなければなりません。
しかし、仰るとおり田鶴は「今川家」にとらわれ「前に進めない人」でしかなかったので、共感材料としては弱すぎたと思います。
瀬名と田鶴との友情についても、①は瀬名側から、②は田鶴側から(ア)が暗示されます。
①②にもかかわらず(イ)とするためにば、何か「感動的なエピソード」の一つもなければならない筈でした。
むしろ(A)の描き方に徹した方がキャラとして活きたような気がしました。
③は明らかに(A)を暗示していましたから。
①では、田鶴は自分の行動が瀬名と関口夫妻を死地に追いやることを予想していなかったとされていますが、これは「浅はか」とも言える甘さ。
密告によって夫を殺すほどの「忠義の鬼」ならば、友を死に追いやることなど何とも思わない筈です。
つまり、①と③とがチグハグなわけです。
①の「甘さ」から③の「鬼」へと変貌してゆく描写でもあれば話は別ですが。
ところで、信長、信玄の前では、家康はたしかにまだまだ「白兎」ですね。
石川数正による「格付けゲージ」が可笑しかったと思います。
詳細な分析ありがとうございます。
>田鶴は「今川家」にとらわれ「前に進めない人」でしかなかったので、共感材料としては弱すぎたと思います。
僕も「過去にとらわれず前に進もう派」なので、田鶴への共感度は薄いのですが、おそらく彼女は死にたかったんでしょうね。
今川の世を愛する田鶴にとって今の世界は「醜い世界」。
家康や夫は裏切り者にしか見えない。
それに屈することは自分を裏切ること。
自分に嘘をついて生きるくらいなら死んだ方がマシ。
唯一の救いは瀬名ですが、現実では会いにいけないので、死んで会いにいった。
これが僕の田鶴の理解です。
あるいは以前の僕は「どんなことをしても生きろ」「信念や思想に殉じるなんて愚かなこと派」だったのですが、「進撃の巨人」のエレンもそうですが、「死によって救いを求める人」を少し理解できるようになりました。
この世を醜いと思った時、人はどう行動するか?
前に進む家康は醜い世を美しい穏やかな世に変えたいと思い、美しい過去にとらわれた田鶴はおさらばしたいと考えているようです。
田鶴は重荷を背負う気力がなくなってしまったんでしょうね。
引っ掛かるのは「田鶴の行動が瀬名と関口夫妻を死地に追いやったこと」ですよね。
このエピソードは要らなかったかもしれません。
一方、田鶴はこのことに罪の意識を抱いていて、醜い自分を許せなくて死を望んだのかも? とも考えてしまいます。
田鶴への共感度。
脚本の欠点をあげれば、これまで田鶴を「信念の人」「今川の世を愛する人」として描いて来なかったことでしょうね。
これらが今回、唐突に出て来て、回想で語られたことは上手くない作劇ですよね。
次回は今川氏真が描かれるようですが、氏真は家康に庇護されて江戸時代まで生きた人物。
田鶴とは対照的な生き方なので、どう描かれるか、楽しみにしています。
戦国武将であっても、個人の力でどれだけ歴史を動かせるのかといえば、けっこう限定的と思っています…
信長とか秀吉とか家康とか、ああいった偉い戦国武将でも、歴史の流れの中でもみくちゃにされて、アップアップしながら、必死に生き残っていたと考えています。
ところが、大河ドラマに出てくる戦国武将って「偉そうに『うむ!』と決断すると、歴史の流れが大きく変わる」という史観ですね。
まあ、今のところ、岡田信長くんは「うむ!」的な人でしょうし、松本家康ちゃんは「アップアップしている白ウサギ」ですね。
さて、今回の脚本を書いている人が何を考えているのか、少し気になってきました。
「アップアップの家康」をずっと続けるんでしょうか、それとも偉そうな「うむ!」的武将に「成長する」ように持っていくんでしょうか。
今までの大河のやり方で言えば「うむ!」路線に切り替えないと、視聴率は稼げませんけど…
これから家康が順調に勝ち進んで大物になって「うむ!」サイドの人になるだけであれば、まあ、例年通りのつまらない大河かな…
という皮肉っぽい見方になってしまいます。
済みません…
いつもありがとうございます。
>戦国武将って、そんなにスゴいですかね?
まあ、「英雄譚」は大衆の求めるものでもありますし、NHKと言えども視聴率は気にせざるを得ず、やってしまうんですよね。
『雑兵物語』読みました!
彼らを主人公にしたら面白そうですね。
雑兵たちは戦国武将をどのように見ていたのでしょう?
その視点で戦国武将を描くと新しいものが出て来るかもしれません。
また、かもよしひささんの解説によると、蜂須賀小六や服部半蔵や雑賀孫市や根来衆は雑兵の系譜に属するもののようですから、彼らを主人公にするのはありかもしれません。
僕も、秀吉よりは蜂須賀小六、家康よりは服部半蔵、信長よりは雑賀孫市が好きなんですよね。
たびたび引用する、小池一夫原作のコミック『半蔵の門』は僕の愛読書ですし、司馬遼太郎の『尻啖え孫市』も面白い作品でした。
今作の家康に関しては「うむ!」にはならず、最後まで「どうする?」と迷い続ける人物になる気がします。
ゲーム『信長の野望』をやる時も、雑賀孫市が当主の「鈴木家」でプレイします!
鈴木家は弱小ですが、鉄砲隊が強く、隣の石山本願寺を獲れば、比較的簡単に日本統一ができるんですよね。
ひさしぶりに『信長の野望』をやりたくなって来ました。
シブいですね…
蜂須賀ファミリーは、その後阿波徳島藩の藩主となり、明治になって華族に列せされ、侯爵になったそうです。
昔の大河で、大仁田厚が演じた泥臭いイメージが強烈にあるので、明治以降の侯爵家とのギャップが面白いといえば、面白いです。
ありがとうございます。
大河ドラマ的な「戦国武将大活躍」とは大違いですね。
「矢傷を負ったらオシッコで洗え」
といった話もある一方で
「生首は重いから足手まといになる、クビを切り取るときは慎重に」
と言った生々しい注意もあります。
結局、生き残ることを第一に考えると、身もフタもない話になるんでしょう。
それから、序文にあった明治初期の東京の混乱ですが、御一新などと言ってみても、やってたことはケンカ狼藉レベルで、結局これかよ、というため息と、苦々しさですね。
そう、蜂須賀家、明治で登場するんですよね。
いろいろ繋がっています。
ちなみに本作で登場した夏目広次は夏目漱石のご先祖さまらしいです。
「雑兵物語」は、ここで書かれたいくさのノウハウが幕末まで大事に伝承されていて、近代的な西洋式軍隊にかなわなかった、という話も面白かったですね。
鎧を貫通する銃弾がある以上、もはや鎧は不要で、自由に動ける歩兵の兵装の方が有効だった。
武士のようないくさの専門家は時代遅れで、普通の市民が銃を持って戦う軍隊をつくった方が合理的。
高杉晋作はまさにそれをやったんですよね。
その結果として成立した明治新政府は、徴兵制になるわけです…
とはいっても、庶民だって自分の暮らしがあるわけで、すべての日本人に「我が身を捨てて愛国的兵士になるほどの覚悟があった」わけでもないので、徴兵されたことを誇りに思うように思わせる「社会的装置」が必要になったんでしょうね。
その「社会的装置」が、結局「大君の辺にこそ死なめ」といった愛国歌謡や特攻方面に振り切ったことを考えると、こういった「長州の偉い人」の行いを「歴史の転換点をつくった英雄」と、素直に肯定できない自分がいます。
いろいろめんどくさいことを言って、済みません…
>徴兵されたことを誇りに思うように思わせる「社会的装置」が必要になったんでしょうね。
ですよね。
松本清張の『象徴の設計』という作品で、そのことが詳しく書かれていました。
推進したのは山県有朋。
実に面白い本でした。